交わる影

@mas10

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 夕陽の中に、彼女はいる。


氷輪ひのわ先輩」


 真っ赤な光の中で彼女は振り返る。美しい人。月と陽と、その両方の名を持った人。ぬばたまの、というに相応しく艶やかな黒髪を仄かに橙に染めながら、彼女は私に微笑んだ。


水月みづき


 少しだけ低めの、凛とした声。その甘い声音で、自分の名前を呼ばれるのがたまらなく好きだ。だから、私も精一杯の思いを託して彼女の名を呼ぶ。氷輪先輩、と。対極に座す名を。


「お待たせしてしまいましたか?」

「いえ、大丈夫よ。こうしてぼんやりする時間も、決して嫌いじゃないから」


 長い黒髪を耳にかけながら、彼女は首を傾けた。帰りましょうか。微笑み頷き、彼女の隣りに立つ。密やかな逢瀬。ふたつの影がゆらゆらと、私達を追いかけた。


「先輩、先輩。さっきはなにを見てらっしゃったんですか?」


 前に回り込み、こてん、と首をかしげる。彼女は目を細めながら同じしぐさを返した。いたずらな表情。ときめく。


「なんてことはないわ。ただ、空を見ていただけ」

「そら?」

「ええ、空」


 綺麗な夕焼けだったから。そう言って視線を流す先にある、言葉通り血のような夕焼け。目に痛いほど眩しくて、手を前にかざした。

 そっと盗み見た彼女はやはり美しく、目を伏せる。竹美氷輪たけみひのわ。「かぐや姫」とも呼ばれる彼女は皆の憧れだ。私にとっても、勿論。


「空は、好きですか?」

「……空は、そうね」


 切なげに、彼女は目を閉じた。儚げに、穏やかに。まるで、何かを懐かしむような表情だった。愛しむような、笑みだったので。思わず、彼女の袖をつかむ。


「水月?」

「……いえ。なんでも、ありません」


 思わず、と肩をすくめて笑い、ごまかす。彼女が好きだと言ってくれたから、大好きになった自分の笑顔。利用できるものは何だって使って、彼女の意識を縫いつけたくて。

 彼女は少し眉をひそめる。ばれたな、と思った。まずいな、とは思わなかった。それはそれで、構わなかったから。気付かれなかったなら、ただ袖を掴みたくてつかんだ、可愛い恋人。気付かれたのなら、何か思い悩みながらも気遣い微笑む、健気な恋人。ほら、何も変わらない。

 そんな汚い自分に、反吐が出た。汚物を撒き散らしながら、それでも彼女から離れることをしない自分を嘲笑う。それでも決して、手放せやしないのだ。


「空は、大きいでしょう」


 唐突に、彼女は言った。


「だから、自分が矮小な存在に思えるでしょう」


 そして笑う。それが、空が好きな理由だとはにかんで。


「……矮小だと思わされるのに、好きなんですか?」


 聞こえた自分の声は、想像以上に低い、低い声で。不機嫌丸出しの、不快感を隠そうともしないその声に死にたくなる。こんな、こんな汚い声が聞かせたいわけじゃない。こんな汚いものを、晒したいわけじゃないのに。


「そう、ね。そうよ。矮小だと思わせてくれるから、好きなの。所詮私は私に過ぎないのだと、示してくれるから、好きなのよ」


 彼女はそう言って、また空を見上げた。空が好きだと言いながら、どこかそれを通して別の誰かを見る瞳。少し俯いて、長めの前髪で影を作る。唇を噛んだ。私以外を思う彼女は、やはり美しいけれど、好きではない。


「水月。水月。こちらを向いて?」


 不意にかけられる優しい声と共に伸ばされた手に促されるままに顔を上げた。目の前には彼女の麗しいかんばせ。思わず、息をとめる。顔に熱が集まる感覚。体全体が心臓になったような、そんな感覚に囚われた。


「せ、せんぱいっ?」


 上ずった声を上げると、美しい恋人は楽しげに笑う。軽やかで、いたずらな妖精のような笑い声だと思う。遊ばれているようだと自覚して、少し膨れてみた。


「折角の愛らしい顔なのに、私から隠さないで? 貴女とこうして会えるのも、学校帰りの限られた時間ぐらいなのだし」


 ふふ、と微笑む彼女に、私は少し目を見開いて、そしてはにかむ。ごまかされている気がした。それでもいいと思った。先輩が、私に知らせたくないなら、それでもいい。私の全ては先輩のものだけれど、先輩は決して私のものではないから。それでいいのだと言い聞かせる。

 これで、いい。


「先輩は『なよ竹のかぐや姫』でいらっしゃいますから。そうやすやすとは、お会いできませんよ」


 ふふん、と面白げに鼻を鳴らす。途端、彼女は不満そうに口をとがらせる。凛とした気高い雰囲気が、一気に幼く、そして愛らしくなる。


「あら、貴女までそんなことを言うのね。酷いわ。私、あんなに性悪じゃないもの」


 かぐや姫、なんて、どう聞いても褒め言葉でしかないのに、彼女はその呼称をひどく嫌う。なにが嫌なのかは分からない。やはり、彼女は理由をはぐらかすから。知っているのは、それがなぜか、彼女を傷つけることだけだ。


「かぐや姫が性悪だなんて言って嫌がるの、きっと先輩くらいですよ」


 喉を鳴らして笑い、からかう。だって。と彼女はほほを膨らました。嗚呼可愛い。可愛くて、美しくて。どうあったって、私とは、不釣り合い。貴女はきっとかぐや姫。でも私は、あの五人の求婚者にすらなれない。私では、地に堕とされた姫に愛をささやくことも、ましてや天にかえる姫を引き留めることだってできない。

 だって彼女は天の月であり天の太陽。たいして私は地に這う水の中、美しい月に及びもつかないただの贋作。ああどうして、この手が届くというの。


「先輩は、かぐや姫ですよ。綺麗で気高い、尊い人。私には、勿体ないくらいです」

「……貴方に勿体ない私なら、そんな私いらないわ」


 少し怒ったような、悲しんでいるような。軽く落とされた視線に罪悪感と共に訪れる優越感。彼女にこんな顔をさせることができるのは、きっと今は私だけ。それが酷く心地よく、だからこそ自己嫌悪を去来させる。


「そんなこと言わないでください、先輩。そんな先輩の隣りにいられるのが、私の何よりの誇りなんですから」


 そう微笑んで、手を差し出す。少しだけ不満そうに、それでも確かに嬉しそうに、先輩の白い掌が私のものと重なった。触れ合う温度が心地よくて、幸せで。私達は夕陽を横顔に受けながら、並んで歩いた。

 重なり、一人になった影を見ながら、ひとりそっと息をつく。

 さあ、彼女が天に帰るとき。ひとりぼっちになる、準備をしよう。


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