第137話

 冬の時代。

 それは季節的な意味ではなく、また別の意味だということをマーズは理解していた。

 スナーク狩り――ひいてはシリーズが行おうとしているのは、人間世界のリセット。そのために赤い翼を利用し、ひいてはインフィニティをトリガーとしている。


「あなたたち……インフィニティをトリガーにしてまで、何をする気なの!?」

「インフィニティはシリーズによって、いや、正確にはシリーズのひとりによって作られたもの。その時点でシリーズの中にはその計画の根幹となるものが出来上がっていた……そういう仮説があるとしたら?」


 魔女は、言った。

 それは彼女にとって予想外のことだった。

 しかしながら、それによってインフィニティの謎――その一部が解明したようにも思えた。

 インフィニティは今まで誰が開発したのか明らかになっていなかった。正確には大科学者である『O』が開発した――という寓話もあるが、それは所詮寓話に過ぎず、結局のところ誰が開発したのか分からずじまいだった。

 しかし、人間という枠から外れた『シリーズ』が開発したというのなら話は別だ。それならば開発したのがOという不特定な人物であるということも頷ける。


「それじゃOはシリーズの誰かに……」

「オー? ああ、そうだったっけ。人間の世界ではインフィニティを開発したのはオーというアルファベットで書かれている形だったかな。……それは正確には違うんだよ。それは開発者が間違ったと言ってもいいのだけれど、彼の名前がOから始まったというのもあるし、それに関連付けてネーミングしたのもある。……あなたはギリシャ文字というのを聞いたことがあるかしら?」


 ギリシャ文字。

 かつてあった世界は、様々な言語に分かれていた。そしてその大半は淘汰されていった。現在残っているのはマーズたちが普通に使うことのできる、ルシュア語のみとなる。

 ギリシャ文字は特殊な形態にあったと言われているが、文献があまり残っていないからそれが人間に広まっていることはない。


「ギリシャ文字というのは二十六の文字から構成されている。それぞれ小文字と大文字にね。そしてその最後の大文字というのは、俗に『終わり』を意味している……。最終或いは究極とも言われるけれど、結局はその類に入るもの。そしてその文字は、こう読まれる」


 魔女は空に文字を描く。

 人差し指で直線に膨れ上がったものが出来たような、そんな形を描いた。

 文字を描いたあと、魔女は口に手を当て、呟いた。

「――|Ω≪オメガ≫、とね」

「Ω……?」


 マーズは魔女の言葉を聞いて首を傾げる。

 それを見て魔女はくくっと笑う。


「ああ、そうだった。ギリシャ文字を知らないからそう言っても解らないのね。ああ、可哀想!」

「魔女、と言ったわね。流石にムカついてきたわ。なんというか、さっきから鼻にかける感じで、ね」

「あら。嫉妬しているのかしら?」


 魔女はまた一歩進む。


「嫉妬は恐ろしいものよ。人間は嫉妬により世界を変えていったといってもいいくらい、嫉妬に塗り固められた歴史を送った。そして今もそう。インフィニティという最強の個体を保持している。それによって他国で嫉妬が生じているのもまた事実でしょう?」

「確かにそれは事実かもしれない……。だからといって、それを正当化してはならない! インフィニティの力はあまりにも強力である。だからこそ、それを私たちは『守って』いかねばならないのよ!」

「守る? 既にあなたたちヴァリエイブルは腐る程使っているじゃない。誰のものであるのかを理解しないまま、人は強いものを使っている。強ければそれでいい? バカバカしい、だから人間はつまらなくて、くだらないのよ」


 マーズと魔女の会話は水平線上からずれることは無かった。一ミクロンたりとも動くことのないその境目を見ていて、周りは怒りを募らせていた。どうすればこちら側に都合のいい展開を持っていくことができるのか。

 それができるかどうかが解らなかった。水面下での探り合い――といえばいいだろうか。


「人間はくだらない……。それは人間以外の存在である、人間の理から外れた魔女という存在の視点から言えることでしょう? 人間からすれば人間はくだらないなんて思わない」

「それは当然でしょう。人間が同族嫌悪することもあるけれど、それは人間以外が嫌悪する可能性から比べれば天地の差があると言ってもいい」

「天地の差……ねえ。そんなこと、ほんとうにありえるとでも思っているの?」


 マーズの言葉に、魔女の顔には青筋が立ち始める。

 それを見てマーズは思う。魔女という存在は煽りに弱い、と。魔女は外界に居た。人との関わりが乏しかった。だからこそそういうものに慣れていないのではないだろうか、という仮説がマーズの中で出来ていた。

 魔女は愉悦な笑みを浮かべる。未だ自信があるのだろう。煽られていることに自分で気付いていないのかもしれない。


「ええ、その通りよ。あなたたち人間は解っていないの。この世界がどのようになっていったのか。どんな風に変わっていったのか。人間がこの世界を作り上げたのではない。人間以外の存在が、過去に世界の形を作り上げたというのに、それをあなたたちは記憶を上書きしているのよ。世界は人間が作り出した、自分たちは偉大な存在だ……と。ほんと、人間って愚かよね」

「人間が愚か、ですって? 人間は愚かな時代を生きてきたかもしれないわ。確かにそれはそうかもしれない。……でも、私たちは長らくこの世界で生きてきて思った。人間は愚かかもしれない。人間は汚い存在かもしれない。それでも人間はお互いがお互いのことを思わないと生きていくことが出来ない。人間はひとりで生きていくことが出来ないのよ。人間はそうやって生きていくのよ」


 魔女は踵を返した。

 魔女は懐に忍ばせていた時計を見て、頷く。


「……ここまでのようね」


 その言葉と同時に、通路が大きく揺れた。それはもう、立っていることが出来ないほどに。

 マーズたちが軒並み尻餅をついてしまったが、しかし、魔女だけはその場に立っていた。


「何をした……! まさか魔法か!?」

「魔法? まさか。私がこんな状態においてそんなことをするとでも? 私は高い金をもらって、約束をしてもらって、そのために活動しているまでだ。時間稼ぎ、と言えばいいだろうか」

「時間稼ぎ……だと?」


 マーズは訝しげに首を傾げる。


「ああ、そうだ。時間稼ぎだよ。ただその時間稼ぎが何を意味しているのか……それは明確に理解していないがね」

「なんだと……!」


 徐々に魔女の身体が煙に塗れていく。

 消えていく。消えていく。消えていく。


「待て――!」


 マーズは魔女の手を取る。



 ――が、実際にはその手を取る前に魔女の身体は煙と化して消えていった。



 魔女が消えてもまだ揺れは収まらない。


「マーズ・リッペンバー様! 急いで、戻りましょう!! 先程の魔女とやらの言葉を聞いてから……何やら嫌な予感が致します……!」


 グランドの言葉にマーズは頷く。

 そしてハリー騎士団の面々は通ってきた通路を再び戻っていった。



 ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇



 地上は強い風の塊に覆われていた。

 青白く光る物体が、その風の塊の中心に鎮座していた。


「あれが……インフィニティ……なの?」


 マーズは呻いた。そこにあったものが、彼女の見たことがあるモノだったからだ。いや、彼女だけではない。正確にはハリー騎士団全員が身近に感じていたモノであった。

 インフィニティ。

 最強のリリーファーであり、そのリリーファーはたったひとりの起動従士にしか扱うことは出来ない。即ち、インフィニティが動いているということは彼がインフィニティに乗り込んで操作しているということになる。インフィニティには自律して動くオペレーティングシステムが存在しているというが、それも基本はユーザである起動従士に依存している。

 だからこそ、起動従士が操られてしまうとその時点で大変なことになってしまうのは誰にだって理解できた。


「タカト……あなたいったい、何をするつもりなの……!」


 世界が、コロシアムを中心として、闇に飲み込まれつつあった。



 ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇



 法王庁自治領。

 その中心にある首都ユースティティア。

 そしてその中心に聳え立つ、クリスタルタワーの最上階にある法王の間。

 法王は報告を聞いていた。


「成る程……。ヴァリエイブルから、凄まじいエネルギー反応を感じている、と」


 報告をしているのはバルタッサーレだ。


「はい。まだ確認しきれてはいませんが、このままですと法王庁の自治領までその嵐がやってくる可能性も……」

「どういうことだ? 嵐は動かないのだろう?」

「その……勢力が拡大しつつあるのです。このままでは世界が壊滅すると言ってもおかしくはありません。現にヴァリエイブルは首都付近まで嵐が勢力を伸ばしており、死者が多数出ているとのことです。諜報員の話によれば、嵐は怪しげな雰囲気が立ち篭めており、……人が生きている気配がない、と」

「当たり前だろう。バルタッサーレの報告どおりならばその嵐とやらの勢いもとてつもないはずだ。ならばその中で人が生きることなど不可能に近い」

「ええ……。それもあるのでしょうが、それ以外のこともあります。それが……『魔法』とは違う、ものだというのです。なんというか……死臭、といいますか」

「死臭? 死体が大量にできたとでもいうのか? 或いは短期間で大量の死体が腐ったとでも?」

「いえ……そうとは言い難いのですが……」


 バルタッサーレは言葉を濁す。まだ確定でない情報であるからかもしれない。

 対して法王は苛立ちを募らせていた。バルタッサーレが言葉を濁しているというのもあるだろう。しかし、それ以上に和平交渉を結びその条約を結んだにもかかわらず再び世界を脅かしているヴァリエイブルに怒りを募らせていた――というのが正しいのかもしれない。


「……ともかく、今回の報告は『赤い翼』なるテロ集団が関わっている。バルタッサーレはそう報告した、そうだな?」


 法王の言葉にバルタッサーレは頷く。

 だとしたら問題である。ヴァリエイブルは数年もの間、赤い翼という脅威を放置していたということになるのだから。一年前も赤い翼が襲撃したという時もその一派のみを潰し、それ以上のことは大してしなかったという。だとするならば、赤い翼に対して怠慢を働いていたということになる。


「|彼奴ら≪ヴァリエイブル≫のみの世界ではないということを、彼らはまだ理解していないらしいな」


 法王は溜息を吐く。その言葉に、苦笑しつつバルタッサーレは頷いた。


「とにかく、嵐は何とかせねばなるまいな」


 法王は呟く。その言葉にバルタッサーレは頷いた。

 ヴァリエイブルから生み出されている『嵐』は最低最悪の災害であった。このままではヴァリエイブルだけではなく、他国にも影響を及ぼしかねない。


「となると……事態を収束させるためには、先ずは嵐を止めなくては」

「嵐についてだが、破壊する必要はない」


 人差し指を立てて、法王は言った。

 バルタッサーレは法王の言っている言葉の意味を即座に理解したらしく、表情を強ばらせる。


「まさか……ヴァリエイブルを犠牲にして、嵐を食い止めるおつもりですか!!」

「まあ、予定ではそうだ。ヴァリエイブルにはあの最低最悪の大災害を生み出した『罰』を償ってもらう必要がある。そのためにも、|彼≪か≫の国であの嵐を食い止める必要があるわけだ。生憎、私たちの領土はなんとかすればヴァリエイブルからの嵐による攻撃を食い止めることが可能となる。報告通りならばヴァリエイブルは長らく人が住めなくなるだろう。そうなれば、世界はだいぶ狭くなるな」

「確かにそうですが……。それを守るのも我々の仕事なのでは……!」


 バルタッサーレは激昂する。今目の前に立っているのが自らの上司で、この状況から自分自身に何が起こるのかを理解していたのに。

 ただ自分の信念だけで罪の無い多数の人間を見殺しにするということが、そのことよりも優先して許せなかったのだ。


「何を怒っている。……まさか君、ヴァリエイブルに同情しているのではないだろうな?」

「だとしたら……何だと言うのですか」


 バルタッサーレの言葉に、法王は小さく溜息を吐いた。


「だとしたら、か。先の戦争までは、未だ忠誠を誓っていた。それでいて忠実な部下だった」

「それはあなたが神の代行者だったからです。私は。いえ、この領土に住む人間は! 神が居ることを信じ、あなたの言葉を神の言葉とした! そしてあなたを……神として信じた!」

「あぁ、そうだったな。確かにそうだった。あんまりにも当たり前過ぎて、忘れてしまっていたよ」


 そう言って法王は笑った。

 |下卑≪げび≫た笑顔だった。

 それを見たバルタッサーレは、ただ何も言えなかった。

 それは今まで信じていた法王が、善人の皮を被った悪魔だからだろうか?

 それともヴァリエイブルの人間を少しでも救うことが出来る絶対的な『力』があるにも関わらず、向かうことが出来ない自分を蔑んでいるからなのか?

 それは自分自身でも解らないことだった。彼にとってそれは身勝手なことかもしれなかったが、それでも、彼は葛藤した。葛藤し続けた。


「…………人間を無慈悲に殺したくないのだろう?」


 法王の言葉に俯いていた彼は、その言葉を聞いて思わず顔を上げた。

 法王の話は続く。


「別に私も言うことではないだろうと思い言わないでおいたが……、人の命を無慈悲に取ろうなど考えて、いいはずが無い。いいはずが無いのだよ」

「ならばヴァリエイブルにもそれが適用されないでしょうか……! このままではさらに被害が増大して、甚大な災害へと姿を化してしまいます。確かにかつてヴァリエイブルは我々と闘った国です。ですが和平条約を結び、今やあの国との関係も歩み寄ったものにしなくてはならないのでは……」

「歩み寄った、和平条約? バルタッサーレ、君のマイブームは冗談を言うことなのか?」


 それを聞いて、再びバルタッサーレの怒りのゲージが徐々に上昇していく。


「冗談、ですと……! あれほどまでに破壊の限りを尽くし! 圧倒的な力でヴァリエイブルを蹂躙した『あれ』はどうなのですか! 我々はそれを繰り返さないべく、世界に平和を取り戻すべく和平条約を結び、平和へとそれぞれの未来を歩み始めたのではありませんか! それをあなたは……何もかも、完膚なきまでに破壊するおつもりですか!!」

「この世界は育ち過ぎた。良い方向にも悪い方向にも、だ。だから、この世界を『一から』創り直す。世界創成とも言えることだ」

「私が言いたいのはそういうことでは……!」


 法王は笑みを浮かべ、外を眺める。外は雲ひとつない青空だった。


「これ以上『命令』を守りたくないのであれば、敢えてそれを止めようとはしない。だが、君が所属しているのは何処だ? 君の直属にいる上司は誰だ? そのことを|努々≪ゆめゆめ≫忘れないでおくこと……だな」


 その言葉を聞いて、バルタッサーレは小さく舌打ちした。目の前に居る人間こそ彼の上司だったが、そんなことどうでも良かった。

 そして踵を返すと、言葉もかけないまま足早に去っていった。

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