見えない月を二人で見ながら。

冴草優希

第1話

 改札を通り、人の波に流されるように駅を出る。信号待ちで空を見上げると、まあるい月が雲の海に浮かんでいた。

 まるで目玉焼きみたいだ、なんて思う。明日のランチは卵料理にしよう、とぼんやり考えながら、私は鳥のさえずりみたいな鳴き声を出すスクランブル交差点を渡っていく。

 途中のコンビニでアルコールやらパンやらを買い込み、すっかり顔なじみになってしまったバイトくんと世間話。店を出てどうしたものか、と一瞬考えて、まあいいや、と私はレジ袋からビールの缶を一つ取り出した。どうせ明日は休みだし、道中見られて困るような知り合いもいないし。

 カシュ、と気持ちのいい音。ビール……うそ、第三のビールが疲れた喉を潤していく。今週も、よくがんばった。自画自賛だけど、他に私を褒めるような人もいないから仕方がない。

 のんびりと歩道を歩きながら、ツマミを無しでお酒を飲む。この時間に、すれ違う人なんてほとんどいない。追い抜いていくスーツの男性も自転車ですれ違った大学生も、缶片手に夜道を歩く寂れた女なんて気にしている様子はなかった。

 えっちらおっちら歩いていくと、根城であるアパートが見えてくる。駅から徒歩十五分。築年数はそこそこだけどオンボロってわけでもなく、風呂トイレ別で家賃四万五千円。この辺りの相場よりもだいぶ安いのは……まあ、それなりの理由がある。

 わが家であるアパートは、事故物件、と呼ばれていた。


   ◆ ◆ ◆


 事故物件と言っても、別にバラバラ殺人の現場だったとか、首吊りで体液まみれだったとか、そういう話ではないらしい。でもこのアパートの敷地で人が亡くなったのは本当らしく……出る、という噂もあるみたいだった。私がそれを聞かされたのは、内覧を終えて契約書にサインをするタイミングだったけど。

 まあいいや、とそのまま契約をしたのが、だいたい二年半前。霊感なんてなかったし内覧の時も違和感とか無かったし、なにより家賃が安いのは当時の私には魅力的だった。

 鍵を開けて、靴を乱雑に脱ぎ捨てる。ビーフジャーキーを咥えながら窓を開け、新しい缶のプルタブを起こした。目の前がマンションの壁なのはちょっと風情がないけれど、夜風が気持ちいいから合格点、ということにした。


「あ、友香さん」


 右手から、いつきちゃんの声。缶を煽りながら横を向くと、いつものように半身を窓枠に預けた彼女が、こちらに笑いかけていた。


「おかえりなさい。今日は早いんだね」

「そうかなあ……ああ、晩ごはん食べてこなかったからそれでかな」


 いつきちゃんは、ぶらぶらと腕を下げたまま眉をひそめる。


「夕飯お酒とそれだけー? 体壊すよ?」

「いいのいいの。昼はサラダだったからバランス取れてるって」

「だらしないなあ……」


 明日はちゃんと、晩ごはん自分で作る予定だし。今日ぐらいはだらしなくしたって、神さまも笑って許してくれるだろう。少なくとも、私は許す。


「いつきちゃんこそ、用もないのに夜風なんて浴びてたら風邪引くぞー?」

「用ならあるもん。友香さんとお話するの、楽しいから」

「こいつめ、うれしいこと言いおって……お酒奢っちゃおうか? ビールだめならチューハイもあるけど」

「あーごめん、わたし未成年だから」


 衝撃の事実。でも確かに、言われてみればなんとなくその顔には幼さが残っている。肌もめちゃくちゃきれいだし。若いのをいいことに夜ふかししよってからに……


「今度はジュースも買ってこよう」

「いいよぉ別に、わたし何にも返せないから」

「未成年がそんな卑屈なこと言わないの。私が甲斐性無しみたいじゃん」

「甲斐性、あるんですか?」

「あるわっ!」


 ダメだ、既に酔ってるから口じゃこの子にちょっと勝てない。素面ならもっとお姉さんっぽい言い回しができるんだけど。いやほんとに。

 ジャーキーを頬張り、私は勝ち誇ったような顔のいつきちゃんを眺める。いったい何の勝負なんだか。若いんだから、いつきちゃんは戦う前から勝ってるようなもんでしょ。


「友香さん、新居決まった?」

「んーや、まだまだ。明日、不動産屋巡りするつもり」

「……予定あるのに、そんなにお酒飲んで大丈夫?」

「だいじょぶだいじょぶ、こう見えてお姉さん二日酔いとかなったことないから」


 年末、私はこの部屋を追い出されることになっている。決定の通知が届いたのは今月初め……いや、私が家賃を滞納したとか、そういう話では一切無くて。

 再開発計画の一環。今のアパートは取り壊され、目の前にあるのと似たようなマンションが建設される。事故物件からも解放されるし、大家さんにとってもいいことづくめだ。煽りを喰らうのは私たち住人だけど、大家さんが壊すって言うなら、四万五千で住ませてもらってる身としては従うほかない。


「おんなじ条件では中々ねぇ……」

「そりゃそうでしょ」


 駅からの距離か、ユニットバスか、家賃か。どれかを妥協することにはなるだろう。


「お酒も、あんまりこうやって飲めなくなるかなー」

「今が飲みすぎなんでしょ。もう二缶空けてるし……」

「ざーんねん。歩きながら飲んできたからこれで四本目なんだなあ」

「飲みすぎだって。友香さん、顔赤いよ?」


 いや、毎日こんな飲むわけじゃないし。一人だと一本で満足しちゃうし……今晩はほら、話し相手がいるから。


「かわいい女の子眺めながらだと、お酒進んじゃうんだなあ」

「ちょっと、わたしのせいにしないの。友香さんいい大人なんだから」

「言ってくることはかわいくないんだなあ……」


 いつきちゃんと同じように、窓枠に脇を置いて腕をぶら下げてみる。ちょっと胸がきつい。


「いつきちゃんはさ、どーすんの? 引越し先決まってるの?」

「わたし? まだ決まってない、かな……」

「ふぅん……?」


 ま、まだ時間はあるし。私だって何も決まってないんだから、とやかく言うことでもない。


「ここ、結構好きだったんだけどね。マンション建つ前は、花火もきれいに見えたし。友香さんと話すのも、割と楽しいし」

「割と?」

「酔ってない時の友香さんと話すのは好きだよ」

「酔ってないよ?」

「……酔うと鼻の穴広がるよね、友香さんって」

 

 え、うそ。そんなの初耳なんだけど? えっ何それめっちゃかっこ悪くない? っていうかそんな鼻穴見られてるの? いつきちゃんに?


「は、恥ずかしすぎでしょ……もう会社の飲み会出れない……」

「そこまでのこと……?」

「女子高生にはわからないだろうけどさあ……結構な大ごとでしょそれは……気づいてたなら言ってよ……」

「うーん……ちょっと大きくなってもかわいいけどな」

「うれしくなーい」


 一つもうれしくない。女子高生にかわいいって言われるくらいじゃ相殺されない。コンビニ店員とか同僚に「この人酔うと鼻の穴でかいな」みたいに思われてるとか、地獄でしょ。


「ふふ、楽しいな……友香さんとこうやっておしゃべりするのも、残りちょっとなんだよね」

「お、私今口説かれてる?」

「んーどうしよっかなあ……酔うと結構面倒くさいんだよね……」


 やめてくれ。こっちは大学時代「お前面倒くせぇよ」って捨て台詞で男に逃げられたのまだ引きずってるんだ。


「いつきちゃんが家で待ってたら、頑張れちゃうなあ私……お酒飲まずにダッシュで帰ってくるかも」

「ほんとにぃ?」

「どうせ飲むなら、二人でテーブル囲みながらの方が絶対楽しいでしょ」


 いつきちゃんと二人で料理作るのだって絶対楽しいし、成人したいつきちゃんとお酒を飲むのだってすっごく気持ちよさそうだ。アルコールの回った頭の中で、次第に新居での女子高生との生活が像を結んでいく。

 

「するかー? ルームシェア」

「ふふ……じゃあわたしも、友香さんについてこっかな」

「よーし、着いてこい着いてこい! かわいい子なら大歓迎だよぉ」


 いつきちゃんは、にこにこと笑っていた。もう、ほんとにかわいいなあ、この子は。


「それじゃおやすみ、友香さん」

「うーん? うん、おやすみー。風邪引いちゃダメだぞー?」


 時計を見ると、もう日付が変わろうとしていた。いつきちゃんの消えた窓枠を眺めながら、私はしばらく夜風を浴びていた。


   ◆ ◆ ◆


 朝起きると、妙に体が重かった。これが二日酔いなのかな、なんてことを思いながら、私服に着替えてドアを開ける。

 大きく伸びをして、左を見る。柵の向こうには、青空が広がっていた。


「よし、行くかぁ」


 逆方向を向いて、四つのドアの前を通って。階段を降りて地上に着いたところで、


「……あれ?」


 違和感を抱いて、振り返る。

 二階の一番東側に見えているドアが、私の部屋。窓から身を乗り出して右を向いても、そこに部屋はない、はずだ。


「友香さん」


 正面を、向く。

 制服を着たいつきちゃんが、柱に体を預けて微笑んでいた。


「お部屋探し、わたしも憑いていってもいい?」

「……ま、いいか」


 一人よりも、楽しそうだし。これまで家賃も割り引いてもらったし。

 かわいい女の子と今度はルームシェアできるなら、別にそれはそれでいいかな、と私は納得してしまった。

 新居は、月がよく見える部屋にしよう。花火が見えるなら、なおのことよし。

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