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灰色の街を、黒い男が歩く。奇妙なほどに迷いのない足取りは、しかしどこを目指しているのではない。
「顔」なし男は、ただ歩く。
男の腕の中に、少女がいた。泥のような長い黒髪でできた沼の中に溺れるように浮かぶその頭。
「顔」だけ少女は、ただ笑う。
男はルゥズと。少女はエスペランサと呼ばれた。
「ねえねぇ、ルゥズ。ここにはあるかな、『
希望に満ちて、それでいて諦念をにじませた言葉を少女は吐く。夢見がちな黒はそれでもしっかりと自分を抱く男を見つめた。
彼はただ立ち止り、その黒く塗りつぶされた頭を軽く下ろして少女を見下ろすだけ。
「うん、うん、そうだね。もうこの国一周しちゃったもんね。『
誰にも聞こえ得なかったその音。男が発したらしい言葉を(それが幻聴にせよ本物にせよ)聴きとった彼女は、にこりと笑う。とても愛らしくいたいけな笑顔であるのに、そこにあるのが頭だけということもあってか、どこか歪に感じる。
「じゃあ、まずはテキトーに歩きまわってみようか。ルゥズ、おなか大丈夫? すいてない? すいてない。うん、じゃあ大丈夫ね。いこっか」
「
「いやだなぁ。今まで都会をずっと回ってきたせいか、妙にあそこを思い出す。いやだな。もう、忘れてしまいたいのに」
ねえ、そう思わない? そんな彼女の問いかけに、男はやはり何の反応も示さずに先へ進む。たださらり、と。エスぺランサの泥の髪がルゥズの指の間に潜った。
少女はわらう。
「ふふっ、そっか。やっぱりルゥズは優しいね。うん、うん、大丈夫。大丈夫よ」
幸せそうに微笑み、その大きく暖かいてのひらにすり寄った。ヒトとして扱われなかった彼の、確かにヒトとしての証。それにないはずの胸が暖かくなった気がして、彼女は笑みを深めた。
「あら、旅人さん?」
不意に後ろからかけられた言葉。刹那、少女の微笑は凍りつき、次の瞬間には能面のような無表情を張り付ける。男はぴたりと静止し、ゆっくりと振り返った。
「あらあらまあまあ。旅人さんは旅人さんでも『引き剥がされた』女の子と『顔なし』の男の子の組み合わせなんて、中々シュールね。察するに、『自分探し』の旅といったところかしら」
目の前には、灰色の年若い女性。おおらかな笑みに、朗らかな声。悪意も忌避もないその態度に、少女は少し目を見張った後、にこりと笑みを返した。
「残念だけど、『自分探し』なんてしてないわ。『自分』は探すものじゃなくて創るものだもの。まあ、何かを探しているのは当たっているけれど」
ね、と男に微笑みかける。彼が笑い返したのだろうか、すぐ笑みを深くした。
灰色の女は怪訝にそれを見つめる。それを、何を探しているのか気になるのかと認識したエスぺランサは、誇らしげにない胸を張った。
「『無色の丘』を探しているの」
「…………『無色の丘』?」
困惑が、胡乱にかわる。さて、それがその名を知らないからか、知るからこそか。
三日月を形作る少女の唇は変わらない。
「そう、『無色の丘』。『イロ』に支配されたこの国で、唯一何物にも犯され得ない場所。辿りついたものの願いをなんでもひとつ、叶える奇跡の聖域。私達はそれを探しているの」
うっとりと夢幻に浸るいとけない少女。女は顔をしかめながら、何のためにと呟いた。
「何のため? 決まってるでしょう。願いがあるの」
きょとん、と少女は目を瞬く。ごろりと不安定な男の手の中で自身を横たえ、全身で疑問を訴える。はらり、とこぼれおちた髪を、男はそっと腕の中におさめた。
「ひとつ、いいかしら?」
灰色の女は、その瞳を不思議な色に瞬かせて、ただ静かに言葉を吐いた。
「なに?」
「貴女の祈りは、何?」
静かな瞳が少女を射抜いた。彼女はわずかに眉を寄せ、不快そうに眼を細めた後、皮肉気に笑った。
「アナタにそれを言う必要がある? それとも、アナタが『無色の丘』だとでも?」
「残念だけど、私は願望器なんかじゃないわ。『青い鳥』でも『魔法のランプ』でもない。ただ知りたいだけよ。貴女が全てをかける、その思いを」
黒と灰の瞳がぶつかる。ひかず、そらさず、絡み合う視線。据える目線をそらさずに、沈黙を破ったのはエスぺランサだった。
「アナタは、どこまで知っているの」
警戒心をあらわに、少女は問う。ぴりぴりとしたその緊張感の中に、わずかな怖れを見出して、女は眼を細めた。
「君ほどじゃないにしても、他人よりは知ってるわ」
これでも昔、私だって求めたんですもの。
懐かしげに、愛おしげに。かなしげに、寂しげに。女は遠くを見る目をした。
「夢はかなわないのよ」
女は呟いた。
かなわないの。と、繰り返す。「ユメ」という「有彩色」を手に入れること叶わなかった女は、「無彩色」の「ゼツボウ」を身に抱いて。
「ウソツキ」
それは、どこまでも不機嫌な声だった。駄々をこねる幼子のようであり、子供の癇癪に呆れる大人のようでもある。
ウソツキ。と、少女は繰り返した。
「夢が叶わなかったんじゃない。アナタは、叶えるのをやめたんでしょう」
深淵よりもなお深い、黒曜石の瞳が女の心臓を抉る。
「願いは叶うものじゃなく、叶えるものよ。対価に何を差し出してでも手に入れると思えるものを願いといい、祈りといい、夢というわ。アナタはただ対価を惜しんだだけ」
柔らかいソプラノに、侮蔑の色が浮かんで消える。まるで、矜持を傷つけられた、と。そう言いたげな瞳だった。
「……これは、痛いとこつかれちゃったなぁ」
疲れたように女は笑った。憑きものが落ちたような笑顔だった。眩しげに眼を細め、ため息をつく。
すい、と伸ばされた手。
「ねえ、青年。その子、少しだけ私に預けてくれないかな?」
「は? 何いってるの?」
「話をしたいの、貴女と」
淡々とつげられる言葉と、差し出されたままの手のひら。少女にはうなずくための首も、そのぬくもりを感じるための手もない。それでも、女は望むように動かない。
「どうかしら?」
長い長い泥の髪が影を作り、少女の顔を隠す。青年はそっとそれを耳にかけ、指は柔らかにエスぺランサの頬をなでた。
「ルゥズ、ごめん。そこの人に私を渡して。ルゥズは人の邪魔にならないように待っていて」
少女は平坦な声でルゥズに乞うた。青年は何も言わずに少女を差し出す。まるでアブラハムのようだと女は思った。愛する者を捧げることで示す絶対愛。ああ、なんて歪。
「ありがとう、青年。じゃ、いこうか。すぐそこに誰も来ない憩い場がある」
「誰も来ない憩い場なんて、随分滑稽ね」
「誰も来ないからこそ、憩い場なのよ。私達にとってはね」
人体の温もりを常に宿していたその声から、「人」という存在がごっそりと抜けたことに少女はひどく驚いた気がした。
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