平行宇宙の村雨八千代

ビリジアンの絵の具に少し黒を混ぜて滅茶苦茶に掻き回したような海だな。と村雨八千代は思った。

鉛雲の下で波が荒れ狂っている。

八千代はヒトリ防波堤にいた。波が防波堤に打ち付ける。時に強く。時に弱く。海から唸る咆哮と、波が防波堤で砕けて飛沫をあげる音。人間の恐怖など関係無いのだ。ただ大自然の力の前にちっぽけな人間はひれ伏すしかないのだ。


「もう。美術部で好きな絵を描くことも出来ないな。」


八千代はライフジャケットを着るでもなく、ウエットスーツを着るでもなく、只何時も学校に通う夏制服の出で立ちで立ち尽くしていた。長い黒髪が嵐の様な風に乱れる。逃げても無駄なのは分かっていた。防波堤は海水に濡れて滑るし、何より巨大な津波が迫っているのが見えた。何処へ逃げても無駄だと思える程巨大な津波。

それでも只立ち尽くして死ぬわけにはいかないと考えて防波堤の先の湾口の一角まで歩いた。錆びたコンテナが積み上げられている。

その一番上のコンテナの入り口が空いていたのでそこに隠れる事にした。波の飛沫でベットリと貼り付くスカートが気持ち悪かったが何とか上まで登りコンテナに入れた。

入り口の扉を閉めようと思ったがもう津波は目の前に来ていた。閉めかけた扉から怒涛の様な海水が入って来たと思った瞬間津波の勢いに吹き飛ばされた。錆びたコンテナは海水で満たされ暴力的な回転をした。八千代は肺の中の酸素濃度が急速に失われていくのを感じた。とは言え呼吸の術がないのだ。失われる酸素と入れ替わるように死が満ちていく。絶望とはこういう事だろうと思いながら、八千代の意識は飛んだ。


気付くと海の見える小高い山の上にいた。仰向けで倒れていた八千代はゆっくり起き上がった。辺りを見回す。津波から逃げてきた人達だろう、老若男女数百人が其処にいたのだ。


「何故私は此処にいるんだ。」


確かに死を覚悟したはずだったが奇妙な事にまだ生きている。そして津波は過ぎ去ったものの、海の水位は下がる事なく山の中腹で留まっていた。山の下にあった街は飲み込まれてしまっていた。そして海は渦巻きを作りながら咆哮を続けていた。夕暮れが世界の終わりを包んだ。

旧約聖書に記されたノアの方舟の様な終末が来たのかもしれないと八千代は思った。

暫くすると、生存者達が示し会わせたかの様にムカデじゃん拳を始めた。じゃん拳で負けた人が勝者に繋がっていくアレだ。老若男女楽しそうにムカデじゃん拳に興じている。


「こんなことしてる場合じゃないでしょ。」


八千代はまるで生存者達が意思の疎通が出来ない宇宙人の様に感じ、その場を後にした。

人の気配のない丘にたどり着き夜空を見上げた。文明社会では見ることが出来ない星空が、銀河が其処にあった。流れ星が見えたと思った瞬間、八千代は物凄いスピードで銀河に吸い込まれた。今までに見たことの無いスケールの巨大な月が目の前にあった。ゆっくりと観賞する暇もないスピードで急速に離れる。レビーシューメイカー第9彗星の様に木星に衝突したが突き抜けて更に加速を続けた。太陽系を離れ、銀河の中心に向かっているのだと理解した。絶対的な存在の力なのか。

津波に飲まれた時とは違い苦しさはなかった。呼吸という概念がないのだ。霊体というものがあるならこんな感じなのかもしれない。目の前にブラックホールが現れる。その存在を知覚した。そして

八千代は事象の地平面にたどり着く。今の八千代に重力を感じるという事はない。特異点を超えたとき少女はとある部屋に放り出された。大理石の床で一回転してうつ伏せに倒れた。


「痛た。なんなのここ。部屋?」


起き上がりながら痛みと共に様々な感覚が戻ったと感じた。呼吸も自然としている。

その広い部屋は豪華なホテルの一室の様だった。床は大理石。キングサイズのベッドが置かれ、西洋甲冑や精巧な細工の施された巨大な壺等高価な調度品が飾られている。


「映画好きの先輩に無理やり貸してもらったスタンリー・キューブリックの映画にこんなシーンがあったな。でもどんな話だったっけ。」


アンティークの蓄音機からドビュッシーの【夢】が流れている。少女は裸足でペタペタと部屋を歩いてみた。20畳位の広さを歩き回るのに時間はかからなかった。

入り口のドアを開けようとしたが鍵がかかっているのか開かない。


「誰かいませんかー?誰かー。」


反応はなかった。

テーブルにはノアールの絵の具セットと画材。傍らにカンバスがあった。椅子の上にペストマスクが置かれている。


「後で海の絵でも描こうかな。」


取り敢えず今はさっぱりしたいと考え八千代は浴室の豪華な湯船にお湯を貯めてゆっくりと浸かる。


「はぁー。生き返るわー。あれ、私、本当に死んでたんだっけ?なんかお風呂に入ったらお腹空いてきたな。静岡県の旅行で食べたさわやかのげんこつハンバーグ食べたいな。」


湯気の中天井を見上げながら八千代はにんまりと微笑むのだった。






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