くだらない夜を超える
はし
ビールと扇風機
午後二十三時十五分。最後の一滴を飲み込んだ。生ぬるいそれは喉を伝い、ぼとぼと胃に落ちていく。
机の上に散乱したさきいかは、まだなくなりそうにない。空になったビール缶を床に置くと、吹き出すように汗が流れた。
強風に設定した扇風機は弱弱しく風を起こすが、そんなんじゃ火照った体が冷えそうもない。首を持って軽く揺すると、羽は一瞬回転速度を上げ、ゆるゆると力を失くしていった。回転が完全に止まってしまうと、途端に蝉の声がうるさくなる。大粒の汗が一滴、頬を伝った。
膝立ちで冷蔵庫に近寄り、扉を開ける。ガランとしたそこは整理がされているわけではなく、ただ単に物がない。いつか買ったキムチにわずかな調味料。お目当てのラベルは見当たらない。
「…買いに行くか」
壁に引っ掛けたパーカーを羽織り、財布とスマホをポケットに突っ込む。サンダルを引っかけ、1DKの家を出た。
東京の空は星が見えない。夜も明るすぎるのだ。街灯はそこらじゅうを照らし、見たいものも見えなくしてしまう。光を避けるように、暗い道を選んで行く。
真っ黒い空を仰ぎながら歩いていると、思っていたより酔いが回っていたようで、足元がふらついた。
街路樹が両端にそびえるコンクリートの道は、まっすぐに続いている。木々は鬱蒼と茂り、見ているだけで暑くなりそうだ。どうして冬は寒々しく裸になって、夏にそんなに厚着をするのだろう。ぽつぽつと立てられた街灯は、あるものの、暗さをすべて取りきれてはいない。星を無くし、暗さも拭えない。
「これに使う電気代に意味があるのか!」
思わず口からこぼれる。誰に聞かせるでもなく、言葉は暑さに溶けていった。いやいや、暗い夜道は怖いよね。街灯は必要だよね。はいはい、俺が悪かったです。なんて心の中で謝る。
なぜか、室内よりも屋外のほうが蝉の声が落ち着いている気がする。おんぼろ扇風機よりも、風も感じられた。広さの解放感ゆえだろう。頬に生ぬるい風を受け、一つ息を漏らす。
ふらふらと足元はおぼつかないが、頭はしっかりしている。近くのコンビニへの地図は頭に入っている。通いなれた道を、まっすぐ行く。それだけでいい。
それだけでいいのに、やっぱり俺は酔っているようだ。
街灯の下、ベンチの周りをうろうろしている人物が気になってたまらない。光の加減か、その人物はは某探偵漫画の犯人のように真黒だ。
履き慣れたサンダルのつま先をそちらに向けてしまったとき、俺の寄り道が確定していた。
「な、にしてんすか」
出かかったひゃっくりを飲み込み、不審な人物に話しかける。本来あるはずの警戒心とか、恐怖心とかは、その時ばかりは顔も出さなかった。どうせそいつらも酔っているんだ。
「あ、と、捜し物です」
その人物は言いながらゆっくり振り返った。清潔な黒髪にさわやかな水色のワイシャツ。好青年そうな出で立ちだ。唯一、気になったのは、赤黒く染まったジーパンの膝だ。布地はすり切れ、さらされた肌は血が滲んでいる。しかし、もう血は止まっているようだ。年齢は俺と同じくらいだろうか。見た目に反し、声は割と低かった。
「ふうん。コンタクトかなんか?」
「いや…うーん…」
思わずタメ口で話してしまったが、彼が気分を害した様子は無かった。しかし、なんとも煮え切らない返事だ。
「俺も手伝おうか?」
様子を見かねてそう言ってしまったが、彼からしたらいい迷惑だろう。酔っ払いに絡まれている。もし相手が女性だったとしたらナンパだ。
お断りの返事を待ちながら、俺はまた頭にコンビニへの地図を広げた。
「あーと…お願いできますか?」
「ええ。…んん?」
俺の予想に反した言葉に、酔っていても正常だった思考が、一瞬停止した。
見知らぬ人に話しかけられることはあれど、話しかけてこなかった俺が、初めて声をかけたのはかわいい女の子ではなく、同い年くらいの野郎だった。
二十三時五十四分。二人でベンチに座る。右側に座る彼を横目に見る。無表情だ。
照らす光にチラチラと影が入った。街灯に群がる蛾だ。蝉やら、なんやら、この時期は虫が多くて嫌になる。一番嫌なのはやっぱり蚊だ。奴らは血を抜くだけでなく、かゆくなる成分を持った唾を吐き捨てていきやがる。献血を見てみなさい。お礼にお菓子をくれたりするんだぞ。
なんてくだらないことを考えているうちに眠ってしまいそうになり、頭を振る。隣の青年は目が覚めているのか、はっきり開いた眼で遠くを見ていた。
「んで、何を捜してるの」
目の前を過ぎる蠅を見る。流れで彼の表情を見ると、切なそうに俯いていた。
「その…笑わない?」
「え?うん」
よく意味が分からず、考えないまま返事をする。
蠅が目の前に帰って来た。うっとおしいし、音もうるさい。たぶん、今は彼にとって大事な場面なようだ。俺も真面目に聞いてやりたいが、こいつのせいで集中できない。蚊より嫌いな虫がここにいたか。どこか行ってほしい。
「あと、冗談じゃない」
ぷうん、という気の抜けた音。蠅め、空気読めよ。
「うん」
「きみを馬鹿にしてるわけでもない」
考えなしの蠅は俺たちの目の前でアイドリングし始めた。潰すしかない。彼への返事として頷き、蠅を捉えるために両手を構えた。
「その、何を捜してるのか…わからないんです」
蠅を狙った一撃はあえなくかわされた。パチン、と乾いた音がむなしい。
「…はあ?」
隣の彼の表情を見る。彼はしっかりこちらを見つめているが、眉がハの字になっている。 様子を見るに、本当に俺を馬鹿にしてるわけではなさそうだ。もし彼がすごい演技力の持ち主で俺をだましていたとしても、そんなことをするメリットがない。こんなしがない学生をだましたところで、金も何も巻き上げられやしない。
まあ俺をからかっているとしても、なんでもいいか。どうせ暇だ。
「どういうこと?…全然わけわかんないんだけど」
ぬるい風が頬を撫でる。皮膚は冷やされている気がするが、皮膚の内側が暑い。
「その、気づいたらこのベンチにいたんすよ。いつのまにか寝てたのか…」
「酔ってここで寝てたってことか?」
尋ねると、彼は小首をかしげる。
「酔ってたのかな?」
彼の形の良い唇が歪む。不正解のようだ。
いや、不正解なのか?何だか様子がおかしい。いや、言ってることもおかしいけれども。目は泳ぎ、薄く膜も張り始めている。
「わからない…ここで起きる前のことを覚えてないんだ」
言いながら頭を押さえる。これは思っていたよりずっと厄介だ。
「じゃあ、お前は記憶喪失ってことか?」
冗談のつもりで鼻で笑って見せると、彼は目を見開いた。そのまま数秒動かずにいた。暑さで火照っていた頬が青ざめていくのが見てわかる。
「記憶…喪失?」
彼はあまり口を動かさずに言った。唇が色をなくしていく。
「ああ…そうか、そうだよな。覚えてないって…うん…」
事態の深刻さに、二人とも口を噤む。辺りが静かになる。ことは無かった。俺たちが口を閉ざすと、代わりに蝉が騒ぎ始めた。バチバチ、と弾けるような音に顔を上げると、蛾の集団にカナブンが混じっていた。
「気づいたらここにいたんだ。ここで寝てて…さっき起きて、なにか忘れてる気がして、捜してたんだ」
彼はぼそぼそと言った。喉元をさすっている。
「ここで眠る前を覚えてないってことだろ?」
「うん…何も思い出せない。なんでここで寝てたのか、ここで眠る前に何をしていたのか」
俺は医者ではないからよくわからないが、これは記憶喪失の症状であってるんじゃないだろうか。だとしたら。
「お前が探してるのは、お前の記憶、じゃないのか?」
尋ねるが、彼が納得したようではない。
「いや、違う。たぶん。ここらへんに俺の捜してるものがある、と、思う。記憶とか、ふわふわしたもんじゃない…ような」
ふむ。なかなかいい推理な気がしていたが。となると、すべきことは何か。
「…とりあえず病院行く?」
捜し物は置いておいて、記憶喪失は俺の手に負える問題ではない。彼のことを投げ出すわけではないが、病院に預けるのが適当だろう。
「病院…こんな時間に開いてるのかな」
確かに、もう夜中だ。一般の入り口は開いていないだろう。記憶喪失でも、そういうことは覚えているのか。
「急患のほうとかでいいんじゃねえの。分かんねえけど」
言うと、彼は納得したようで、小さく頷いた。
「そうか…そうだね」
納得した様子の彼に一安心し、スマホを取り出す。一番近い病院はどこだろうか。
「でも、その捜し物を見つけてからにする」
「はあ?何言ってんの?」
スマホを操作する手を止める。こいつ、何考えてるんだ。記憶喪失よりも優先することがあるというのだろうか。
「わかってるよ、変なこと言ってるのはさ。でも、それがないと落ち着かないんだ」
捜し物もわからないのに、どうしてそんなに気になるのか。俺にはわからないが、彼にとっては大切なことのようだ。正面を見つめる彼の表情は真面目だった。ため息が漏れる。
「…しょうがない。俺も手伝うよ」
「本当か!」
彼の声が嬉しそうに弾んだ。そんなに喜ばれても、俺に見つけられるかわからないが。
スマホをポケットにしまい、彼の眼前に人差し指を立てた。
「ただし、期限を決めよう」
「期限?」
「ああ。やっぱり記憶喪失の奴をいつまでもほったらかしにしていくわけにはいかない。捜し物が見つかればそれでいいが、見つからなかったとしても、期限を決めてそれを過ぎたら病院に行け」
言うと、彼は神妙な面持ちで頷いた。同意してくれたとみていいだろう。
「わかった。いつにしようか」
聞かれて、再びスマホを取り出す。時刻は午前零時二分。
「そうだな、二時間後の二時とかでどうだ?」
「二時間?短いよ」
なかなか我儘だ。というか、そんなに見つからないものなのか?
それから、何時間後の提案はことごとく却下され、なかなか期限が決まらない。
「…朝になったら」
「わかった」
投げやりになってそう言うと、彼はすんなり了承した。ため息をつき、スマホをポケットにねじ込む。
さて、ルールも決まったし、さっそく始めよう。
立ち上がると、彼もつられて立ち上がった。
「うっし、捜すかあ」
「おー!」
夜はまだ始まったばかりだ。
午前零時三十八分。早くも心は折れかけていた。
「なあ、これは?」
「…違う気がする」
こんな会話を何度繰り返したことか。この狭い範囲での捜索。何か失くせばすぐに見つかるはずなのだ。ベンチの上には片方のピアスやら汚れた小銭入れやら、見つけたものがズラリと並んでいる。これらはすべて彼らに一刀両断されたものだ。
「…なんか、タイムカプセル掘ってるみたいだなあ」
「え?」
独り言のつもりが、彼にも聞こえていたようだ。
「タイムカプセル。覚えてない?自分の大事なものをさ」
「いや、タイムカプセルがどんなものかは覚えてるよ。きみが、タイムカプセルみたいだって言うから、何のことかなって」
「ああ…これ」
今まで掘り出したごみを指さす。どれも土がついていて、汚れている。砂まみれの割れた定規をつまみ上げた。
「この前、成人式あってさ。その帰りにタイムカプセル掘り返したんだ。その時にこーんなかんじの汚い文房具とか出てきて…なんでこんなものタイムカプセルに入れてたんだろうなって」
定規の汚れを指で払う。見たことのある戦隊もののシールが貼られている。
「じゃあ、何が入っていたらよかったの?」
彼が穏やかな調子で尋ねた。
「何って…なんだろうなあ…」
考えてみても、何も浮かばない。俺が今、タイムカプセルに入れるとしたら、何なんだろう。
「お前は何を入れる?」
息をついてベンチに座る。彼はまだベンチ下を捜索していた。
背もたれに全身を預け、空を仰ぐ。鬱蒼と茂る木々の隙間から、かすかに星空が見えた。
「例えばさあ」
「うん?」
「お前がここで捜してるものが、ものじゃないって可能性は無いの?」
ベンチに乗った免許証を手に取る。泥が付き、滲んでいる。顔写真も彼のものと違った。
「…というと?」
「例えば、お前は何かをしにここへきて、それを忘れてしまったとか」
右隣に彼が座ると、ベンチが揺れた。免許証を裏返す。焦げたように黒い。
「ここに…何しに?」
「知らね。夜中にベンチで何しようとしてたんだよ」
「お、覚えてないって」
聞くと、彼は頬をこわばらせた。何も覚えてはいないが、なにかやましいことがないか不安なようだ。
「てか、お前持ち物は無いの?」
「そういえば」
ジーンズのポケットをまさぐる。次にシャツの胸ポケットに手を突っ込んだ。
「何もないや」
力なく笑う彼にため息が漏れる。捜し物についても、記憶に関してもヒントなしだ。
また空を仰ぐ。星が儚く瞬く。朝になるまで、なんて約束したが、決着はもうついたようなもんなんじゃないだろうか。
だめだだめだ。開始三十分でこんな状態では。暇つぶしとはいえ、一度言ったことを覆すのはよくない。
今までの捜し方はもういい。他の視点から捜すんだ。見方を変えよう。
星を見る。白く小さく光っている。そうじゃない、他の、違うものに目を向けよう。
邪魔だと思っていた木に目を向ける。星空が背景に変わる。そう、そんな風に。
「ん?」
木の葉の間に何かが見える。枝でも蔦でもなさそうだ。
まさかあれか?
ベンチの裏にある木の幹を視線だけ辿っていく。『何か』があるのはこの木のようだ。
立ち上がり裏に回る。太い幹によさそうなへこみを見つけ、そこに足をかけた。ちょうどよくある出っ張りやへこみを上っていく。
「どうした?」
彼が不思議そうに言う。
「ちょっと」
驚かせるつもりで答えを濁す。これは正解だ。そんな気がしてたまらない。
小学生の頃、学童クラブでやった宝探しを思い出す。突然、童心がよみがえってくる。見つけるまでのワクワク。見つけた時の喜び。そう言えば、木登りも、何年ぶりだろうか。
ようやく木の枝に辿りつく。目的の物は近い。しかし、この距離でもその正体がわからなかった。『何か』は俺を待つように、じっとそこにあった。
やっとのことで近づくと、それは柔らかそうだった。長く、木に巻き付いている。
蛇?
いや、蛇じゃない。だって、さっきから一ミリも動いていないし、第一、顔がない。割と太く、茶色っぽい。これは…?
木に巻き付いた部分から少し下に垂れている。視線で追うと、そこに輪があった。
「…あ」
それは、ドラマでしか見たことのないものだった。
首を吊るロープだ。
実物を見たのは初めてだったが、すぐにわかった。あの結び目、なんか名前がついてた気がする。知らないけど。
こんなものがあるということは、ここで誰かが…。
手が冷えていく感覚。次の瞬間、俺は地上にいた。
「大丈夫か!?」
彼が覗き込んでくる。街灯のせいで表情が読みづらい。たぶん心配しているんだろう。
一瞬で日常に帰って来たかのような安心感。そうだ、冷静にならなきゃ。第一、あそこでもし死んだのなら、遺体と一緒にロープも回収されたはずだ。
つまり、あれを括り付けた人物は、まだ生きている。これから首を吊るつもりか、もしくは…失敗したか、だ。
この場で死んでいなかったとしても、あれがあるのはまずい。彼に協力してもらって、あれを取り外そう。
彼が手を伸ばす。ふと、初めにも気になったジーンズの膝が目に留まる。
ここで何かしようとしていたんじゃないか。
自分の発言がよみがえる。彼はここで何をしようとしていたのか。その膝の傷は、どうしてできたのか。この暗い夜道で、何を…?
彼の手を取らず立ち上がる。驚いたような彼を置いて歩き出した。
「ビール買ってくる」
言い残し、足早にベンチから去る。彼がついてくることは無かった。
午前一時二十分。コンビニはすごい。生活に必要なものがほとんど揃っているのに、二十四時間開いているのだ。コンビニと、ネットショッピングがあれば、俺たちは遠出することなく生活していけるだろう。金は必要だが。
光に満ちたその場所から一歩出る。駐車場ではガラの悪い若者たちが騒いでいた。一人が立ち上がり、演説でもしているかのように話している。
今更になって、さっきしこたま打った全身が悲鳴を上げる。すっかり酔いは冷めていた。
アルコール類でいっぱいになったビニール袋から缶を一本取り出す。プルトップを上げ、一気にあおった。
戻ったほうがいいのだろうか。膝の傷、木にかけられたロープ。もしかしたら彼が…自殺を図っていたんじゃないだろうか。
もし、彼が自殺志願者だったら。それこそ俺の手に負えることじゃない。もし、ふとした瞬間に記憶を取り戻して自殺願望が芽生えたら。俺はカウンセラーじゃないし、漫画みたいに人の心を動かすようなセリフが出てきそうもない。
ため息が漏れる。今日だけで何回目だろうか。彼に会ってからだ。彼に出会うまで、今日は何もない一日だった。
あっという間に空になっていたビール缶を捨てる。二本目に手を伸ばした。
「すみません」
突然の声に驚き、肩を揺らす。声の方向を見ると、駐車場で騒いでいた若者の一人のようだった。
「…なんですか」
なんで不良に絡まれてるんだ俺。なにかしたっけ?
男は長身で、割と背の高い俺を細い目で見下ろす。スキンヘッドがコンビニの発する光でてかっている。
「頬にほくろのある男を見ませんでしたか」
以外にも言葉遣いは丁寧だった。というか、こいつも捜し物か。今日はなんでこうも捜し物をしている奴に縁があるのか。
咄嗟に彼を思い出したが、頬にほくろは無かった…気がする。それに、もし彼の関係者だったとしても、こんないかつい奴に彼を渡すのはリスクが高い。
「見てないです」
嘘はついてない。彼の頬にほくろは見なかったし。
「そうですか。ありがとうございます」
男は淡々と言うと、駐車場には行かず、大通りへと歩いて行った。
「何なんだよ、もう…」
出そうになったため息をビールと飲みこむ。
いつまでもこうしているわけにはいかないし、ここまできて彼を放置して帰るほど無慈悲でもない。俺はのそのそとベンチに向かった。
ベンチに着く頃には三本目の缶が空いていた。彼はベンチに座って先ほど見つけた品々を物色していた。しゃっくりをすると、彼がこちらを向く。
「おかえりなさい。…酔ってるね」
「おう。っひく、お前も飲むか?」
言ってから、彼が記憶喪失だったことを思い出す。記憶がないということは、自分の年齢もわからないのだろう。
「歳、覚えてないよな?」
「うーん…わかんない」
「じゃあ駄目だ。これ食ってろ」
チーカマを渡す。彼は残念そうに受け取った。当然のように彼の左側に座る。
「十代ではないと思うんだけどな」
「まあ見た感じ同い年くらいだけど。もしかするかもしれないしな」
「意外と真面目なんだな、きみ。てきとうそうなのに」
不満げにチーカマをむさぼる。腹が減っていたのだろうか。
「何か見つかったか」
「なにも。記憶も戻らない」
ビールをあおる。進展は無しか。進展?俺たちはどこまで捜していたんだっけ。なんで俺はビールを買いに行ってたんだ?一気に摂取したアルコールのせいで、頭がぼおっとする。
「なあ、さっき木の上で何を見たの」
聞かれて、ビールが気管に入った。むせる。せきをすると、彼が背中をさすってくれた。昔から思っていたが、背中をさすることでせきが出やすくなったりしているんだろうか。ってそれどころじゃない。
そうだった。ロープだ。あれを見て…。気まずくなって…それで…。
俺は彼に本当のことを言うべきか?あのロープのことを。言えば、彼も俺と同じ結論に辿りつくんじゃないだろうか。馬鹿な俺でも思いついたことだ。それが当事者ならばすぐにわかるだろう。それがきっかけとなって、記憶が戻ったり…。
「…蛇がいた」
「…蛇?」
咄嗟に口から出たのは、俺がロープに抱いた第一印象だった。
「蛇って、やばいんじゃないか」
「大丈夫。俺が気づいたら逃げたから」
「本当?」
彼が心配そうに気を見上げる。心臓が高鳴る。ロープがばれないだろうか。
そうしてどれくらい過ぎたか。実際には数秒だろうが、すごく長く感じた。彼が視線をこちらに向ける。
「まあいいか」
そう呟き、またチーカマを食べる。なんとなく買っていた炭酸飲料を渡すと、「いつか金は返す」と言って受け取った。
暑さも少し落ち着いてきた。もともと夜中だからそこまで暑くは無かったが、ジメジメした感じは消えない。
缶をあおると、残りは少なくなっていた。瞼が重くなってきた。もういい時間だろうし、酒の力もあるだろう。隣の彼はまだ元気そうだった。さっき起きたって言っていたしな。
眠気をおさえ、スマホを取り出す。ブルーライトが目に沁みる。時刻は午前二時四分。いつのまにか結構な時間が経っていた。眠くなるわけだ。
ネットに繋ぎ、ニュースを見る。政治にエンタメ、スポーツのトピックが並ぶ。気になるものを見つけ、タップした。
『昨日二十時、府中市のアパートで殺人事件。殺されたのは住人の髙倉好美さん(52)。警察は同じ家に住んでいた息子の髙倉章文さん(21)を重要参考人として捜索中。』
府中。ここから一駅しか離れていない。そんな身近で事件が起きていたなんて。驚きを隠せない。しかも、犯人はまだ捕まっていないようだ。その証拠に、息子が重要参考人として捜されているようだ。この息子、俺と同い年じゃないか。
それにしてもこの苗字。どこかで聞き覚えがあるような。ありふれた苗字ではないし、同じ苗字の知り合いがいたんだろうか。
「タカクラ…」
呟くと、炭酸の缶を口に運んでいた彼が反応した。大きく喉を鳴らして飲み込む。
「な、なんだよ」
「タカクラ?」
「うん。タカクラ」
スマホを見せようと彼に差し出したが、彼は画面を見なかった。頭を抱えている。
「どうした?」
「タカクラ…聞いたことある気がする」
とても辛そうだ。目を見開き、汗が伝っている。もしかして、記憶が戻りかけているのか?
「聞き覚えがあるのか?」
「ああ…よく聞いてたような」
「お前の苗字ってことか?」
尋ねると、彼は唸り、俯いた。顔色が悪い。これ以上、追求しないほうがよさそうだ。
かくいう俺も、タカクラという苗字に聞き覚えがある。記憶がある俺でさえ思い出せないのだ。他人ばっかり問いただすのはやめよう。
チーカマを齧る。ぬるい風が吹き抜けていった。
午前二時二十五分。彼の様子が落ち着いてきた。安心したが、ずっと休憩している訳にもいかない。少しうとうとしてきた彼を置いて、俺は捜索を再開した。ついでにロープをパッと見で見えないところまで隠す。
また辺りを見回ってみるが、やはり何も見つからない。さっきみたいに、見方を変える必要がある。
さっきは上だった。そうしたら今度は、下?
「いや、下をさんざん捜して上に行ったんだよ…」
誰に言うでもなく呟く。彼はコクコクと舟をこいでいた。おねむの時間だろう。
記憶喪失って、そんなにのんきでいられるものなんだろうか。なったことがないからわからないが、相当焦るものなんじゃないだろうか。
横目で彼を見る。彼はじっと動かなかった。眠ったのだろうか。
タカクラ。彼はタカクラという苗字に聞き覚えがあると言った。一番に思いつくのは、彼の苗字だという可能性。次に、彼の大切、身近な人物の苗字だ。
どちらにせよ彼に関係があるのだろう。まあ、これは考えていても分かりはしないだろうから、悩むだけ無駄だ。
それにしても、俺の知っているタカクラは誰なんだろう。俺もタカクラに聞き覚えがあるのだ。タカクラ。うーん、大学の友達ではないしな。
ぼんやり考えながら木の根を見ていると、一か所、違和感のある場所を見つけた。木の根と根の間、なぜか部分的に土の色が濃い。加えて、雑草もそこだけきれいに生えていない。怪しい。
しゃがみ込み、辺りを見渡す。太めな木の枝を見つけ、それをシャベル代わりに土を掘る。濃い色の場所だけ柔らかい。ついに正解だろうか。
どんどん掘り進める。三十センチほど掘ると、土にまみれた新聞紙が出てきた。新聞紙は丸められている。
手に取ってみると、新聞紙だけとは思えない重さだった。中に何か入っているようだ。
新聞の日付が目に留まる。一昨日の新聞だ。
土を払い、新聞を開いた。
一瞬、息が止まった。
包丁だった。
全体的に茶色っぽくなっている。しかし、おそらく土の汚れじゃない。この鉄臭いにおい、これは、血じゃないか。
新聞を持つ手が震える。逆流してきた胃の内容物を止めるため、両手を口に当てた。反動で包丁が穴に落ちる。
頭が真っ白になった。そのあと浮かんできたのは、先ほど見たニュースの記事。
『府中で殺人事件』
まさかこれが凶器か?包んでいた新聞の日付は一昨日のもの。可能性は…ある。
もしかして、彼の捜していたもの?だとしたら、彼が、殺人を犯した…。
もしこれが彼の捜し物で、彼が殺人者なら。これを見て、記憶が戻ったら。彼はどうするだろう。素直に自首する?いいや、逃亡してるんだぞ。そんな行動をとるとは思えない。もし彼が犯人なら、まずは…凶器を目撃した俺を、
殺す?
最悪の結論だ。咄嗟に俺は新聞を拾い上げ、包丁を包んだ。そのまま穴に投げ、手で土をかぶせる。ならすために、強く足で踏んだ。
いや、いや。まだ彼が殺人者だと決まったわけじゃない。そうだ、そんな偶然ありえない。記憶喪失者に出会うのだってまれなのに、、それが殺人犯だなんて、そんなことあるだろうか。
必死に心を落ち着かせるも、息は上がっていくばかりだった。ありえない。ありえない。ああ、アルコールだ。酔ってるせいで、こんなに心臓が騒がしいんだ。おかしい。そんなこと、起こりえない。そんな偶然あり得ない。
ありえない。ありえない。ありえない。あ
「どうした?」
ハッと、動きが止まった。ついでに呼吸も止まった。彼の声だった。
「何してるんだ、そんなとこで」
街灯の光が翳る。こっちに来る?
「なんでもない、なんでも…」
振り返る。できるだけ平静を装う。口角を上げよう。笑えているだろうか。
光に照らされた彼が、じっとこちらを見ている。そういえば、この暗さのせいで、彼の顔をじっくり見るのは初めてかもしれない。そのせいだ。
「あ、ああ…」
暗かったから、気づかなかったのだ。いつも左側に座っていたから、見えなかったのだ。
彼の右頬に、ほくろがあるのが。
『頬にほくろのある男を見ませんでしたか』
午前三時二分。気づくと俺は走っていた。方角は北。コンビニのあるほうだ。
あの後、俺はどうしたんだろうか。何か言ったのだろうか。何も言わずに走って来たのか?何も思い出せない。とりあえず、コンビニのほうに走っているということは、あの男に彼の存在を伝えようと考えたのだろう。
暑さのせいだけでない汗が服を濡らしていた。息も切れ切れで、足がつりそうだ。
この際、あのスキンヘッドがどんな奴でもいい。彼を引き取ってくれるなら、誰でもよかった。どうして、今まであんな得体のしれない人物と一緒にいられたんだろう。アルコールだ。酔っていたせい。それしかない。彼の危険に気づいた今、酔いは冷めたということだ。
走る、走る。サンダルが脱げそうでもどかしい。
コンビニを通り過ぎ、大通りに出る。人影はなく、客のいないタクシーだけが通って行った。
大通りのほうが街灯が少ないなんて。人も建物も少なく、空の星がよく見える。ああ、夏の大三角形だ。アルタイルが輝く。
動かない足に鞭を打ち、引き返す。右足が動ききることができず、左足に絡まる。バランスを失い、その場に倒れこんだ。膝が熱い。じわり、とぬるい水が滲む感覚。ゆっくり起き上がる。ジーパンの膝が赤っぽくなっている。そこだけ涼しく感じる。
「何やってんだ…」
ため息。何やってるんだ、俺は。何をしてるんだ俺。
何をしたいんだ。俺は。
どうしたらいいんだ。俺。
立ち上がり、元来た道を行く。
午前三時十六分。コンビニの前の若者は三人まで減っていた。
近寄ると、赤いパーカーの男が気づいた。つられて黒シャツの男もこちらを見る。
「なんだあ?補導か?」
黒シャツがガンを飛ばしてくる。補導だと思うということは、未成年か?赤いパーカーと、もう一人のサングラス男もこちらを見ている。ちらりと見たズボンは三人とも学生服だった。
「なあ、さっきいた男はもういないか?」
聞くと、三人は顔を合わせた。
「あの、男を探してた、ええっと、スキンヘッド!スキンヘッドの奴」
「タカクラのこと?」
口を開いたのはサングラスだった。態度からして、この男が三人の中で一番上位にいることが分かる。それよりも、
「…タカクラ?」
「タカクラだろ。スキンヘッドででかい奴」
あいつ、タカクラっていうのか。偶然?タカクラなんて、多い苗字じゃない。もう、今日はどうしたっていうんだ。どうなってるんだ。
「あいつならもう帰ったよ」
赤パーカーが言った。
「捜してた男は見つかったのか?」
「ああ。あいつの兄ちゃんな。いや、まだだろ。でも帰んないと、あいつんち、母ちゃんの面倒見なきゃだから」
スキンヘッドが探していた人物は兄?つまり、その捜されていた人物の苗字もタカクラということだ。
『タカクラ…聞いたことある気がする』
まさか、まさか。ほくろはあったけど、似てなさすぎだろ。
「あんた、タカクラの兄ちゃんを見つけたのか?」
「あ、ああ…。たぶん」
「まじか。あいつに言っとくよ」
サングラスが言うと、黒シャツがスマホを取出し、いじり始めた。メールしているのだろう。
「でも気づかないかもな。忙しいだろうし」
赤パーカーが言うと、黒シャツが大きく頷く。
「タカクラはすげえよなあ。母ちゃんの世話して、バイトして」
「まあ、昼間は兄ちゃんもいるだろうけど、夜中は兄ちゃんも捜さなきゃいけないしなあ」
「どうして兄さんを捜さなきゃいけないんだ?」
俺が聞くと、口を開いたのはサングラスだった。
「あいつの兄ちゃん、夢遊病なんだよ。毎回じゃねえけど、ふらふら出て行っちまうんだ。んで、厄介なのが」
「寝てるくせに意識があるってこと!」
言ったのは黒シャツだった。言った後にハッとして視線をサングラスに移す。
「まあ、意識があるっつうか、夢遊病だってわからないくらいよく喋るし、動きもしっかりしてるらしい」
「それ夢遊病なのか?」
「ああ。朝になると、その時の出来事は一切覚えていないんだと」
そんなことがありうるのだろうか。記憶喪失やら夢遊病やら、今日は信じられないことばかりだ。
俺の疑わしげな表情に気が付いたのか、サングラスは話し始めた。
「海外で、こんなことがあったらしい。ある男が、州をまたいで親戚を殺害した。男は州をまたぐ際に車にも乗ったが、翌朝男はそのことを全く覚えていなかった」
サングラスが脅かすように言う。黒シャツはその話を聞いて口角を下げた。
「まあ、そんなこともあるくらい、夢遊病は馬鹿にできねえってことだよ。タカクラにはあんたがあいつの兄ちゃんを見つけたことは言っておく」
サングラスはポケットから小箱を出すと、たばこを一本抜いた。ライターをだし、ふかし始める。煙に追われるようにして、俺はその場を去った。
午前三時五十五分。街灯に照らされたベンチには誰もいなかった。
見慣れた彼がいないこと、正体不明の男がいなくなったことで、心配と安心が押し寄せてきた。
良かった。いなかった。気まずくなくて済む。正直、会うのは少し怖かった。記憶喪失なのが心配で戻ってきたが、もう家に帰りたい。
けれど…どこに行った?記憶のないまま、ふらふら歩き出したのか?
いや、そんなわけがないか。記憶喪失が分かった跡でも、捜し物を優先した男だ。
ならば、どうしたのか。攫われた?まさか、大の男が誘拐なんて、されるわけないか。
じゃあ…。
胸の底から、ため息が出る。なんだ、結局、心配が勝ってしまっている。そんなにお人好しだったろうか。
さっき買ってきたコンビニの袋はそのまま置かれていた。新しい缶を取り出す。プルトップは上げないまま、頬に当てた。少しぬるくなっている。
ベンチに横になる。さっき隠したロープが、角度のせいかよく見えた。彼は気づいてなかっただろうか。
靴を脱ぐ。足が解放されると、眠気が襲ってきた。もう帰ろうか。しかし、もしかしたら彼が帰ってくるかもしれない。
スマホを取出し、またニュースを見る。あまり新しい記事は見られない。掲示板を開き、交信時間の新しいものをタップした。
『府中殺人事件、新情報。犯人は逃走途中でバイクに轢かれかけていた。そのため、足を負傷していると思われる。遠くには逃げていないのではないだろうか』
「轢かれた…足を負傷か」
足を負傷…そういえば…彼も、膝に傷を負っていた。
やっぱり、彼が犯人なのか…?でも、スキンヘッドの兄、夢遊病者の可能性もある。
彼は誰なんだ。
彼の捜し物は?
考えがまとまらない。頭痛がする。視界が暗くなっていく。
「おい、大丈夫か?」
振り返ると、そこには懐かしい顔があった。
「ああ。ちょっと疲れた」
「お前は昔っから体力ないよな。そんなんでよく部長できたよな」
言うと、目の前の男はふはは、と笑って酒をあおった。お互いスーツはもうよれよれだ。
「中学以来だからもう五年ぶりか。久しぶりだな」
辺りは騒がしく、女子の派手な色のドレスで目が痛い。最初で最後の成人式、楽しまなくてはいけないことはわかっているが、昨日も遅くまでバイトだったせいで恐ろしく眠い。
あたりさわりのない話。お互いの近況を語り合う。眠い体が覚めてきたころ、目の前の男はすっかり酔っていた。頬はわかりやすく朱に染まり、目元もとろんとしている。
「そういえば、お前、タカクラって覚えてるか」
「タカクラ?」
聞き返すと、男は目を丸くした。
「タカクラだよ。部活、一緒だったろ」
タカクラ。うむ、思い出せない。
「お前、部長だったのに…はあ。ま、お前頼りがいはあったからな。まあいいや。そのタカクラがさ…行方不明らしいぜ」
男はヒヒヒ、と笑った。何も楽しい話ではないだろう。
「いつからなんだ」
「大学受験の後らしい。覚えてないだろうけど、あいつんち、家族全員頭良くてさ。両親は銀行員、弟もいい私立中学行ってたらしくて」
「え、でも俺たちの中学って」
「そう。市立。落ちたらしいんだ、タカクラは。それで大学受験も落ちたらしくて」
頭の良かったタカクラか。同じ部活で、一人だけ有名な高校に行った奴がいたことは覚えている。そいつだろうか。それにしても、大学受験に落ちたことで行方不明とは。
「家でリスカしてるのを、弟とその友達に見られて逃走。そのまま行方知れず」
サラサラいうと、男はそばにあったベーコンを口に放り込んだ。
「リストカットしたのか」
「ああ。あんまり言いふらしちゃいけないんだろうけどな」
受験に落ちて死のうとするなんて。不合格だったことを、家族は慰めたのだろうか。それとも…落ちた彼を、責めたのだろうか。
大学受験。精神的にきつかったことは覚えている。友達とも遊びにくいし、不安ばかりで。そんな努力を、せめて家族には認めてもらいたかっただろう。
「捜索届は」
「出してないみたいだ。冷たいよなあ。家族がいなくなったっていうのに」
お気に召したようで、男はベーコンをもう一切れ口にいれた。
「いまも、どっかフラフラしてんのかな」
「さてね。リスカしてたやつだぞ。生きてると思うか?」
「…死んでるかもしれないってことか?」
男はまた不気味に笑うと、苺を取った。
「さあな。まあ、再チャレンジくらいはするんじゃねえの」
そのまま苺をほおばる。急に現実味を帯びた話に、頭がついて行けてなかった。
「もう、そんな顔すんなよ。折角の成人式だぞ、もっと笑えよ」
男が、がははと笑う。右手を後ろに振りかぶった。途端に視界が真黒に変わり、顔に衝撃が走る。そういえば、こいつすぐ叩くんだよな。と、思い出した瞬間、目が覚めた。
目の端で缶が転がっていくのが見える。視界には不自然に開かれた自分の手があった。今の衝撃は、缶が顔に直撃したもののようだった。
午前五時二分。起き上がると、先ほどよりも空の色は薄くなっていた。しかし、街灯はまだついたままだ。
ガサガサという音に振り返ると、彼が背を向けてしゃがみ込んでいた。
ちょうど、首つりのロープの下だ。
自殺志願者の可能性が、今の夢でまた出てきてしまった。夢に過ぎないが、成人式で話した内容はそのままだし、行方不明になったのもタカクラだったはず。リストカットに失敗、逃走する。人気のない街路樹の中、首つりを図る。そして、それも失敗。落ちた衝撃で膝を怪我し、打ち所が悪く記憶喪失…。
ありえない話ではないんじゃないだろうか。記憶喪失になった過程も説明がつくし。まあ、証拠はないが。
そう、俺の今までの仮説にはどれも証拠がない。証拠がないから決めつけきれないし、他の可能性も検討してしまう。
証拠だ。彼をじっと見つめる。例えば自殺志願者の仮説なら、手首にリストカットの跡があるだろう。
しかし、この距離では手首まで見切れない。わざわざ聞くのも、嫌な記憶を思い出させては困る。他にわかりやすい証拠はないか。
そうだ、首つりに失敗したなら、多少なりとも首に跡が残っているんじゃないだろうか。失敗したのなら、首にロープのこすった跡があるんじゃないか。
目を凝らし、彼の首元を見る。駄目だ。ワイシャツの襟で見えない。
無意識に舌打ちしてしまう。すると彼がこちらを向いた。
「なんだ、起きてたなら言ってよ」
彼は少し怒ったように言うと、俺の隣に座った。やっぱり右隣で、ここじゃほくろは見えない。
「…お前、どこ行ってたの」
「え。ああ、ごめん。トイレ捜してたんだ。公衆便所が思いのほか遠くにあってさ」
へらり、彼が笑う。
違う、聞きたいのはそんなことじゃない。
「それにしても、きみは優しいね」
「…あ?」
思わず低い声が出た。頭が混乱していて、気持ちの整理がつかない。いらいらする。
「こんな見ず知らずの俺に付き合って、捜し物してくれて。きっと俺一人だったら、不安で泣いてたよ」
「…だったらさっさと病院行けば良いんじゃねえの」
きつい言い方をしてしまった。視線を下げる。視界の端に、彼が映る。
「…そうだよね。でも、捜さなきゃいけない気がするんだ。きっと俺にとって、すごく大切なもの。それが見つかれば、記憶も戻る気がするんだ」
希望的観測だ。楽観的だ。考えなしだ。
「記憶も戻らねえし、捜し物も見つかんないじゃん」
すねたように言うと、彼がため息をついた。
「そうだね。きみに手伝ってもらったのに申し訳ない」
違う、違うんだ。聞きたいのは謝罪の言葉なんかじゃないし、言いたいのはこんな言葉じゃない。
顔を上げ、彼の目を見据える。
「…お前、誰なんだよ」
記憶喪失の奴に聞いたってわからない、ということはわかっている。でも、聞かずにはいられなかった。
彼は俺の目を見つめ返した。
「ごめん、やっぱり思い出せない」
神妙な面持ちで出た言葉は、わかりきっていたものだった。視線を落とす。やっぱり手首は見えづらい。
「でもさ」
彼の唇が動く。
「自分が誰かって、それまでの記憶が決めるだろ。俺は、生まれてからこれからの記憶はないけど、きみと過ごした数時間が、俺の記憶だ」
言いたいことはわからなかった。視線を上げる。やっぱり襟が邪魔だ。
「…つまり?」
「つまり、きみと過ごしてる俺が、今の俺なんだ」
わけがわからない。しかし、彼の笑顔と、薄紫の空が綺麗だった。薄くかかった雲が星を隠していく。
「なに言ってんだか…」
呟いた言葉は、風に飛ばされた。
なんだか、いろいろ考えていたことが馬鹿馬鹿しくなってきた。何に悩んで、何にイラついていたのか。今もやっぱりわからないけど。
彼はまだ笑いながら俺を見ている。
「あーあ。もうこれ朝だろ。そろそろ病院行こうぜ」
立ち上がり言う。小さく伸びをして、空気を一杯吸い込んだ。体の中の汚いものが、消えていったような、そんな気がする。
「朝?日が出てから、とかじゃなかったっけ」
「んん?
「どっちだっけな。まあどっちにしろ、もう日も昇る。朝だよ」
目線を映す。遠い道の向こうから、黄色い光が輝いている。
「あそこ見て」
彼も立ち上がり、昇る日の反対を指す。
まだ藍色の空に、小さな光がてんてんと残っていた。
「…で?」
「だから、まだ日が昇りきってない」
「つまり?」
尋ねると、彼は大きく笑った。
「まだ夜だ!」
子供のような言い分に、言葉が出ない。
そういえば、彼が大声を出したのは初めてかもしれない。まあ、夜だったからか。
夜なのか。
「…くだらねえ」
「ん?」
笑みがこぼれる。ああ、もう何も考えられない。
「夜に大声出すなって言ってんの!」
言うと、彼は目を丸くし、笑った。
「そっちこそ!」
二人分の笑い声が響く。湿った空気が喉を濡らした。夜はまだ明けない。
午前五時三十二分。空は白く染まった。街灯の電気はいつの間にか消えている。他に言いようのないほど、朝だった。
ベンチの上には俺たちが見つけたがらくたがショーウィンドウのように並べられている。
「…見つかんなかったな」
俺が言うと、彼もようやく諦めたようで、ため息をついた。
「ああ…。気になるなあ。俺の捜し物、何だったんだろ」
「つか、捜してる物がわかんない時点で終わってんだろ」
「それもそうだな」
笑みがこぼれる。全く、何をしていたんだか。
「さて、そろそろ帰るかな」
「うん。こんな時間までありがとうな」
彼と正面から向き合う。非の光に照らされた彼の頬に、ほくろがしっかり見える。よくよく見ると、目元とも言える位置で、頬のほくろとは言い切れなかったかもしれない。
彼が右手を出す。ぼうっとその手を見ていると、無理やり俺の右手を取った。そのままブンブンと上下に振ると、手が離される。
「じゃあな」
「ああ」
言うと、彼は日の昇るのと反対に歩き出した。まるで、まるで彼に続くように、暗闇が晴れていく。その背中を見送る。そういえば、病院の方向はわかるんだろうか。
まあ、いいか。夜は終わった。これからはあいつの問題だ。俺も、いつもの生活に戻らなくちゃならない。
彼に背を向け、歩き出す。早く部屋に帰ろう。ひと眠りすれば、頭ももう少し回るはずだ。そうしたら、見つけたロープやらナイフやら、ベンチで見つけた物のことを考えよう。今はもう少し、彼の残した朝を味わいたい。
夜が終わり、朝が始まる。
くだらない夜を超える はし @ksn8
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