山逢の里キャンプ場

第九話「天国から地獄へ落ちる。でも、肉は我慢できない」

 素晴らしかった。

 和のイメージを活かした建物、広々とした内風呂、自然の雰囲気を楽しめる露天の岩風呂、ライトアップでおしゃれな足湯、そして渡り廊下でつながれた中庭、ゆっくり休憩できる畳の大広間など、泊はここ【星音の湯】が楽しめる【星音の宿】を目指して旅行しに来てもいいと思ったぐらいだ。

 もちろん高校生の身分では贅沢なのだが、温泉だけでもまた来たいと思ったぐらいだ。


(まさに極楽極楽……って感じだったんだけど……これは……)


 しかしキャンプ場に戻ると、天国から地獄に叩き落された気分だった。


 サイトの地面がびしょびしょ。

 テーブルがびしょびしょ。

 椅子がびしょびしょ。

 バイクがびしょびしょ。


 そこまでは、キャンプ場に戻ってくるまでの想定内だった。

 しかし、さらにもう一つ濡れているものがあったのだ。


「なんで……なんで閉め切ったテントの中の床が……湿っておるのかね、ホームズ?」


「俺はホームズじゃないが……このテントの安さ所以の防水性の低さがもろにでたのかもな」


 ソロの回答に、泊は一九八〇円というテントの値段を思い出す。


「こんなに簡単に貫通するものなんですか……」


「まあ、確かにひどすぎるな、これは。このテントの生地、ポリエステルだろうけど……フロア、本当に二一〇デニールあるのか……。PUポリウレタン防水加工も怪しいし、シームシールもひどいな。こんなの縫い目から水が入っても当たり前だ……」


「ほむ……。すいませんが、何を言っているのかわからないので、日本語に翻訳してもらえますか?」


「……ひどい作りだ」


「すごくわかりました」


「簡単に言えば、テントの雨への耐性は、素材、デニールで表す糸の太さ、防水加工などが影響する」


「ほむ。デニールはタイツと同じ単位ですね」


「そうだな。わかりやすい数字的には、ミリメートルで表す耐水圧というのがある。これが日本なら一五〇〇ミリメートルあればいいと言われるが、最近はゲリラ豪雨とかもあるから、個人的には最低二〇〇〇は欲しい。床は五〇〇〇必要だ。まあ、耐水圧もデニールも数字が大きければいいというわけじゃないがな……」


「ちょっ、ちょっと待ってください」


 泊は慌ててウェストバッグから小さなメモノートとペンを取りだす。

 そして構えると、ソロの顔を見る。


「ほむ。準備完了。お願いします」


「……詳しくはウェブで」


「せちがらい……」


「ググレカスという奴だ。調べればすぐに出てくる。あちらこちらで書かれている話だからな。それよりも、グランドシートも敷かなかったのか?」


「グランドシート? 初めて聞く名前だね、ワトソンくん」


「俺はホームズじゃなかったのかよ。……テントの下に敷くシートのことだ。専用の物もあるが、最悪レジャーシートみたいなものでもいい。それをテントの設置面積より一回り小さくして利用する。とにかく防水性のあるシートを敷いておけば、ここまでにならなかったかもな。テントの汚れ防止にもなるし」


「ほむ。グランドシート……防水……レジャーシートでも可と」


 泊はそのままノートに記載する。

 なにか小説のネタになるかもしれないと思ったのだ。


(だけど……なんか今さらだな、こんな話。もう詰んだ感じだし……)


 まだ雨は降っている。

 今はソロの立てたタープの下で雨をしのいでいるが、いつまでもここにいるわけにはいかない。

 だからと言って自分のサイトに戻っても、雨の中でお湯を沸かすこともできない。

 狭い一人用テントの中で火を使うのも怖い。

 これではカップラーメンさえ食べられない。

 本気で湯を沸かす異能力が欲しくなる。

 こんな事ならば帰りにコンビニでも寄ってもらえばよかったと思うが、後の祭りだ。


 とにかく食事をとることはできない。

 ならば、もう寝てしまうかと思うが、テントの中はすっかりしっとりである。

 とても眠れる状態ではない。

 踏んだり蹴ったり。

 思わずテントを呆然と見つめてしまう。


「どーすりゃいいんでしょうね、これ……」


「自分で考えるんだな」


 独り言のような呟きに返ってきたのは、わりと冷たい言葉。

 泊は思わず、振りかえってソロの顔を見る。


「わかっているとは思うが、ソロキャンパーのソロは『単独』という意味だ。つまり、自立できるのが前提になる。そのために必要なのが、事前準備だ。それがどれだけできるかで、キャンプを楽しめるかどうかが、ほぼ決まる」


「…………」


「きみはそれを怠った。高校生だろうがなんだろうが、ソロキャンパーとして来たのなら、この後も自分で考えて、自分で何とかするために動かなければならない」


「ほむ……そう……ですよね……」


 泊はそれしか言えず、また自分のテントを見る。

 確かに言われたとおりだと納得する。

 自分は思いつきで行動して、下調べもしないでやってきた。

 いつもの調子で、「楽しいだろう」「なんとかなるだろう」という甘さでこうなった。

 ある意味でなるべくしてなった結果なのだろう。


 しかし、それでもこの結果は辛い。


「キャンプになんて、来なければよかったなぁ……」


 晶と遙の言った通りだった。

 キャンプなんて金だけかかって、面倒で疲れるだけだ。

 温泉は気持ちよかったけど、それなら温泉宿に泊まった方がゆっくり楽しめたはずである。

 こんなことならば、やはりご老人に声をかけられるのを我慢して、図書館で書いていた方がよかったのかもしれない。


(ほむ。明日……帰ろうか……)


 早朝には晴れているはずだ。

 キャンセル料金は戻ってこないが、これ以上はここにいても楽しめそうにない。

 バイクが乾いたら帰ってのんびりしたほうがいいじゃないか。


「きみがここに来た時、俺が声をかけたのを覚えているか?」


 そう思ったタイミングで、背後からよくわからない質問が投げられた。

 ふりむくとソロは椅子に腰かけ、テーブルにシングルガスコンロをセットしているところだった。

 泊はその様子を見ながら、到着したときのことを思い出す。


「ほむ。確か『こんにちは』と声をかけられました。不審者の声かけ案件で通報しようかと思いました」


「どんだけ通報するのが好きなんだ、きみは……」


「すいません。冗談です」


「余裕あるな……」


 そうではない。

 本当は余裕がなくても、バカを言っていないと気が重くなる。


「話を戻すが、なんで声をかけたかわかるか?」


「普通に……マナーですよね?」


「もちろん、それもある。でもな、俺がきみに声をかけたのは、それだけじゃない」


「ほむ。わたしがかわいいからですね。よく『かわいいね』って声をかけられます」


「もう冗談はよせ」


「いや、今のはわりと本気なんですが……違うんですか?」


「違う」


「……キッパリ言いますね」


「かわいいからと女子高生に声をかけたら、まさに通報事案だろうが。……俺がきみに声をかけたのは、からだ」


「……はい?」


 ソロがコンロに火をつけると、その上に小さな鉄の鍋を置いた。

 そして箸で白い塊を乗せる。

 LEDライトとコンロの光の中で、その白い塊が溶けながら鍋の上で踊りだす。


 泊はそれをボーッと見ながら話を聞く。


「グループキャンプなら、困った時にグループ内で助けてくれる者もいるだろう。しかし、ソロキャンパーは自分で責任をもち、自分で自分を助けるのが基本だ」


 鍋の上で踊りだしたのは、どうやら牛脂らしかった。

 独特の香りが周囲に漂いだす。


「だが、そうは言っても自分一人の力には限界がある。そんな時、どうするか? キャンプ場でもない大自然の中にソロならば、どうにもならないかもしれないが、キャンプ場には例えばキャンプ場の管理者がいるかもしれない。ならば迷惑をかけてしまうが、相談してみるのも手だろう。キャンプ場で死人が出るよりはマシだからな」


 そう言いながらソロが、今度は小さな椀を用意した。

 そして卵を割って、それを溶きはじめる。


「そして、他にも仲間がいる」


「……仲間?」


「そうだ。ここにいるソロキャンパーは、一人だが独りじゃない・・・・・・・・・・。同じキャンプ場でキャンプを楽しむ仲間だ。きみも言ったじゃないか。俺たちは、だ。違うか?」


「ほむ。……そうか。ソロだけど……同じ場所にいる……」


「何度も言うが、ソロキャンパーは自己責任で考え、行動しなければならない……が、必ずしもすべてを一人で解決しろと、言っているわけじゃない。考えて本当にどうにもならなくなったら助けを求めるのも、判断のひとつだと思う」


「ほむ……」


「だから、俺は少なくとも近くにいるソロキャンパーには挨拶をする。『互いにキャンプを楽しもう』『でも本当に困ったら力になるぜ』『俺はここにいる』という意味をこめてな」


「……ソロさん……」


 それは反省をうながしたあとでの救済の提案。

 しかしその救済さえも、自分で考えて自分から動くべきだと教えられる。


「ありがとうございます、ソロさん……」


 後ろ手に二つにわけて結んだお下げの長髪が地面につきそうな勢いで、泊は深々と頭をさげた。


「ちなみに湯冷めしそうだからと、温泉への車に便乗を頼むのは『本当に困った時』にはならないからな」


「――すいませんでしたっ!」


 頭を上げずに、そのまま謝罪へと移行した。

 自分でも少し図々しいとは自覚していたことだ。

 でも、あの時は不思議と、この目の前の男に甘えたくなったのだ。

 しかし、もう甘えはよくない。

 心を入れ替える。

 、これから頼むこと以上の迷惑をかけるわけにはいかない。


「つきましては、お願いがあるのですが――って……」


 顔を上げて、泊はつい言葉を詰まらせた。

 ソロが片手に持っているものに目がいく。


「それ……お肉ですよね?」


「ん? ああ。そうだが」


「……ず、ずいぶんと立派な霜降り肉で……」


「ああ。すき焼きをやろうかと思ってな」


「すき焼き……」


「グランピングで豪勢なキャンプと言うことで、肉も奮発してA五ランクの和牛を用意してみた」


「A五和牛……」


「これをこう……」


 肉が一枚、箸でつままれる。

 そして牛脂が溶けた鍋に広げられた。


 刹那、わきあがるジューッという音と、香り立つ白い湯気の競演。

 一瞬で赤からピンク、そして金茶色に変わっていく。

 そこに注がれる、たれ。

 すき焼きのたれ。

 また変身する肉。

 鼻腔をくすぐる甘くてしょっぱい香りとともに、赤褐色を含んだ黒となる。


(否、それは黒ではなくくろ……)


 そして、また箸でつままれる。


 そして、卵で金の衣を身に纏う。


 そして……そして……そして……。


 ソロの口の中に消えていく……。


「うん……うまいな。とろけていく……。これはビールが進みそうだ」


 言いながら、まさに片手で缶ビールをプシュッと開けた。

 雨音よりも大きなゴキュゴキュという音を立てて、その金色であろう液体を呑みこんでいく。

 トドメは、もちろん「プハーッ」だ。


「……ああ。すまん。それでお願いを聞こうか?」


「……あ、はい。ソロキャンパーとして未熟で恥ずかしいお話なのですが、テントも濡れてしまい、今夜の寝床もなくて――」


 また追加される肉が、鍋の上で縮みながら脂を溶かす。


「そこでお願いなのですが――」


 ジュウジュウと音を鳴らす鍋に、またタレが少し注がれる。

 一気に跳ね上がる食欲を刺激する音の乱舞が、山間の闇に響く。


「――ぜひぜひ――」


 絡められる卵。

 それは我慢の限界。


「――ぜひ、そのA五ランクの肉をわたくしめにも味わわせてくださいませ!」


「寝床はいいのかよ……」


「よくありませんが、腹ぺこな育ち盛りの女子高生に対して、これはさすがにひどくないですか、ソロさん!」


「……すまん。いじめすぎたか」


 泊は瞳に涙をため、ちょっと泣きそうになっていた。

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