暁降ち
――ねえ、おぼえていますか?
僕たちが初めてあったあの夕暮れ。
大禍時と、逢魔ヶ時と呼ばれるあの時間。
貴女はあの日、
人は死刑囚なのだと言いましたよね――
秋の赤い赤い夕焼けの空。逢魔ヶ時とも黄昏とも呼ばれるその真赤な空間に、僕はただ座っている。どこか狂ったような色に、何の意味もなくざわめく。
――僕はあの時、それに納得したのです。
けれど、時を重ねるにつれ。
日を、年を重ねるにつれて。
それが間違っているような。
なぜか、そんな気がしてきたのです――
目を閉じて、僕は微笑む。瞼の裏が赤黒く染まる。けれどそれは、夕陽のグロテスクな赤々さなどよりずっと、安心感を与える闇色の赤。
気配を感じ取れるスキルは残念ながら自分にはないし、音も聞こえないから、残念ながらあの人の様子を知りえることは不可能だ。
それでも僕は、言葉を続ける。
―――最初にそう意識したのは、
胎内で育っていく、
姪の姿を見たのが始まりでした―――
日に日に大きくなる姉の腹。母から栄養を、何かのいのちを与えられるたびに育っていく姿は、あの人の言う、「命を削る」というより……
――それはまるで、
いのちをその身に
取り込んでいるようだと感じたのです――
姉に素直にそう伝えると、彼女はすこし驚いた顔をした後、とても、とてもうれしそうに笑った。笑ったまま、彼女は何も言わなかったけれど、それはまるで、心を得た人形を見るような、命の尊さを悟った殺人鬼を見たような、そんな瞳。
――次にそう感じたのは、
とある男女に出逢った時のことでした――
いつだったか、あの人を探すのに行き詰っていたときに出逢ったその男女は、夫婦と言うにはどこか不完全で、恋人と表すにはあまりにも完成してしまっていた。
――どこか危うい雰囲気を纏ったそのふたりは、
どうやら禁忌を犯したようでした。
不自然に完成してしまっていたそのふたりは、
しかしその罪そのものを誇っていました――
罰を望まずとも罪を望む。それは、現世においてありふれた、よくある自己中心的な利己主義だけれど、そのふたりは、少し違っていた。そのふたりは、確かに禁忌を犯していたけれど、罪を望んだわけではないようだった。どちらかといえば、罪を望まずして罰を得る、といったところか。結果的には同じだけれど、それはどこか決定的な違い。
―――貴女もきっと御存じでしょう。
「罰」なんてものは、
罪人が望まないからこそ成立する。
けれど、あの人たちは、
「罰」なんて恐れていなかった。
いえ、この場合は、眼中になかった、
というべきなんでしょうか――――
あのふたりの視界には、ただお互いしか映っておらず、あのふたりの世界には、ただお互いだけが孤独に存在していた。……ああ、いや。ただ、ひとつだけ。
――ああ、そうそう、例外があったみたいですよ。
子供を探していると、言ってましたっけ。
自分達以外は興味ないと理解しておきながら、
それでも自分達の分身は、
捨てることができなかったのでしょうか――
まあこれは、話しの本筋とは異なった、外伝的な話なので、蛇足でしたね、と瞼ごしにあの人をみつめながら苦笑する。先に言った通りに、僕には彼女の気配を読み取る技術はない。けれど、予想することぐらいはできる。
きっと、彼女はいま、酷く揺れていることだろう。彼女の真実も、彼女の思いも、揺れて揺れて揺れて、揺れて。揺らいでいるのが何か、理解することも知覚することもできずに、不安定。
――決定的だったのは、そうですね、
貴女のオジ様とお会いした事でしょうか――
深く深く家族を愛した彼は、その愛ゆえに家族を失う。姉と弟は助けることができず、家族は崩壊し、母は心を壊し、姪は自ら命を絶った。壊れた家族の中ただ一人だけ生き残った彼は、ひたすらに罰を求めづけた。
――ねえ、知っていましたか?
いえ、知っていましたよね。
理解、していましたよね。
貴女が、これ以上なく愛されていたことを。
何かの代わりなんかではなく、
誰かの代替なんかではなく、
「貴女自身」が、
この上なく愛されていたことを――
ごめんなさいと、泣き叫ぶ幼子をうちに抱えながら、それでも微笑み続けたかの人は、つい先日逝った。先にあいつに逢ってくるよと、皮肉気に笑ったあの人は、僕と、僕の姪に看取られて。誰ひとり、愛する家族の顔を見ること叶わずに、静かに永眠した。
――そういえば、
あの人に面白いことを言われましたよ。
貴女は「チェシャ猫」と名乗ったでしょう。
そう言うとね、彼は大笑いしたんですよ――
あんまり笑うものだから、びっくりしてしまって、その理由を尋ねたなら、彼は涙にぬれた目をぬぐいながら笑った。
――何においても的確な貴女にしては、
珍しい間違いだと。
貴女は「チェシャ猫」なんかではなく、――
―――― 白兎 ――――
――ああ、そうそう。
ならばさながら、僕は「アリス」だと、
あの人は仰っていましたよ。
僕は男なのだから、「アリス」はないと言うと、
いいじゃないかと、笑っていました。
男で「アリス」。
「少年アリス」といったところか、と。
とても楽しそうに笑っていましたよ。
まあ、そのおかげで、
それからアリスと呼ばれ続けましたが――
とくん、とくんと、いのちを刻む鼓動。死への刻限を、告げる音。聴覚をほとんど捨てた耳が拾ったその音に、少しだけ泣きたくなった。年をとると、涙腺が緩くなって困る。きっと、姪にこんなことを言えば、不審そうな眼で見られるのだろうけれど。彼女は、結局根本的に変わることはできなかったから。そんな彼女を、もう少し見守ってあげたかったけれど、もう不可能だということぐらい、分っている。
自分の望むほとんどをし尽くした僕の、数少ない心残り。もちろん、最大の心残りは、今ここにある、この状況に他ならないけれども。
――ねえ、チェシャ。いるん でしょう?
いえ、いないのかも しれませんね。
ひょっと したら、貴女はずっと、
ここに いなかった のかもしれない――
目を開くと、そこにはさびれた殺風景な公園の風景。枯葉は空を舞う気力すらなく地を這う。橙と藍がまじりあった不安定な世界で、僕はぼやけた視界で思う。ああ、手遅れだった、と。
知っていた。解っていた。本当はずっと、心のどこかで思い続けていた。もう二度と、彼女に逢えないんじゃないかって。たった一度、あの日あの時ああして出会えたことが奇跡で、偶然で、二度目なんて、存在しないかもしれないなんて。そんなの、ずっと、ずっと。
老眼とはまた違った視界の崩壊に、天を仰いだ。
――あの日から、随分時が 経ちましたね。
僕はいつの 間にか、
あの 日の貴女を 追い越して しまった。
御覧の 通り、立派な爺に なりましたよ――
誰もいない宙に向けて、涙が流れることもいとわずに、僕は微笑む。つきつきと痛む胸を、笑みでごまかす。
――きっと僕は、貴女の 言った通り、
罪に 塗れているのでしょう。
いのちを 潰した 罪
だれかを 傷つけた 罪
なにかを 騙した 罪
数え きれない罪を 抱えたまま
僕は、今まで 生きてきた――
それでも、ねぇ、僕の愛するただ唯一の貴女。それでも僕は、声高に宣言しよう。
――僕は、幸せ です。
たとえ、罪に塗れようと。罰を背負おうと。
だって、その罪も、その罰も。
全てを ひっくるめて での、僕ですから。
もし、この罪や罰を 否定 するなら
貴女を 探し求めた、僕の人生を、
否定するのと、同義 だと 思いますし――
僕は貴女も、僕自身も、否定する気なんて、さらさらありませんから、と、笑う。
ぽろぽろ、ぽろぽろ。こぼれおちる涙は、とどまることを知らない。ぽろぽろ、ぽろぽろ、ぽろぽろ。もう、瞬きすることすら億劫で。一度目を閉じてしまえば、もう再び目をあけることなんてできないのではないかと思うと、恐くて。必死に目を開いて、不格好な笑みを張り付ける。
――ねえチェシャ、愛して います。
何よりも、誰より も。
僕の人生すべてを捧げたように、貴女を――
何もない虚空に手を伸ばそうとして、もうそんな力さえなくなったことを素直に悔しいと思う。重い頭を支える力さえ失いかけて、必死に持ち直す。
――探し、続けます。ずっと、ずっと。
もう一度、貴女に 逢えるその時まで。
あの日 の 続きを、するまで、ずっと――
目の前が、だんだんとかすんでいく。
鉄の塊のような躰は、ゆっくりと揺らぐ。
それでも、最後の力を、最期の想いを、ふり絞って、わらう。
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