第165話
その頃、地下にある教会ではシスターが祈りをささげていた。
十年前の『災害』以降、宗教はその熱を増していった。人々の暮らしが大きく変わったのが原因だと言えるだろう。宗教はいつの時代でも人々の生活に結び付くものである。かつてはリリーファーを神と崇める宗教もあったほどだ。
シスターは祈りを捧げ、踵を返す。
同時に、シスターと祈りを捧げていた人々は頭を上げた。
シスターを見る人間はどれも薄汚い服を着ているなど、どこか風貌がみすぼらしい。
彼らはティパモールでも一日を暮していくことが非常に困難な存在である。かつては国が補助をしていたが、それも財政難により打ち切られた。この世界には余計な人たちを養っていけるほどの資源が無いのだから。
「祈りはきっと届くはずです。私たちが苦労していることも、神は見ています。ですから、落ち込むことはありません。祈りを続けていれば、きっと」
シスターはこの教会に一人で暮らしている。かつては資産家の娘だったが、資産家である親が亡くなって以後、このようにシスターとして活動している。シスターとしての活動は食べ物に困る人々に一日一回配給を与えること。配給と言っても簡単なスープとパンだけだが、それだけでも食べ物に困っている人々にとっては天の恵みと言えるだろう。
シスターはそれについてリターンを求めているわけではない。あくまでも無償で行っている。善意、とも言えばいいだろうか。
しかしながら、資産というのは限りあるものであることもまた確か。
シスターが持っている資産は、もう底を尽きかけていた。
「本当なのかい?」
「……どうしたのですか」
シスターの前に居る母親と思われる女性がシスターに訊ねた。なぜ母親と判断したかと言えば、彼女の腕には幼い子供が居たからである。
子供は衰弱しており、母親もまた然りだった。
「神の祈り、だよ。こんなに毎日祈っても、神は救っちゃくれないじゃないか。本当に神様ってもんが居るのなら、私たちのこの状況を見ているのなら、少しくらい手を差し伸べてくれてもいいんじゃないかい?」
「……神様は私たちを見ています。いつか、必ず助けてくださるはずです。きっと」
「きっと、というけれど、それは嘘じゃあないのかい?」
「おい、あんた」
母親の言葉を聞いて、隣に居た男が母親の肩を持つ。
「あんたも思わないのかい!? 神なんていない、嘘だらけの存在だったことをさ! だって、神が居るなら、私たちを少しくらい助けてくれるはずだよ!! どうして同じ人間なのにここまで変わってしまうんだよ! 私たちは今日の飯すらありつけちゃいないっていうのに、首都周辺に暮している貴族サマは今日の飯を食べきれないからと有り余らせている! この格差はどうなんだい! これを見ていればなおさら、神様なんて居ないと思うのは当然のことだろう!?」
シスターはそれに対して何も言い返せなかった。
「神様は……いる! 居るんだ! それに、彼女は私たちに食事を与えてくださっている! そんな彼女を攻撃する権利は、あなたには……いいや! この場所には居ない!」
男の言葉に、母親と思われる女性は何も言えなかった。
そしてその男の言葉により、嫌悪感が渦巻いていたが、それが無くなった。
「さあ、食事にしよう」
手を叩いて、男はシスターの隣に立つ。
シスターはそれを聞いて、あわてて裏へと移って行った。
「食事が欲しい方は僕の指示に従って行動してください。それでは、食事提供の場所へとご案内します」
そして男の指示に従って、教会に居た人間はゆっくりと外へと誘導されていった。
外ではすでに寸胴が用意されていた。鍋には様々な具材が煮込まれており、スープには旨みが溶け出している。その横にはすでにある程度の大きさに切られている丸いパンがお皿一杯に盛り付けられていた。
スープを掬い、それをお椀の中へ。それとパンを渡す。それが今日の配給だった。
「まだまだありますよ、あわてないでくださいね!」
シスターの言葉に人々は従う。
こうして配給は――すべての人々にいきわたるようになっている。
スープが底を尽くのと同時に、最後の人となった。それを見てシスターは小さい溜息を吐いて、頭を下げた。
「何とか全員に振る舞うことが出来たようね……。良かった、良かった。もし足りなかったらどうしようかと思っていたのよ。追加で食材を購入するか否かも考えていたんだから」
「まあ、それが無くて良かったね。さっき可能性を考慮して店の方を見てきたけれど、また値段が上がっていたし」
「また?」
男の言葉を聞いて目を丸くするシスター。
食材の値段高騰はティパモールだけではなく、世界全体の問題となっている。環境が変化したことに伴い、野菜の産地が激減してしまったのだ。何とか今の環境に合った野菜を飼育しようとしても、それには時間と金がかかってしまう。
結果として、災害から十年が経過した現在ですらこのような状態は続いているのだった。
「それにしても、困った話だよ」
階段に腰掛ける男。
それを見てシスターは首を傾げる。
「どういうこと?」
「知っているだろ。もう、この教会を維持するだけで君が相続した資産はギリギリだ。何とか君のお父さんの知り合いを頼ってお金を援助してはもらっているけれど……それでも危ない。場合によってはこの炊き上げを打ち切ることすら考えなくてはいけない」
「それはダメよ。絶対に、ダメ」
男は溜息を吐く。
「そう言うと思っていたよ。だから僕も、もう少しだけ頑張っているよ。ただ、やはり難しいことではあるけれどね。どうにもこうにもならない場合は、それを諦めてもらうことも必要だ。人を助けることで自分を傷つけていては元も子もないからね」
シスターは考える。
自分の祈りは本当に神に届いているのだろうか――ということを。
「自分の祈りは、本当に届いているのかと疑問に思うことは、正直言ってあるよ」
シスターは言った。
男は聞き手に回り、相槌を打つ。
「祈りを捧げ、神へ乞う。それが間違っているというのでしょうか? 神は私たちに正しい道筋を教えてくれる。私をこの道へと誘ってくれた神父様はそんなことを言っていました。それは間違いだったのでしょうか? 妄言だったのでしょうか?」
「妄言だったかどうかは、今となっては解らない……と思う」
言葉を濁したのは、その言葉が嘘になるという思いが僅かでもあったからだろうか。
男の話は、ゆっくりではあるが続けられる。
「確かに僕の言い方は違うものであるかもしれない。けれど、けれどね。僕は、神様は存在すると考えているよ。そして、僕たちを、人間をずっと見てくれている。そうでなかったら、不平等じゃないか」
「そうだけれど……。でも、私たちには何も!」
「そうかもしれない」
男は言葉で一閃する。
それを聞いただけで、シスターは何も言えなかった。彼女の精神が弱っているからではない。彼女は苦しんでいるのだ。彼女は苛まれているのだ。自分がしている、その行為について、それがほんとうに正しいものであるかということを、気にしているのだ。
シスターは俯きながらも、立ち上がる。
「……あなたは、どう思いますか。レム」
「うん?」
レムと呼ばれた男は立ち上がると、シスターの隣に立った。
「だから、あなたはどう思うのか、と言ったのです。この状況について、私たちについて」
「僕たちについて? それはどういうことかな。この貧困極まる状況についてならば、僕は最悪だと思うよ。これについて国がどうこうしてくれるのが理想形だろうに、それもしたがらない。最悪であって最低。これが今の国の評価かな」
「成る程。確かにその通りだと思います。私だって、そう思いますから」
レムはそれを聞いて微笑む。
まるでシスターを試しているようにも見えた。
「……そんな解り切ったことを質問してどうするつもりだい? 僕の考えと君の考えが一致している、そんな単純な言い回しをするための質問ならば、それをする時間を別の何かに使用するべきだと思うけれど」
「そうね。少し間違えたかもしれない。……神を否定することになりかねないのだから」
「そんなことは有り得ないよ。神は必ず僕たちのことを見てくれている。いつか必ず僕たちは救われ」
男の言葉が途中で途切れたのには理由がある。
彼女の目の前に居たレムが、何者かによって『踏み潰された』のだった。
「え……?」
地面と同化してしまったレムの身体を見たシスターは、何も言えなかった。
その足は、ゆっくりと移動する。
今まで音が無かったのが嘘みたいな、巨大な躯体だった。
「あれは……リリーファー?」
そこにあったのは、黒いカラーリングのリリーファーだった。
「あれは……世界を混沌へと導いたインフィニティでは無いか?」
民衆の中に居る誰かがそう言った。
「あれがインフィニティなのか」
「私たちの子供を殺した!」
「そして……俺たちの生活をこんな形にした……!」
それを皮切りに民衆からはインフィニティに対する言葉の嵐が巻き起こる。そのどれもが批判であり苦情であり差別であった。
もし、彼らがインフィニティの起動従士である崇人の感情を少しでも汲んでいたならば、このような事態には陥らなかったかもしれない。
だが、そんなことは関係ない。
インフィニティは人々の言葉を吸い込むような真っ黒の躯体をゆっくりと動かしていた。
そして、インフィニティは。
静かに、静かに、その教会を去っていく。
「神様なんて……」
シスターは地面と同化したレムを見つめる。
その目からは涙も零れ落ちている。
「神様なんて、居ないのよ」
その言葉は、人々の喧騒に吸い込まれて、誰も聞くことは無かった。
◇◇◇
「いやあ、いい景色だね。インフィニティのコックピットからは、このような景色を見ることが出来るのか……。それって最高なことだよね!」
わざとらしく言葉を並べる帽子屋に、崇人は怒りを募らせていた。
――ゲームをしよう。
帽子屋はそう言った。当然、何の旨みも無いのならば、参加などするはずもないのだが――。
「条件は一つ。君が勝利したらマーズ・リッペンバーを生還させてあげよう。それだけじゃない。君が敬愛するエスティ・パロングも生き返らせてあげようではないか」
「エス……ティを?」
思考が、停止した。
帽子屋はそれを予想していたように、微笑む。
「そう、エスティ・パロングだよ。彼女は君の目の前でリリーファーに踏み潰された。ほんとうに不幸な出来事だ。そうだとは思わないかね? 僕ももちろんそう思っている。だが、亡くなった人間を生き返らせるには、相当難しいことを行使しなくてはならない。だから無碍にしてはならないのだよ。だから、こうやってチャンスを与えるわけだ」
一人の蘇生だけではなく、二人も。
それは彼が一番この世界でやってしまった心残り――エスティの蘇生だった。
「どうだい? ゲームをしないか。ゲームをすることで、マーズが蘇生される可能性が少しでもアップするならば、やるべきだと僕は思うけれどねえ。彼女は君にとって大切な人なのだろう?」
崇人は頷く。
マーズも、エスティも、この世界で出会った大切な人だ。
出来ることならば、蘇生して、感謝を――また話したい。
だから、崇人はそれにイエスと言った。
「解ったよ、帽子屋。お前のゲームとやらを、受けようじゃないか」
「ありがとう」
頭を下げる帽子屋。
それがすこしこそばゆく感じる崇人。
「では、ゲームのルールを説明しよう。なに、そう難しい話じゃない。ルールはいたってシンプルだよ。シンプルイズベスト、とも言うくらいだからね」
帽子屋は言うと、大地を指差す。
帽子屋は微笑む。
「ここに居る人間を凡て殺せ。そうすれば、僕は君を助けてあげよう。君が叶えてほしい願いを、かなえてあげようじゃないか」
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