玉削り
@mas10
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パチン。パチン。友人曰く、弱い平手打ちの音が、一人きりの部屋に響く。
パチン、パチン……パッ。
あ、切りそこなった。痛いなぁ。鬱陶しいなぁ。ほんと――――
バチッ。
現在、もうすぐ十二時を回る時間帯に、私は一人、不自然に(人工的にやっているのだから当たり前だが)昼間の明るさを保つリビングにいる。……なんて言ったら一見恰好いいが、単に家族が寝えてしまっただけだ。更に言うと、正確には母が後で起きてくる予定だが、多分この様子だと、起きてくることはないだろう。
パチン、パチン。
やることは全て終わり、そういえば明日は服装検査だったなぁ、と珍しく思い至って、今に至る。いつもいつもお風呂に入ると思いだし、出ると忘れる。また布団に入ると思いだし、寝ると忘れる。で、最終的に再検査に駆り出されるという悪循環だ。ほんと勘弁してほしい。なぜ爪の長さごときで六時起きの七時出発なんてしなければいけないのか(ちなみに普段は七時起きの七時半出発だ)。
パチン。パチン。
単調な音。眠気を誘いそうなほどにただ単調に響く。その音はどこか不気味で。そういえば催眠術には単調で一定な音が使われてたりするのだと思いだす。ならばこの音でも催眠をかけることは可能なのだろうか。
パチン、パチ。パチン。
視界の端に、本がちらつく。確か先週買った本だ。帯のうたい文句に惹かれて買ったものの、たいして面白くもなかった覚えがある。また今度売りに行こう。
パチ、パチ、バチン。
そういえば、夜中に爪を切ってはいけないのだっけ。親の死に目に会えないからどうとかこうとか。目の前に放った本の内容を思い出す。確か、夜は暗いから危ないよ、みたいな意味だと夢も幻想も欠片もない酷く現実的な解釈が載っていた。それなら、以前読んだ漫画のおとぎ話の方が読み物としては何十倍も優れている。
パチ、パチン、パチン。
確か、そうだ。夜に爪を切ると、大いなる「なにか」がやってくる。それは、音もなく背後に忍び寄り、いつの間にか首をちょん切ってしまうのだ。締めくくりは、確か、そう。
『古くから言い伝えられていることには、何事も理由があるというものですよ』
ホラーに耐性がある私でも、多少背筋が寒くなった。以来、どうしても夜中に爪を切るのに抵抗がある。とはいえ、絶賛爪切り中だと説得力に欠けるが。
パチン、パチン、パチン。
「あか」。
ふと、そんな言葉が頭をかすめた。よくみれば、切ってしまった爪の先から、「あかい」「なにか」が染み出ている。それはまるで血液のようであり、水彩の絵具のようでもあり。
なによりまぼろしのようだった。世界という透明なキャンバスに、極限まで薄めた「あかい」絵具が水泡を描く。それは溢れては消え、消えては溢れを繰り返し、私の視界をパステルに染める。
目の前で明らかな異常が起きているのにもかかわらず、何故だか私は冷静だった。いや、麻痺していた、と言うべきなのか。深夜ということもあり、どこか現から離れていた思考に、このような異常はキャパオーバーだ。だから、何の感慨も抱かず、何の危機感も恐怖も感じずに、ただぼう、と、その水泡がはじけるのを見ていた。
音もなく弾けるそれは、はじけた後になにも残らない。触ってみれば何の感触も得られず、ティッシュで拭いても多少の痕跡も残さない。さて、これは一体何なのだろうか。
パチン。
考えても分からないことを考え続けることほど滑稽な物はないと思う。よって、私は目の前の最優先事項に意識を戻す。
パチン、パチ、パチン。
きれば切るほど、その「疵口」から「あか」はあふれ出る。痛みはなく、違和感もない。ああ、ただ、今が深夜だからか、酷く眠い。重い瞼を必死に持ちあげながら、やはり必死に爪を切る。
パチン、パチ、パッ、バチ。
滲み出し、膨れ、弾けて消える。繰り返し繰り返し。意味はあるのかと言われたら、そんなの知るかと答えるだろう。
「あか」はひたすらにじみ出る。
パチン。パチ。パチ、バチ。
落ちゆく瞼。鉛のようなそれをこじ開けて、その行動しか知らないかのように爪を切り続ける。ああ、なんだか寒いな。なんて呆けた頭で思う。「あか」「あか」「あか」「あか」は頭の中一杯に。
あかあかまっか。
まっかはなあに。
まっかはたいよう。
まっかはちしお。
まっかはほのお。
まっかはじょうねつ。
まっかはゆうやけ。
まっかはくちべに。
まっかは、
まっか、は?
くだらない連想ゲーム。意味のない手慰み。
揺れる頭と崩れる躯。糸の切れたマリオネットを夢想して。あれほど純粋ではなかった自分を笑う。笑う? 嘘はいけない。だってもう、そんな力すら入らない。
黒ずむ視界。同時に「あか」に染まる脳髄。
視界の端に、たったひとつたたずむ「あか」を見て。
膨れ行くそれに、ため息を一つ。
――――ああ、きっとあれは、いのち、の、
ぱちん。
玉削り @mas10
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