明日の黒板

古森史郎

秘められたメッセージ

 例年よりも早く校庭の桜の花が咲く。

 風に舞う花吹雪と、赤土のグランドに一周三〇〇メートルのトラックが引かれた白線は、筒を持った卒業生たちの足跡でみるみるうちに消されていった。


 明日からは皆、この校舎を訪れることは滅多にないだろう。


 卒業式、このイベントは待ち遠しくもあり、来てほしくない思いもあった。

 今まで仲が良かった奴も悪かった奴も、同じ校舎で三年の間一緒に過ごしたことが、全て思い出の中に押し込められてしまう。だけど、あいつだけはこのまま閉じ込めたくなかった。これから先もあいつと思い出を作れないか――。


 二年生の一学期末の四時限目、僕は宿題の英語の作文を発表していた。


「One day my mother told me, did you return that lip cream you got from your boyfriend? 」

「Yes mom, I have returned it every day. 」

「On his …… lips !!」


 先生は僕の頭をこつんと殴った。


 一人だけケラケラ笑う奴がいる。普段から目立たない、今どきおかっぱ頭で眼鏡を掛けた奴。男子生徒からは一年生のときからずっと無視され続けていた、完全ノーマーク的な存在。僕の席から一列あいだをおいて左斜め後ろに座っていた。


(なんで笑ってるんだ、あいつ? 確か春子だったな奴の名前)


 チラッと春子の顔を見る。春子も眼鏡ごしに僕を見ている……レンズに窓ガラスが映って春子の目の瞳はよく見えなかった。


 五時限目が終わり、教科書やらノートを鞄に詰め込んで皆帰る準備をしていた。僕はさりげなく春子に近づいた。


「何で笑ったんだよ、お前!」

「だって夏男さん、すごく面白かったから、うふふっ」


「先生に殴られたことか」

「ううん、英語の作文。"lips" って、彼の上唇と下唇でしょ!」


 その時、春子が眼鏡を外してレンズを拭く。

(意外と可愛いじゃん、こいつ……)


 その日以来、僕は斜め後ろの春子を気にしては、寝てるふりをして春子を見る。登校の時も下校の時も。体育の時間も美術の時間も。体育祭の時も文化祭の時にも、僕は春子の仕草を追いかけた。だんだん僕の頭から離れなくなっていく。時々二人は目と目が合う、だけど男友達の連中に春子のことを話すことはできなかった、イモな女子と見られていたから。


 三年生の時も同じクラスだった。一番の思い出は校庭でフォークダンスをした時だ。僕が春子に回ってくる二、三人前の男たちは皆、手と手を触れるのも嫌な素振りをする。僕の番になったら胸の鼓動はドキドキ、春子の手に触れて強く握り返す。その時は何かを確かめたかった。


 そのまま半年が過ぎ、今日の卒業式が来てしまった。


 卒業式の朝、僕は朝早く登校して春子の下駄箱の中に手紙『午後二時に教室で待つ。夏男』と封筒の中にリップクリームも添えた。


 午後二時一〇分、春子は待っていた。


「俺、待たせちゃったかな」

「そんなには……」

「あれ、貰ってくれる?」

「……」

「別に気に入らなかったら返してくれてもいいよ」

「ごめんなさい」

「え、」


 春子はリップクリームを僕に返したのだ……。


「わかった、俺の勘違いだったかな」

「違うの私、父の海外転勤で明日から家族みんなでアメリカに行くの。だから、もう夏男さんと会えないかも知れない」

「そうなんだ、春子とこのまま別れてしまうのは後悔すると思って」


「ごめんなさい」


 春子は走って教室を出て行ってしまった。


 家に帰って家族で卒業祝いの食事が終わり、自室で一人打ちひしがれる。

 どうしても踏ん切りがつかない僕は家を出て、夜道をさまよっていた。


「あ~あ、明日からつまんないな」


 無意識のうちに学校の校門の前に立っている僕。さっきまで春子と会っていた場所、教室へ行ってみようと思った。そこで何となく春子の存在を思い返したい。

 校門をよじ登って中に入る、三階の教室に明かりがついていて玄関も開いていた。僕はそおっと階段をのぼり四階の薄暗い教室の中へ入っていった。


 じわじわと、春子のことが脳裏の奥から染み出てくる。ここに居てはいけないと僕は思った。僕は自分の気持ちが吹っ切れますようにと『さようなら、俺の好きだった人』黒板に書き残して教室を出て行った。


 翌朝、目が覚めても僕の心のわだかまりは消えていない、あのリップクリームを捨てなくちゃ。そう思った僕は、もう着ることの無い学生服のズボンのポケっトをまさぐる。(あれ、入ってない。……そうか、教室に忘れてきたんだ!)


 急いで家を出て学校の教室へ走っていく。四階の教室へたどり着いたときは息が上がって今にも吐きそうになっていた。―― (おや?)


 その教室の黒板には、


『I will return your lip cream, someday, anywhere.』


 と書いてあった。


 僕は教室の窓の外に見える飛行機の機影が、湾曲して見えた。 (了)





 

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