陽の当たる宿屋
帳 華乃
第1話
ある所に宿屋があった。屋号は「縁」と刻まれていた。
対岸には滝が見える湖の畔に位置しており、秋には紅葉が楽しめる。
かつては神社があったとも噂される程の好条件の立地であるから、多くの人が楽しめるようにと、紅葉の頃は食事処としても解放している。従業員の気配を感じない為、神社の件も相まって、日向ぼっこに来た猫達が手伝いをしている、なんて噂もある程。
三代目の当主はその噂を聞く度、「少しでも落ち着ける時間を過ごしていただきたいじゃない。その為の努力くらい、惜しみませんわ」と胸を張る。
ここは、そんな人情味溢れる宿屋だ。
三代目当主とはいっても、中々に若い女性が女将を務めている。歳は三十代前半と見えよう。長い黒髪を後ろでくるりと巻いており、尚のこと若々しく見える。
女将さん曰く。
「動きやすさ、清潔感を重視しておりますの。こういった営業は、第一印象が大切ですから」
微笑んだ時に簪の飾りが少し、揺れた。
その日は小春日和という言葉が良く似合う、空気もからりとした秋晴れだった。まだ紅葉には早いが、散歩日和とも言えよう。
相変わらず猫は縁側で陽の暖かさを堪能していた。恐らくこの宿屋の過ごしやすいところを一番知っているのは、猫達であろう。
何故猫の侵入を許すのですか、と女将さんに問うた客がいた。
「うちは猫達がいることは、売りなのです。折角陽の当たる場所に宿屋があるんですもの。出し惜しみなんて損ですわ。人も猫も足繁く通う宿屋なんて、素敵ではありませんこと?」
女将さんはそう言って、アルカイックスマイルを披露した。
そんな女将さんは、猫に限らず生き物が好きである。そして、湖から蛙が鳴く声が聞こえる頃になると、よく零す言葉がある。
「雨が降ると陽が陰りますけれど、風流な声が聞こえてきますわ。余裕を持って蛙達に接したらそれだけで、蛙達にも余裕が生まれるものです。……騒音で悩まされるなんて言いますけど、ここで煩く感じたことなんてありませんもの」
確かに、一度もお客さんから苦情が来たことはない。まるで蛙が一歩譲っているかのように、声は一定を超えない。
「猫達だって西洋では魔女狩りなんて迷信で痛めつけられたようですし、日本では猫又なんて物の怪もありますわ。そうして猫にも人間にも余裕がなくなった結果、ペストが猛威を奮ったのです」
女将さんは首を少し傾いで、微笑みながら言う。
「何事にも余裕は必要ですし、それが失われそうな時は誰かや生き物達に助けて貰えばいいのです。人と猫も蛙も、対等なのですから」
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