三十一日目 嫌忌
ガサガサと、林の中をかき分けて進む。
道らしき道がない今、最短距離を歩いていくのは当然のことなのだが、如何せん植物が多く、移動速度が落ちてきていた。
すでに上陸して六日目。一番近かったはずの村の姿ははまだ見えない。
太陽は既に隠れ、カメラの絞りも八割ほど開いてきている。
(……寝るか)
そう決めると、手近な林をなぎ倒し、それを地面に並べて即席のベッドにする。上陸してから三日目に試したアイデアだったが、思ったよりも快適だったため今夜も使うことにした。
仰向けになって眺めた夜空は、見つめていると何故だか懐かしさがこみあげてきて、そっと涙をぬぐうふりをした。
目を閉じて、ゆっくりと呼吸を落ち着ける。
自分が機械なのか人間なのか、考えてもしょうがないこともある。そういった思考に、一つずつ鍵をかけて、徐々に心を空白にしていく。
削って、鈍くして、眠らせて、最後に残すのは皮膚の感覚だけ。
「……おやすみなさい」
一人つぶやいたその言葉に、風で揺れた木々の返事だけが返って来た。
***
「……広いな」
直上の太陽が輝く真昼。僕の目の前には一面の畑が広がっていた。
上陸して七日目。僕はようやく海岸に一番近い村にたどり着いたらしい。
やはりこんな辺境に住んでいる人は少ないようで、遠目に見える民家は少なく、見える景色のほとんどは青々と茂った作物で埋め尽くされていた。
遠くから村の雰囲気を確認して、改めて自分の服装を見る。
下に着ているのはきわどいラインの入った少々短めのスカート。扇情的と下品の間隙に位置するように作られたのか、初対面の相手が着て来たらなんとも感想に困る丈だ。
上にはお腹の辺りで結んだショート丈のシャツ。ショットガンで撃たれたときに腹部が破れてしまったため、夏真っ盛りのような着こなしになっている。ちなみに内部骨格のむき出しになってしまったお腹は、ガラクタの山からボロ布を拾って巻き付けてある。見る人にもよるだろうが、医者を呼ばれても文句は言えない風体だ。
ついでに言えば右目には眼帯があり、右腕はヒュッテバイヤーに換装しているため、華奢な体に不釣り合いなほど大きく、右足も長さこそそろえてはいるが、パイプを突っ込んだだけの義足のままだ。
どう見ても冬の旅行者の恰好ではないし、なんなら警察を呼ばれても納得してしまいそうになるが、他に良い手足があるわけでもない。
(協会……は、ないか)
特徴的な三角屋根を見つけることは出来ず、頼るならばそこらにいる農夫たちになるだろう。
どこか、適当な民家でもないものかと探していると、一軒の小屋が目に付いた。
周囲に散乱している道工具から察するに、物置として使っているのだろう。正直、そこはあまり重要ではない。
小屋の側面、壁に立てかけるように置かれている二輪車。タイヤの間には、見覚えのある魔素タンクがある。
意図せず、喉が鳴る。
周囲には誰の姿も見えない。小屋のある位置は村の端のようで、近くに民家も見当たらない。
大丈夫だ。あとで返しさえすればいい。
緊急事態なんだ。お前より大変な奴がここに居ると思うか?
気付かれないし証拠も残らない。ほら、早くそれを、
「おや、めずらしい」
その声は、突然背後から響いてきた。
恐る恐る振り向くと、作業中だったらしい老人がこちらを見つめて立っていた。しわくちゃの顔に温和な笑みを浮かべて、その手には作業用なのか、大型の鋏を携えている。
「観光にでも来たのかい? でもねぇ、ここらへんはもうなぁんもないよ」
「……そう、なんですね。うっかりしてました」
愛想笑いを浮かべて返事をする。
大丈夫。不審がられたわけじゃない。こんな辺境の村だ。人が来るのが珍しいだけだろう。
「あの、ええと、申し訳ないんですけど、あのバイクっておじいさんの物ですか?」
質問をしながら自分の笑顔が引きつっていないか、それだけが心配だった。
「ん、ああ、でもソイツ動かなくてなぁ。街にもっていくのも面倒だしで、ずっとそこにおいたまんまなんだぁ」
「あ……あの、ぼ……私、実は街に帰る足がなくって……貸してもらうことってできますか……?」
「んん……」
老人は近くにきて、こちらの全身をじろじろと眺める。それは同時に、僕も彼の全身を詳細に見られることを意味していた。
寒い季節ということもあり、上着を着こんでいる彼の体は大きく見える。年齢は僕より三周りくらいあるかもしれないが、背筋は伸びているし、農作業をしているだけあって、おじさんほどではないががっしりとした体つきだ。一筋縄ではいかないだろう。
……一筋縄ではいかないだろう?
なんだ、その思考は。
違う。そうじゃない。僕は、
「んん、まぁ、直せるんなら、べつにかまわんよぉ」
「ほ、本当ですか!」
ぺこぺこと頭を下げると、老人は目を細めて笑った。
「ああ、そのまんまじゃ冷えるだろう。一度家にくるといい」
そう話す老人の顔に、祖父の顔が重なって見えた。四年前は元気にしていたが、今はどうだろう。
老人に案内されるがまま、バイクを転がしながらついていく。畑から少し離れた場所に土臭い農耕用の機械が押し込まれたガレージと、こじんまりとした一軒家がその隣に併設されていた。
「ばあさんの服持ってくるから、ちょっと待っててなぁ」
言い残して、家の中に入っていく老人。その背中を見送って、僕はガレージの道具を物色し始めた。
少し錆びの浮いている
(これでいいかな……)
トラクター……というのだろうか。やたらタイヤの大きい四輪車からは、ジェネレーターへと続くケーブルが伸びていた。取り回しの悪いそれを外し、バイクのタンクへとつなげる。
周囲を見渡して、耳を澄ます。誰かが来るような気配がないことを確認して、首の後ろのコネクタを露出させる。
ケーブルを挿して、テレメラを動かしたときと同じようにエンジンを始動させるイメージをする。何度か試してみるも、バイクは沈黙したままだった。
舌打ちをして、タブレットを起動する。バイクの型番を調べて、そのエンジンの形、構造を頭に叩き込む。
目を閉じて集中する。
頭の中でパーツを作る。もう一つのバイクを、頭の中に作り出す。想像の中のバイクにエンジンをかける。
数瞬後、腹の底に響く排気音がガレージに響き渡る。
安堵の息を吐きながら目を開けると、震えながら煙を吐き出すマフラーの熱が感じられた。
(……運が、よかったな)
運命じみた幸運を前にしているというのに、何故かあまり嬉しさは感じなかった。あるのは、ただ良かったという安心感だけだ。
つながっている魔素タンクの容量は満タン近く入っていて、しばらくは燃料の心配をしなくてもよさそうだった。
多分、いろんな要素が重なっていたのだ。無事にバイクが動いた安心とか、しばらく燃料の心配をしなくていい事とか、ガレージにエンジン音が反響していたこととか。そういう全てなんだと思う。
僕が、あの老人の足音に気付けなかった原因は。
背後からした、地面を擦る足音。首の関節がおかしくなってしまいそうな速度で振り向くと、老人が――恐らく女ものの服が入っているのだろう――紙袋を足元に落としたところだった。
二つの目と一つのカメラが交錯する。
老人が口を開く。その視線は、僕の首へと注がれている。ガレージに風が吹き込んで、砂埃を巻き上げて、彼の口が動いて、天井のライトがゆっくり明滅して、そして――
「ばけもの」
爆発するようなエンジン音が、全てをかき消した。バイクの座席とタブレットをひっ掴んで、引きずられるようにしてガレージを飛び出す。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ」
浅い呼吸が止まらない。バックミラーに移る自分の顔は苦痛に歪んでいる。
走りながらハンドルを掴んで、バイクの軌道を修正する。方角を確認する暇なんてなかった。ただ一刻も早く、この村を抜け出したかった。
何度呼吸を繰り返しても、苦しさはなくならない。何度瞬きをしても、あの老人の怯えた顔が消えない。本来、呼吸を必要としない筈の体が、まるで生きているかのように酸素を求めている。
「違う……違う……違う……違う……」
意味のない呼吸を乱しながらつぶやくその台詞に、返事が返ってくることはなかった。
空を見れば、先ほどまで眩しいほどに輝いていた太陽は逃げるように、雲間にその姿を隠しつつあった。
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