水槽の部屋
@mas10
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その部屋はきっと、まるで水槽のように。
◇◆◇
遠浅の海のようだと青年は思う。
美しく透き通った、青みを帯びた透明の水の中、座り込んだ青年はひとり。
ねぇ。
と、ため息のような声をこぼす。
浸した足腰は水たまりというには広く、しかし湖というには浅い水の中。不快感などはないのだから、別に何の問題もない。
問題は、背をあずけた扉の向こう。
ねぇ、聞いてる? 扉の向こうにいる誰か。
もう一度つぶやいた。
本当に小さな。それこそ蚊の鳴くような声と形容されるほどに、小さな声であったけれど。
それでも青年には、その声は届くと。なぜか、妙に確かな確信があった。
うるさい。きいてるわ。だまりなさい、ばか。
こぽり、と、
水泡の喘ぎ声の後に。儚い少女の声がひとつ。
嗄れた少女の声ひとつ。
ああ、またひどくなってる。
うるさい、だまって。いやならそこからいなくなればいいのよ。ばか。
かすれた声がいたわしく、なだめるように眉をひそめる。続く言葉は見えぬ少女の力なき罵倒。眉間のしわがひとつ、深く。
ねぇ、ねぇ。扉の向こうにいる誰か。
なによ。だまれっていってるでしょ。ばかじゃないの、ばか。
こぽり、こぽり、と。少女の体内から追い出された空気の叫び声。
そんなものよりきっと。そんなものよりもっと。そんなものよりずっと。
この少女は苦しんでいるのだと、青年は思う。
ねぇ、君は何が悲しいの。
かなしくなんてないわ。なにいってるの。
扉越しに水を通して聞こえる声は、どうしてか一向に潤わない。
あんなにも、水の中にいるのに。
ねぇ、君はどうして泣いているの。
ないてなんかないわ。ばかじゃないの。
ねぇ、どうしたら君は泣き止むの。
ないてなんかないっていってるでしょ、ばか。もうどこかへいって。
うそつき。
と。青年はいった。悲しんでいるようにも、すねているようにも聞こえる声。
うそつき。
と、彼は言った。
君は今、涙の海に溺れているくせに。
背もたれ替わりの分厚い木の扉の隙間から、ちろちろときれいな水が溢れる。
なんてきれいな、涙のイロ。
なんてきれいな、哀しみのイロ。
扉の向こう側にある小さな小さな彼女の世界は。
きっとこのイロに統べられている。
少女は言う。
ないてない。はやくそこからいなくなって。
青年は言う。
どうしたら、泣き止むの。どうして君は泣いているの。
交わらない平行線。それでもいいと、彼は思う。少女がどう思うのかは、青年は知らない。ずっと。ずっと。いつまでも。知ることはない。きっと、永遠に。
それでもいいと、青年は思う。何度でも。
ねぇ。ねぇ。扉の向こうにいる誰か。
なによ。はやくそこからいなくなれって言ってるでしょう。にほんごわかる? ばかなの?
少女の声は常に震えている。だっていつも泣いているから。泣くことしか、できないから。
少女はずっと泣いている。青年が生まれた時にはもう。そして、死ぬときもきっと。彼女の涙に傘をさす人はいなくて。いたとしても少女により拒絶される。
見たこともない少女の笑顔を密かに夢見ている。
ねぇ、ねぇ。扉の向こうにいるあなた。
無感情な声。無感動な音。その声音を聞くたびに、少女の瞳から大粒の涙がこぼれていることを青年は知らない。少女だって、知らせる気もない。
知って欲しかったのは彼じゃないから。待っているのは、待っていたのは、彼じゃない。
彼が彼でないのなら、彼はどこにいるのだろう。
もうやめて。
と、少女は泣いた。
もうやめて。わかったから。もうじゅうぶん、わかったから。
水は濃い濃い青色で、もう涙なんて見分けられない。いつまで泣くのだろう。いつまで泣けばいいのだろう。いつまで待つのだろう。いつまで待てば、彼は。
何をやめるの?
きょとん、と、青年は目をまん丸にしてこてん、と首をかしげる。ちゃぽん、と小さな部屋に響く音。
なにをやめればいいの? そうすれば、君はもう泣かないの?
そのためだったらなんでもするよ、と、青年は穏やかに笑った。青い水に反射した、青白い頬で。震える声を、少女は紡ぐ。
もう、ここにこないで。おねがいだから、もう。
溢れる水が少し増えて、青年を包む。彼はまた、きょとんと瞬いた。
僕はここから離れたことないよ?
シンジツだけを告げる声。彼にとっての事実は、少女にとって何よりも残酷な誤り。違う、違う。だって、彼は。
生まれた時からここにいて。死んだ時にもここにいる。僕はずっと、君のそばに。
――死んで。死んで。
そして生まれ変わっても、君のそばに――
重なる音。被さる呪い。浮かぶ面影。消える影。
やめて。
と、少女は繰り返した。青年は、また笑った。
ああ、でも残念。手遅れだ。
こぽり、と音がする。少女が息を呑んだ音。ため息のような笑みを、青年は浮かべる。
手遅れだ。もうすぐ僕は、君の涙に使ってしまうから。
水は青年の口元まで迫っていた。軽く空を仰ぎ見る。何もない。そしてもうすぐ、彼は「何もない」何かになる。
残念だ。僕は結局君の笑顔を見れなかった。君の姿すら、知らないまま。
色を失いゆく青年は、ただ残念だと繰り返す。少女の瞳のダムは決壊し、溶けていく。水かさは、更に増して。
ねぇ、扉の向こう側の君。あいしていたよ。顔も、名前も知らない君のこと。あいしつづけるよ。これからも知りえない君のこと。
少女の瞳は見開かれ、青年はそっと目を細める。ああ、きっと、これがさいご。
これまでも、これからも。生きて、死んでを繰りかえしても。僕はきっと、僕はずっと。きみの、そばに―――――
涙の海が青年を包み、彼の声がぷつりと途切れる。落ちた沈黙。沈んだ音。不意に、ぎぃっと扉の開く音がした。
ひさしぶり。わたしをしるあなた。わたしがあいしたあなた。
水の引く音に紛れ、少女の声が響いた。ゆっくりと、少女の手のひらに収まる小さな小さな美しい珠。
はじめまして。わたしをあいしたあなた。わたしがしらないあなた。
海はなく、湖もない。その空間で少女はその珠を抱きしめる。涙は、ない。
もういいのよ、もういいの。ごめんなさい。わたしがあんなことをいったから。でも、もういいの。
抱きしめて、うずくまり。祈るように、すがるように、彼女は血を吐くような声で、言う。
眠って。あいするあなた。あいしたあなた。しってるあなた。しらないあなた。
眠って。と繰り返して、少女は部屋の中で眠る。知らず知らずこぼした涙が、小さな湖になって。…………そして。
はじめまして。扉のむこうにいる誰か。
再び扉の向こうから聞こえた声と、手の内から失われた珠の存在に。
少女はまた、水底に沈むことになる。
水槽の部屋 @mas10
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