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その場所には「色」がなかった。
とはいえ、「白」に支配されているということではない。それは正に「無色」。
「色」の支配を受けぬ聖地、「無色の
「嗚呼、やっと見つけた――――『無色の丘』」
エスぺランサはほぅ、と恍惚に眼を細める。喜色と幸福に染まりきったその微笑みは、同時に諦念と虚無に塗れていて。
青年の暖かい指が少女の冷たい頬をなでる。
「やっとついた。やっと、やっとだよ。これで『わたし』は、やっと」
あなたを助けられる。
吐息とともに吐き出されたその囁きに、青年の指がぴくりと震えた。けれどそれは一瞬で、すぐにまた、儚い少女を抱きしめる。
「――――いらっしゃい、人の仔よ」
不意に、眼前から声がした。誰もいなかったはずのその場所には、やはり「無色」の少年が微笑んでいた。
「はじめまして。素晴らしきこの日に、君という存在に出逢えたことを幸福だと思うよ。訪ね人なんていつぶりかな。最近は願いがないのかはたまた対価が恐いのか、人はめっきり己を探さなくなったようだから」
ふふ、と笑う彼は、その幼さの割に老いた雰囲気を滲ませる。柔らかく高い声音には、老獪した厳かさが含まれており、瞳に宿る好奇心だって、幼い無邪気ではなく、研究者のそれのようだった。
「にしても『仮面病』と『乖離病』のセットは珍しい。二組目かな。中々いないんだよ? そもそも『仮面病』の子は自意識の薄さからこんなとこ来ようとしないし、『乖離病』の仔はよくて軟禁悪くて監禁。ん? 似たようなもんか。ま、それはそれでいいんだけれど」
そんなにぼぉっとして、どうしたの?
こてりと不思議そうに首を傾ける少年に、しばし呆然としていたエスぺランサはなんとか我を取り戻す。そして、恐る恐る尋ねた。
「アナタ、『無色の丘』?」
「いかにも。己こそが『無色の丘』が具現。契約を司るもの。きみたち人の子が奇跡そのものと呼ぶ、それ自体だよ」
色のない面が浮かべる微笑に、少女はそっと目を閉じる。そして、無感情な声が、唇から漏れだした。
「アナタは、私の祈りを受け入れてくれるのね?」
「そうだね。対価と引き換えにはなるけれど」
「そう。ならいいわ」
すとん、と。少女の声は地に落ちる。静かに浮かんだ微笑みは、ただ安堵のみを色濃く宿していて。
それに、無色の少年は不可思議そうに首をかしげた。透き通る瞳を何度も何度も瞬かせて、それでもやはり理解できぬと言いたげに今度は逆側にこてりと倒す。
「いいの? きみはきみの対価をきちんと把握してる?」
「ええ、一から十まで」
「それできみは幸せ?」
「ええ、この上なく」
「それは、本当に?」
「天地神明に誓って」
「そう、なら、いいよ」
少年は幸せそうに笑った。天かける神の御使いが、その美しき翼を広げるように。その白き腕を大きく掲げて。
さながら、聖母の誘い。
「おいで。かわいそうなかわいい人の仔。きみの願いを叶えてあげよう。対価と引き換えに。けれど、それすらもきみの望みなのだろう?」
伸ばされたその手に、少女はひそかに目を細めて息を吐いた。永遠のような刹那。胸の奥にわだかまる凝りを吐き出すためにもはや意味のない生命維持活動をする。すり、と愛しき青年に頬すりをした。
「……ルゥズ。彼に、私を渡して。大丈夫。もう、大丈夫だから」
閉じた瞳は、もう彼を映さない。身は確かにルゥズに預けてはいるけれど、心は既に少年にあけ渡していた。
「――――、」
「……ルゥズ?」
青年は動かない。少女の髪が作った沼は、なぜか一層深くなる。常は前だけを見据える彼の顔は、今は腕の中に下されていた。
たれた青年の髪が、吐息に揺れる。
「――――ァ、…………ェ」
その音は、確かにそこに響いた。
それはまるでガラガラの、搾りかすのような、声だった。
「……え?」
「……ァメ、だ……ヨ。ソれ……は、ダめ」
凍りついた瞳が、ゆるゆると青年を見上げる。そこにいたのは、いつのまにか薄くなっていたラクガキから穏やかな色の片目と口元をのぞかせた、愛する人。
「ルゥ、ズ……? え、アナタ、」
ただ困惑に眼を彷徨わせる腕の中の少女に、彼はかなしげな、いとおしげな視線を向けた。
「ダメ、だよ。ソれをシタら、きみは、きえテしまウんだロウ?」
一歩、一歩。青年は「無色の丘」から遠ざかる。しばしの間驚愕に放心していた少女は、我に返るとそれに気づき、悲痛な悲鳴をあげた。
「はなしてルゥズ! 私を彼に渡して、おねがいだから! そうすれば、アナタも『私』 も幸せになれるの! なれるんだから!」
それは少女の心からの叫びだった。けれど、その願いを、ルゥズはゆるゆると首を振って否定する。
「ソレは、『きみ』じゃなイ。そウ、だろう? きみのいう、『きみ』はきみじゃなく、カノジョだ。僕が望ムのは、カノジョじゃ、ナい、から」
感情のない声。なのになぜか泣き出しそうなその声音に、少女はひくりと息をのんだ。
ちがう。と少女は拒絶する。いや。と彼女は否定する。けれど果たして、「何を」だなんてこと、理解しているのだろうか。
「そうだね。その仔といたいというのがきみの願いだ。でも、彼女にとってはどうだろうね?」
具現たる少年は、不意に穏やかな微笑をたたえて言った。剣呑な色を宿した片眼が、彼を射抜く。
「『その仔』の想いはきみが幸せになることだ。『彼女』ときみが、一緒に幸せになることだ。この地の扉を開けたのは彼女の思いだよ。きみに、それを邪魔する権利はない」
だからほら、早くその仔を己の手中に。
美しきその笑みは、だからこそ恐ろしさを感じる。青年は瞳に怯えを浮かべながら、それでも少女を抱きしめた。
「イヤだ」
「駄々をこねる幼子じゃあるまいし、聞きわけなよ」
「もウ十分、聞きわけた」
「意思を持たぬは聞きわけと言わないよ」
「いいや、そレでも」
震える瞳を叱咤して、怯える体を踏みしめて。青年は、ヒトならざる少年を見据える。
「この身も、いくらでも差シ出そう。人がそれを望むなら。ヒトとしての尊厳すラ、獣のえさとしてやろう。誰かが、それを必要とするのなら」
それでも、と。青年は声を張る。静かな激情は空気を震わせ、少女の水面に弧を描く。
「それでも、これだけは譲らない。譲れない。たとえ誰が望んでも。たとえ神の御意志でも。たとえ、きみの望みだとしても」
きみの心を、きみの意思を、きみの願いを。踏みにじることになったって。
「きみだけは、もう、譲らない」
悲痛な祈り。生涯で数多を諦め無数を手放し、無限を失うことを運命づけられた青年は、それでも少女だけはと抱きしめる。
「やめて」
ふ。と。か細い声が響いた。
「おねがいよ、ルゥズ。おねがい。やめて。わかってるの? アナタが今言ってることは、私自身の存在意義の否定なのよ?」
震える声が水気を含み、雨のように少女の体温を奪う。青年はそっと優しく、それ以上に残酷な言葉を吐いた。
「ごめんね」
「……え?」
呆然とする少女に向けて、青年は泣きだしそうに微笑んだ。
「僕は否定するよ。そんな意義を否定する。そんなの、あっていい訳がない」
少女を抱きしめる指先が、握り締められ、かすかに震える。怒りか、悲しみか。青年は続ける。
「確かにきみはあの子の『ネガイ』そのものだ。多分、あの子は『僕の幸せ』を願っていたんだろう? そして、無意識にあの子自身の幸せも願った。きみはその祈りから生まれた存在だ。ならば確かにその思いを遂げるのがきみの意義なのかもしれないね」
青年の前髪が、垂れて影を作り彼の表情を隠す。少女は何も言わない。ただ、青年を眺めるだけだ。
「でも、否定するよ、きみはあの子じゃない。きみはあの子の願いの『仔』であって、あの子自身じゃない。ならば、『母』の願いを『仔』に背負わせるのは間違ってる。『仔』は『親』を超え、庇護を拒絶し、『個人』となるべきだ。きみはきみの幸せを望むべきなんだよ。それこそが『親』の幸せだ」
切願、哀願、懇願。説得するような、諭すような内容でありながら、その声音は実に頼りなくて。どうしてか、やりきれなくて。
ないているの、るぅず。
そんなことあるはずはないというのに、混乱し散乱した思考回路は、妙にはっきりとその言葉を形作った。
「それに。それに、きみは『仔』であり『あの子の願い』でもある。つまり『あの子自身』だ。なら、きみが幸せになることがあの子の幸せでもあるんじゃないかな」
少しだけあげられた顔が、やっと光にあたる。青年は、やはり哀しげに眼を細めてはいるものの、その顔はただ静謐としていた。かわいそうに、と少女は思う。きっと、手があったなら一も二もなくその首に腕をからませ、抱き込んだことであろう。
それでも彼女は認める訳にはいかなかった。
「そんなの、詭弁だわ」
絶望に呆然を混ぜ込んで、少女は泣きはらしたような眼を伏せる。小さく震える彼女に、青年は静かに語りかける。
「そうかもしれない。そうでもいい。きみが僕といてくれるのなら。きみが僕の『幸せ』のために消えないためなら」
青年の腕に更に力が入った。少女は痛みに少し顔をしかめるが、それ以上に辛いことがあったから。ゆっくりと首を振った。
「でも私じゃアナタとずっと一緒にいられない。いたくない。だってアナタはいつか私より先に死んでしまうもの。アナタはいつか、私を置いていってしまう」
あまりに私とアナタは違うから。言外にそう囁き、エスぺランサは不毛さに微笑んだ。
そう、あまりに違うのだ。だから私ではなく彼を選んだ。だから私ではなく「彼女」を選んだ。それが「私達」にとって最善だと思うから。それが「一番の幸せ」だと思ったから。
青年の瞳が、揺れる。
「なら、その前に殺してあげる」
絞り出すように、青年は言葉を紡ぐ。血を吐くような、悲痛な思いを悟られぬよう、瞳の水面を必死に捉えて。
「僕が死ぬ前に、僕がきみを殺すから。だから今は生きていて。僕が幸せになるために一緒に生きて。おねがい、だから」
ぼくをおいていかないで。と。
青年は縋るように呟いた。
「ルゥズ……」
少女はその黒の水面を揺らして青年を見る。
彼女は要らぬものだった。「母」たる「彼女」から分かたれた時点で、それは確定されたものだった。ああ、けれど。今までたった一度でも、これほどまでに求められたことがあっただろうか。
「わたし……」
自分は、幸せになってもいいのだろうか。「自分」が幸せになっても許されるだろうか。
「彼女」は、それでもいいのだろうか。
本当に、「彼女」も喜んでくれるだろうか。
ぐるぐると思考が回り泥沼はかき回される。
その中心に、浮かぶ憧れ。
「わたし、は……」
烙かれる喉が、甘い甘露の玉を、吐きだそうとした、その時に。
ぽつりと、透ける声が落とされた。
「君も、己を認めないの?」
ぽっかりと空いた虚ろな瞳が、無為に二人を射抜く。そこには大きな空洞があった。黒く、そしてやはり透明の。無意味に広がるその虚で、少年は口を開く。
「みんな、そうなんだ。みんな己を求めてここまで来るのに、結局誰も己を認めない。誰もが最後に背を向けて、己はいつも一人きり。己はただ一緒にいて欲しいだけなのに。だから願いをかなえようと思うのに。誰も、居てくれないんだ」
呆然と、少年は二人を眺める。色はない。何もかもが無色。ああ、それは何と哀れなことだろう。そこにあるはずの涙さえ、色を持たずに不明確。
「どうして己はここにいなくちゃいけないの? 己はいつまでここにいなくちゃいけないの? 誰も己を見てくれない。でもそれならいい。願望器として必要としてくれるなら、それで。でも、それすらも必要とされないなら。それなら、己は何? 何のためにここでたった独りで、永久の孤独を強いられなければならないの?」
どうして、どうして、どうして。
紡がれる言葉はまるで涙の様で、無情の顔が悲痛な泣き顔に見えて。
そんなはずはないのに、まるで迷子の幼子のように見えたから。
青年は、手を伸ばす。
「きみはそこから離れられないの?」
それは本当に自然に差し出された。兄が、転んだ弟に手を貸すように。母が、隣を歩く子供に伸ばすように。うっかりすると、反射的にその手を取ってしまいそうになるほど。
それは、当たり前のように少年の目の前にあった。
「え?」
「きみは、本当に切り離された独りでしかいられないの?」
戸惑ったように少年の瞳が震える。開けては閉じ、開けては閉じとせわしなく口を開閉させ、ただただ返答に惑う。青年は、二三歩で少年と距離を詰め、しゃがんで目線を合わせた。
「どうしてきみの願いを叶えないの? 自分の願いも叶えられないものに、他人の願いが叶えられると思う?」
小さな子供に言い聞かせるような声音に、無色の願望器たる少年は、不服そうに眉をしかめる。
「……願望器が願望器に願いをかけるなんて、滑稽じゃないか」
「滑稽で何が悪い?」
顔をしかめた少年に、淡々とした声がふる。それは優しいほど無感情なものだった。色を映さぬ瞳が、無色の少年を捉える。
「ヒトなんて、生きてるだけで無様で愚かしいただの道化だよ。その道化の中でも一番みっともなくもがいてあがいて、泥の中の一握にも満たない小さな小さな美しい輝石を見出したそれを、ヒトは偉大なる人と呼ぶんだろう?」
少年はただ呆然と青年の瞳を見る。わけがわからないと、意味がわからないと、ただそれだけを訴えるその眼差しに、彼は苦笑した。
「どうしてきみたちは、自分の幸せを罪のように考えるのかな。だれもきみたちが幸せであることを責めたりしないよ。世界はきみたちを拒んだりしないよ。だから、ねえ。――――一緒に、生きていきたいんだ」
柔らかい言葉は形なきてのひらとなり、縋り方をしらない二人の子供に伸ばされる。
そして――――
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