「……  ?」


 姪の気配を感じ、目が覚める。ぼんやりと虚空を眺めた。なんだか姪の顔が出てきそうな気がしたから。まあ、結局気のせいで、彼女の顔を拝むことは自分が生きている限り永遠に不可能だ。何せ彼女はとっくの昔に死んでいるのだから。

 んぁ……と背伸びをし、ポリポリと頭をかく。その際にふけのようなものが眼の端にちらついたが、まぁ、見なかったことにしておこう。

 いまだ重い瞼をこすりながら、周りを見渡す。すると和洋折衷のアンティークもどきのガラクタが所狭しと陳列してあることに気づく。

 そういえば、昨夜は店で寝ちまったなとぼんやりとした思考の中で思い出す。年のせいか、最近店から出るのが億劫だとまだかろうじてお兄さんと呼ばれるアラフォーなる年齢で考えながら、首を回して音を鳴らした。

 ……よし、だいぶ目が覚めてきた。

 目の前にある(商品の)時計に目をやる。アナログのくせに午前午後がわかるスグレモノだ。なかなか売れないが。

 目を凝らして長針と短針の位置を確認する。時刻――――午後十時。

 ……確か、昨夜最後に携帯で見た時刻は午後十二時なので、ニ、三時間しか寝ていないわけではない。日にちが変わっていないとするならば、時間が巻き戻らない限りあり得ない。

 と、いうことは。


「やべぇ、丸一日寝過した……?」


 慌てて外に目を向けると、まるでそれを肯定するかのように黒みがかった藍色の空が窓の向こうに鎮座している。

 やっちまった、と小さくため息をつき、肩を落とす。ただでさえ経営難なのだ。その上この不況。一日閉めたのは実にきつい。

 最悪だ。本当に最悪だ。夢見は悪いわ、しかも寝過しただと? なんだこれは。姪のいやがらせか。呪いか。あいつならありそうでなんか恐い。


「いや、それは流石にねぇって」


 言い聞かせるように否定して机に突っ伏す。……頭が、痛い。寝すぎたせいかずきずきと痛む脳髄にいらつきがつのる。姪を思い出すと、目下絶賛失踪中の姉と弟のことも芋づる式に思い出される。キィワードは禁忌。禁断。禁戒。タヴー。望んで齧った林檎の果実。理への反逆。


「まだ生きてっかなぁ、あいつら」


 生きているなら姪の死亡を伝えたいし、死んでいるのなら向こうで姪と再会していたらいいなぁと思う。まぁどうせ、彼女らが生きていたとして、姪の死を告げてもあのふたりはなんとも感じないんだろうが。たとえふたりが死んで姪と出会えたとしても、彼女らは姪が誰か分らないだろうし、姪もあいつらに会いたくはないだろう。彼女らは徹底的に姪に興味がなかったようだし、姪も心底ふたりを嫌っていたから。


「育ての親兼オジとしちゃあ、複雑な心境だったりすっけどなぁ」


 弟兼兄としちゃ、姉と弟を嫌われるのはあんまりいい気はしない。やっぱりキョウダイだし。けれど、育ての親としては、ざまぁ見やがれと言った感じだ。さんざんあいつの心に傷痕を残しやがって、と。うっわぁ、まじでフクザツ。

 そんなことを考えながら苦笑し、店の奥に引っ込んでもうひと眠りでもしようか、とあくびをする。一日寝過した事実はどうにもならないのだ。どうせならもう一日寝過してやる。そんなたわけたことを胸に決め、椅子から立ち上がろうとした矢先。

 こんこん。


「んぁ?」


 店の扉が、鳴る。磨り硝子の向こうに、傘を差した人影が映っている。

 こんな夜中に訪ねてくるなんて常識のない。何を考えているんだと思いながら居留守を決め込む。下手に動いたら物音でいるとばれるので、椅子から立ち上がれない。

 こんこん。こんこん。

 いっそのことここで寝ようか。少し体勢がきついが、まあいったん寝てしまえば問題ないだろう。

 こんこん。こんこんこん。こんこんこん。

 まぁ起きた時はつらいかもしれないが、

こんこんこんこんこんこん。こんこん。こんこんこんこんこん。

先の心配よりも今の

こんこんこん。こんこんこんこんこん。こんこんこんこんこん。こんこんこんこん。

快楽のほうが

こんこんこんこん。こんこんこんこんこんこん。こんこんこん。こんこん。こんこんこんこんこん。

優先事

こんこんこんこん。こんこんこんこんこんこん。こんこんこん。こんこん。こんこんこんこんこん。こんこんこんこんこん。

項に決まっ

こんこんこんこん。こんこんこんこんこんこん。こんこんこん。こんこん。こんこんこんこんこん。こんこんこんこんこん。こんこんこんこんこん。

てい

こんこんこん。こんこん。こんこんこんこんこん。こんこんこんこんこん。こんこんこんこんこん。こん。こんこんこんこん。こんこんこん。こんこんこんこんこん。こん。

こんこんこん。こんこん。こんこんこんこんこん。こんこんこんこんこん。こんこんこんこんこん。こん。こんこんこんこん。こんこんこん。こんこんこんこんこん。こん。こんこんこん。こんこんこんこん。こんこん。こんこんこんこん。こんこん。こんこんこん。こんこん。こん。こん。こんこん。こんこんこん。こんこん。こんこんこ


「うるせぇっ!」


 ばんっ!


「こんこんこんこんうっせぇんだよ! 迷惑考えろよっ! 居留守してんの分ってんならおとなしく引き下がれよっ! マナーだろ? 大人の常識だろっ? 暗黙の了解ってもんをしらねぇのかクソガキがぁっ!」

「クソガキなので大人の常識には疎くて。申し訳ありません」


 にっこりとほほ笑む傘をさした見知らぬ青年。体格はほっそりと華奢で、その中性的な面差しは女と言われれば納得できるほど柔和だが、どこか虚無感がある。その虚ろな雰囲気とは対照的に瞳は何かを求めるかのように貪欲に輝いている。

 そこまで青年を観察すると、ふと姪のことを思い出した。どこか、彼女に似ている。


「はじめまして、佐倉如月さん。僕は壱といいます。ところで、中に入れてもらっても?」


 にっこりと笑い、拒否は認めないと言外に告げてくる。……ここは俺ん家だっつうの。


「別にいいけど、あんた今何時か分ってるわけ?」


 向こうが言外に訴えてくるんなら仕返しにと嫌味を言ってみる。が、しかし。


「ええ、存じてますけど?」


 っていうか、知ってるから今の時間に来たんでしょう、と、少し馬鹿にしたような視線を浴びせられた。ほんとなんなんだこいつ、うざい。


「……さいか」

「ええ、さいで」


 これ以上会話してたらいらつきが増すばかりなのでさっさと店の中に通す。あーくそ、頭痛がひどい。


「……おや、ずいぶん大きな時計ですね」


 店に入ってきた青年、壱は、真っ先に例の時計が目に入ったらしく、目を輝かせながらこちらを振り向く。これは何だと雰囲気で訴えてくる彼に、俺はカウンターというより勘定台というほうがしっくりくるような古びた木製のそれの前に座りながら答える。


「まあな。アナログのくせに午前か午後かわかるスグレモノだ」

「へぇ。なのに電池換えないんですか?」

「…………は?」


 は? 電池?


「あれ、これ電池で動くんじゃないんですか? ああ、ぜんまいですか? 最近珍しいですよね」


 訳が分からずただ胡乱気な視線を彼に向ける。すると、彼は心底不思議そうな顔をした。


「この時計、止まってますよね?」

「……え…………」

「ご存じなかったんですか? これ、盛大に止まってますよ」


 ちなみに今は午前十一時です。と壱青年は笑う。ちょ、え、どういうこと?


「ちょっと待て、どういうこと? 今夜の十時じゃないの?」

「残念ながら違いますねぇ。朝です。ニワトリのなくあ~さで~すよ~」

「あ、なんかうざい。っじゃなくて、え、うそ。だって外暗くね? あの暗さは夜でしょ。フクロウ鳴く鳴くよ~るで~すよ~みたいな」

「今雨降ってますよ?」

「え、うそ」

「本当と書いてマジと読む。だいたい音も聞こえてますし、僕さっきまで傘差してましたよね。貴方そればっちり見ましたよね」

「や、見たけど。あぁ、ほんとだわ。そういや雨降ってる音するし、傘って雨の日じゃねぇとささねぇよなぁ」

「……本気で気づかなかったんですか?」

「さあ? 気づいてなかったのかもしれないし、気づいたことに気付かなかったのかも知れない」

「…………」


 うわぁ、大丈夫この人、と言いたげに若干憐れんだ目を向けてくる青年。いやはや言い返す言葉もない。と、いうか。


「(そういえば、この時計結構前から止まってんだよなぁ。だから昨日の夜わざわざ携帯で時間確認したんだよなぁ)」


 思わずひきつった笑みを浮かべて明後日の方向を眺める。全く、姪が死ぬまで彼女に家のことをまかせっきりだったのがまずかっただろうか。あれからそういうことにまるっきり疎くなってしまった。


「……んで? 俺になんか用事があんだろ、壱青年よ」

「ああ、そういえば。僕としたことが、思わず忘れてしまうところでした」


 さっさとこの話題から逃げたくて話題を変えると、彼はぽん、と手をたたきこてりと首を傾ける。年齢にそぐわない幼い仕草だ。が、別に違和感はない。彼の素だからだろうか。


「用事というのは、他でもありません。貴方の姪御さんのことです」

「……あいつの?」


 はい、と彼は笑う。貴方の姪御さんについて、教えてください、と。


「……何考えてんのかしらねぇが、あいつはとっくの昔に死んでるぜ?」

「ええ、存じています」


 あいも変わらず、柔和に微笑む青年。しかし、その笑みの種類が先ほどのものと異なる。それは、愛しいものを想う顔。

 その表情に、思わず眉根が寄る。……面白くねぇ。


「じゃあ聞くが、もう死んじまってるやつのことを聞いて、お前はなにがしたいんだ?」

「あいたいんです」

「は?」


 問いに間髪いれずに答える青年の言葉に、軽く混乱する。あいたい、だと? あいつが死んでいることは分かっているといった。ならばなぜ? 彼の瞳に冗談の色はない。真剣そのものだ。触ればきれそうなほど、本気だ。では、こいつは何が言いたい。


「あいたいんです。あの人に、チェシャに、もういちど」


 祈るように、彼は瞳を閉じる。縋るように、言葉を紡ぎだす。しかし、彼に他に頼るような雰囲気はない。他を頼むような気配はない。祈るのは神でなく自分の運に。縋るのは仏でなく自分の言葉に。自分に対する、他に対する、高い、高い、矜持。

 ああ、何故だろう。酷く、苛々する。何に? 知ったことか。とにかく気に入らないのだ。この青年の言葉も、態度も、想いも、矜持も、全てが。


「……ここに来たということは、ある程度の調べはついてんだろ」

「はい、本当にある程度、ですけど」

「なら俺からお前に言うことも教えてやれることもない。帰れ。俺はあいつのことを必要以上に思い出したくないんだよ」


 心からの拒絶。さっきまで散々思い出してたことは棚に上げておく。まぁ、姪のことをあまり深く思い出したくないのは本当だが。あいつとの思い出は、非道く赤色が憑きまとうから。

 赤と、悲鳴と、怒号と、虚無な瞳。


「……帰れ。人間だれしも、人に知られたくないことがひとつやふたつやみっつやよっつ、持っているものだろう」

「貴方はどうやらいつつやむっつやななつやむっつ、それを持っているようですが」

「はっ、お前の場合はここのつとお、それ以上あるみたいだがな」


 嫌味を以って嫌味に返し、さらに皮肉を押し付ける。次は皮肉の応酬に成るかと思えば、青年は思いのほか普通に、本気か、ただの思いつきの出まかせかもわからない笑顔を浮かべて言う。


「そんなの、当然でしょう。人は幾万幾億の嘘と秘密を抱え込んで、いつか抱えるには余りに大きすぎたそれらに押しつぶされて死んで逝くんですよ」


 どこか既知感のある物言いに、思わず眉間にしわが寄る。


『生きることは罪に塗れることと同義なんですよ。罪そのものに成ることといっても過言ではなく、むしろ的を射ているような気がします。きっと、人は死ぬことによってその罪を昇華するんでしょうね』


 いつだったか、誰に言うわけでもなく姪が呟いていた台詞。はたから見たらただの変人か、イタイ頭の持ち主かに見えるが、あいつはやけにそれが様になっていて。……と、いうか、そのどこか壊れた呟きで、自我を、正気を、その命を、ギリギリの線で保っているように見えて、自分には何も口出しすることができなかったのだ。


「……さて、どうしましょうか。貴方はどうやら僕にあの人の情報を教える気はないようですし」


 困りました、と首を傾ける青年に顔を向けることもせず、俺は頬杖を突いたままひらひらと手を振る。


「おお、物分かりがよくなったじゃねぇか。なら物分かり良くなったついでにとっとと失せろ」

「貴方が大人しく大人らしく若人にあの人について御教授くだされば僕も何の心置きもなくお暇することができるんですが……」

「往生際の悪い。何度言わせたらわかる」


 幾段か低い声で、酷く冷たく怒気をはらんだ視線で、脅すように睨みつける。

 それに青年は怯えるでも恐れるでも、しかし馬鹿にするでも嘲るでもなく、ただただ柔和な微笑みを浮かべる。まるですべての善悪を受け入れる海原のように。さながらいかなる罪をも赦す聖母のように。


「何度言わせたら、といわれるほど言われていなかったりするんですが……。本来ならこのあたりで引き下がるのが常套手段でありセオリーでもあるのでしょうが、あえて空気を読まずに居座ることとします」


 にこりと笑う青年に俺はげんなりとため息をつく。どうせあれで引き下がるとは思っていない。それでも最後の悪あがきに悪態をひとつつく。


「いや帰れよ。つか空気読めよ。そして空気を嫁とすればいいさ。略して空気嫁」

「そこでネットユーザーな一面を見せられても困るんですが……」


 微苦笑を浮かべる壱青年。姪に会いたいと訴える正体不明の訳の分らんやつ。どこか彼女に似た雰囲気と思考回路を持つ。所謂、「似て非なるモノ」というやつか。まあ所詮、そんなものは他の何よりも平行線同士だ。当然、その酷似した思考の中に、あいつとは異なる思想があるのは理解している。姪の思想を氷のような絶対零度の冷淡だとすると、この青年の思想は水のように柔らかな淡々。

 そこまで考えて、ひとつため息を落とす。疲れたようなそれを、憑かれたものを吐き出す衝動に衝かれたようにおとす。

 そして、瞳を閉じる。苛々にまぎれていた頭痛がよみがえってくる。そして、それ以上に軋む胸。

 そして、耳の奥に響く、あいつとの始まりの言葉。


『あなたが やよいとさつきの きょだいですか?』

『はじめまして、わたしは やよいとさつきのむすめです。なまえは だいきらいなので なまえいがいなら すきなように よんでください』

『やよいとさつきが ふたりで アイのトウヒコウにはしったので、ここにおいてくださいませんか?』


 耳をふさぎたかった。何も聞かないでいることほど楽なことはないと知っているから。目をふさいでいたかった。何も見ないでいることほど気楽なことはないと理解しているから。全てを閉ざしてしまいたかった。何も知らないことほど幸せなことはないと思い知っているから。

 けれど、そういうわけにもいかないことぐらい、それこそ痛いほど身にしみている。……だから、耳をふさごうとする手を握り締め、目をふさごうとしている瞼を見開き、全てを拒絶しようとする脳髄を叱咤する。


「近親相姦。軽度から重度に移行した育児放棄。心的外傷。虐待。無理心中。自傷癖。自殺」

「は?」


 素っ頓狂な声をあげ、目を丸くする青年に、苦笑を浮かべる。そして、噛みしめるように、俺は言葉を紡ぐ。


「あいつについてのキィワードだ。鍵に成る言の葉。二度はいわねぇ」

「え、あ、はい。て、え? どうしたんです急に。さっきまであんなに断固拒否してたじゃないですか」


 不思議そうに目を瞬かせる彼に、はぁ、と盛大にため息をつきながら頭を掻く。そしていかにも「心底不本意だ」という表情を作る。


「どうしたもこうしたもねぇよ。お前がしつこいからだろうが。言っとくがこれが最大限の譲歩だ。今日はこれ以上の収穫はないと思え」

「あ、ですよねぇ。…………今日は?」


 苦笑を浮かべた青年の表情が固まる。そして、勘定台のほう、つまり俺に向かって詰め寄り、確かめるように、問う。


「それは、もしこれから僕がここにきて、あの人の、チェシャのことを尋ねたら、答えてくれるということですか?」


 真剣な眼差し。それに俺はへらりと笑ってやる。毒気を抜くような笑み。彼がさっきまで散々自分に向けていた種類のものだ。それを意趣返しのつもりで張り付けて、飄々と答える。


「さぁな。お前がこの店にいくら寄付するかによる」

「……そうですか。なら財布と相談しなければいけませんね」


 ふっと笑む青年。それがとても幸せそうな微笑みで、思わず、声をあげた。


「ひとつ、聞いていいか」

「ええ、どうぞ。キィワードの対価を払いたいですし、僕に答えられることならば」


 微笑む青年に、俺は少し戸惑い、迷った末に、ぽつりと問うた。


「……おまえ、あいつに会ったのか?」

「はい、十年ほど前に」

「その頃にゃ、あいつは死んでるぜ? あいつが死んだのは十二、三年前だからな」

「ええ、知っています。でも、僕は確かに彼女と出遭った。出会うことは叶わなかったけれど、確かに出遭えたんです」


 まるで、彼女と出遭ったことを誇るような笑み。こいつにとってあいつは、人生の色を変える何かであったのだろうか。ならば俺は、彼女の人生を少しでも鮮やかに変える絵具足りえただろうか。

 そこまで考えて、はっ、と自嘲する。鮮やかに、なんて、おこがましい。俺はせいぜい、あいつの人生を真っ黒に塗りつぶすただの害悪でしかなかっただろう。俺には、あいつを助けることなんてできなかったんだから。


「チェシャは、誰かを恨んでいる風ではありませんでしたよ」


 静かに静かに、壱青年が言う。一分の誇張も、一厘のうそもない涼やかな声音で。


「彼女はかなしい人ではあったけれど、とても優しい人でもあった。知っていますか? 人は、誰かからもらった感情しか、他の誰かに向けることはできないんです」


 だから、と彼は笑う。とても柔らかに。まるでこちらを包みこむような大きな微笑みを浮かべる。


「きっと彼女があんなに優しかったのは、あなたからそれ以上の慈しみを一身にうけたからでしょう。あれほど僕に温かい瞳を向けてくれたのは、あなたからそれ以上の愛情をその身にうけたからでしょう」


 だから、あなたは何も悪くないんです。

 そう微笑む彼。

 ああ、くそ、視界がにじむ。全てはあの頭痛のせいだ。唇を噛みしめて天井を仰ぐ。声が震えそうになるのを何とかこらえようとして、どこか空回りした明るい声音を絞り出す。


「おまえは、あいつが、随分好きなんだな」

「いいえ。好きなんて生ぬるい感情ではありません。僕は彼女をあいしてる。誰よりも。何よりも。このたった一度の人生を尽くして彼女を探そうと誓えるほどに」


 どこまでもまっすぐに言い切る彼に、俺はただそうか、と返した。彼は、ただ、ええ、といった。

 あいつも、ここまで思われるなら幸せだろう。たとえ二度と会えなくても。会えなくても、それでも想ってくれる存在がいる。これほどまでに幸せなことはきっとないだろうから。生あるうちに感じることのできなかった幸せを、どうか、今から。


「では僕は、そろそろお暇させていただきますね。チェシャについての収穫が十分だったとは言えませんが、そうですね、次回に期待、といった感じでしょうか」


 それに、姪っ子を迎えに行かなければなりませんから、と。姪。その単語に反応してしまう自分が呪わしい。そして、そんな俺に気付いたのか、彼は少し笑みを深くした。


「零、という名の可愛い姪ですよ。少し僕に似てしまったのが、彼女にとっては人生最大の汚点というか、最悪ではあるかも知れませんが」


 それでも、僕のことを大好きだと言ってくれる、かわいいかわいい姪です、と彼は笑う。そうか、とだけ、俺は返した。青年は、今度は笑うだけだった。


「それでは、お邪魔しました。また、来ますね。今度は姪も連れてきます」

「勝手にしやがれ。ただし来るんなら今度はなんか買ってけ」

「そうですね。チェシャのことももう少し知りたいですから、予算と相談します」


 綺麗に微笑んで、彼はひらりと身をひるがえす。その姿がなぜか心細くて、思わず声をかけた。


「おい、最後にひとつだけ、聞かせろ」

「? はい、何でしょう?」


 不思議そうに首をかしげる彼に、少し視線を彷徨わせて。しばらく迷った末に、ずっと気になっていた疑問を問いかける。


「……おまえはあいつをチェシャと呼ぶが、それはあいつがそう名乗ったのか?」

「あ、ええ。チェシャ猫と言ってましたよ」


 そうか、と言いながら、思わず笑みがこぼれる。何事においても的確なあいつにしては珍しい間違いだ。


「どうかしましたか?」


 不思議そうに首をかしげる彼に、俺は笑いながら言った。


「いや、あいつにしては珍しい間違いだと思ってな。あいつはチェシャ猫なんかじゃない。むしろあいつは――――――――」



 娘を嫁にやる父親の気持ちというものを聞いたことがある。それはどうも、ムカついて、さみしくて、認めたくないものなのだそうだ。

 けれど俺は、そんなもの嘘だと笑い飛ばすことができる。なにせいま、俺はとてもうれしくて、すがすがしくて、穏やかな気持ちなのだから。

 あいつをあそこまで想ってくれる人の存在がひどく嬉しくて、あいつが誰かの人生に影響できるような人間であったのが嬉しくて。

 あいつにとって悪夢でしかなかっただろうあの家での出来事も、あいつにとって憎悪の対象でしかなかっただろう俺の姉弟も、あいつにとってはただわずらわしいだけだったかもしれない俺の存在も、



 少しだけ、認めることができそうだから。



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