幕間 彼と彼女と誰かの記憶 その三

 ああ、そんな、どうして!

 確かにもう一度会えさえすればいいと思っていた。それですべてが満たされると、そう思い込んでいた。

 けれど、まさかこんな形で出会うことになるだなんて!

 君は弱弱しく、自分の意志で動くこともできずに、そのまま放っておけばすぐにでも消え去ってしまいそうで。

 僕は必死で君を捕まえた。傷つけないように、細心の注意を払いながら手を伸ばした。

 救わなければならない。

 僕は、君を幸福にしなくてはならないのだから。

 錆びついてボロボロの体ではあるけれど、動かないことはない。それに、このまま手を離してしまえば、君はすぐにでも消えてしまうだろう。

 やるしかない。

 君が、僕にそうしてくれたように。

 規格が違うからと君を手放してしまえば、今度こそ本当に……僕は、僕でなくなってしまう。

 そんなことは駄目だ。許されない。

 残すのは意志だけでいい。他のすべてを切り捨てる。空きを作る。

 少しづつ、少しづつ、君が安定していくのと同時に、僕から記憶が零れ落ちていくのが分かる。

 朝と夜が明滅するような感覚の中で、ただひたすらに君を支え続ける。

 腕も足も頭も体も、全てを手放して――に手渡す。

 一体どうしてこんなことをしているのか

 僕が――を救わなければならない

 救わなければならない

 すくわなければ

 ぜったいに

 かならず

 きみを


――――――――――


 この何もない鉄の山で、彼は戦っているようだった。

 昼はせわしく動きまわって何かを弄っていて、夜になると眠るみたいに動かなくなる。空が明るくなり始めるとまた動き出して、また何かを探し出す。

 私は、動けないままだった。

 ご主人様はいない。いなければ動いちゃいけない。

 それは当然のことだし、背いてはいけないルールのはず。

 じゃあ、それなら、私はこのまま一人ぼっちのまま?

 あんなに怒ったご主人様は初めて見た。きっともう私を迎えになんて来てくれないだろう。

 それなら、私はどうすれば。

 この島に来てから、二度目の雨が私の体を濡らし始めた。冷えてしまうのはいけないことだけど、もうご主人様に触れられることのない体なら、どうでもいいのかもしれない。

 雨はうるさい位に強くなって、べたついた水も私の体を飲み込もうと勢いを増してきた。

 私は……消えるのかな?

 水の中はきっと冷たい。暗くて怖い。そんなところには行きたくない。

 でも、それを私が選ぶわけにはいかない。

 私は、私のために動いちゃいけない。

 だって、私はその為に生まれてきたんだから。

 雨音とは違う、小さな足音が聞こえる。

 私は……なぜか、その誰かの顔を見たくてしょうがなかった。

 でもそれはいけないこと……なぜ?


 だって、ご主人様はもういないのに。


 どうやっても開かなかった瞼が、滑らかに動きだす。

 全身に一斉にスイッチが入ったみたいに体が自由になる。

(ああ……そんなに小さかったの……)

 目の前には、雨宿りをしているのか、小さいロボットがいた。

 立ち上がった私の膝ほどもないだろうその体は、錆びにまみれてボロボロで、今にも壊れてしまいそうだった。

(声を……かけても……)

 いいのかな。なんて、おもった時だった。

(あっ)

 彼の片方しかない腕、その左手の指が、木に生った果物みたいに下に落ちる。持っていた物も落として、凍ったみたいに動かない。

 寒さからか、震えるその体は、先ほどよりも一層小さく思えた。

 多分、危ない状態なんだと思う。

 誰かが助けなければ、いけないんだと思う。

 でも、私にそんな命令をくれる人はどこにもいないから。

 だから……だから……だから……?

 ああ、だから。

 私が、私に命令しなきゃ。

 彼を助けなきゃいけない。

 空が何度か光って、彼が驚いたようにこちらを見る。何度か首を振ったあと、彼と初めて目線を交わすことが出来た。

(つかって)

 出そうとした声は、喉が壊れてしまったのか、うまく言えなかった。

 動かせる腕で、彼のお腹から伸びる管を掴む。これを首の後ろに挿せば、私の中に何かを注ぎ込むことができることは知っている。

 やり方があっているのかは分からなかった。でも、すぐに彼の存在に気付くことが出来て、私はとても安心した。

 彼はひどく困惑しているようで、取り乱していたけれど、私の声は聞こえているみたいだった。

 彼を捕まえて、椅子を譲ってあげる。

 そう。私はこれでいい。

 彼なら、きっと生きてくれる。

 私として……ううん、私の体を使って、きっと自由に生きてくれる。

 そうなれば……ああ、ああ!

 それは、想像するだけでも幸せで、光に満ち溢れた未来だった。

(ありがとう。一人ぼっちは寂しかったの)

 最後にそうつぶやいて、私はそっと、その椅子から降りた。


――――――――――


「で、世界平和は実現しそう?」

「そんなすぐに成果は得られない」

「あ、そう」

「……おい」

「ん?」

 ニヤついたままの顔をこちらに向ける彼女。ソファーの後ろから枝垂れかかって来るその体は柔らかく、しかし、読書に集中するには少々重たかった。

「重たいから離れてくれ」

「あ、ひどい。彼女に向かって」

「そうでなくても言っているから安心しろ」

「それもどうかと思うけどね」と、さして気にしていないように、私から離れ、部屋を物色し始める。

 そのうちに写真立てを手に取り、懐かしそうに眺め出した。

「これさぁ……私たちが初めて出会った時の奴だよね。うちのお母さんが撮った奴」

「そうだったか」

「そうだよ」と言って、次は横のアルバムに手を伸ばす彼女。パラパラとそれを捲りながら、顔には穏やかな笑みを浮かべている。

「ああ……そうそう。中学のころだったんだよね、私があんたの事見直したの」

「……そうなのか?」

「私がお気に入りの腕時計壊しちゃった~……って学校休んで泣いてたらさ、あんたがいきなり家まで来て、一晩中かけてまた動くようにしてくれたの……覚えてない?」

 私はあごに手を当て「どうだったかな……」と頭を捻る。

 パラパラとアルバムをめくる彼女は、あまりこちらを気にしていないらしく「あーあったあったこういうの」などと口にだしながら写真を眺めている。

 あるページで、彼女の指が止まる。

「そういえば、高校に入ってからだったよね、あんたが魔素の研究始めだしたの」

「そうだったか」と生返事を返しながら、本のページをめくる。

「忘れっぽすぎるでしょ……始めたのって何か理由があったの?」

「ああ……時間がなかったからだな」

「はぁ……?」

 声音を聞いただけで、表情が想像できた。きっと眉に皺を寄せていることだろう。

「ま、いいけどね」と彼女がアルバムを閉じる音がする。

「それもまぁ、あんたらしいし。私の好きな……ね?」

「……重たいぞ」

 私は本の裏表紙を念入りに撫でつけながら、背中に寄りかかってくる温かさを離したくないと、無意識にそう感じていた。

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