バケツ少年

はし

世界のおわり

少年はある日、自分が異世界に迷い込んでしまったことを悟った。

 小学三年生の少年は「異世界」を、いびつながら漢字で書くことができるし、おおよその意味も知っている。それは、少年がい世界をテーマにした物語を、好んで読んでいるからである。

物語のほとんどの主人公たちは、紆余曲折しながら、最終的に元の世界に戻って行った。ほとんどの、というのは、物語によっては、主人公がその異世界にとどまることを決意したものもあるからだ。しかし、その場合でも、主人公は異世界からの脱出方法を見つけていた。

だから、少年も、自分がこの世界から出ていくことができると信じていた。

物語の知識から、異世界から脱する様々な方法も知っている。

少年はまず、定番のやり方を取ることにした。扉を開けるのである。

物語の多くは、扉を開けることによって異世界に行っていた。その逆もまたしかりだ。

小学校にある様々な扉を彼は開いた。教室のスライド式の扉から、用具入れの扉まで。

 扉を開けている最中、廊下を行く生徒たちは怪訝な表情を浮かべて少年を見た。その生徒の中には、少年の仲の良いクラスメイトもいた。しかし、その誰も少年に話しかけることはしなかった。少年は気にしないように、気にしていないふりをし続けた。背後から話し声が聞こえるたび、少年は自分のことを言われているような気がしてならなかった。実際、そうだったのかもしれないが、そうじゃないのもあったに違いない。それでも、少年にとってはそのすべてが少年の陰口であった。

 理科準備室に隠されていた、重々しい木枠の扉を見つけた時は、ついに見つけた、帰れる、と内心喜んでいたが、扉を開けた先には、同じ理科準備室の背景があった。扉の向こうに手を伸ばし、木枠の外へ出してみると、少年の腕はつながったままそこにあった。

学校の扉を開け尽くした少年は、次の方法を試すことにした。高所から飛び降りる、というものである。

正直なところ、少年はあまりこの方法をやりたくなかった。理由としては、単純に落ちた際、痛いからである。

しかし、少年にやらないという選択肢はなかった。早く元の世界に帰らないと、少年の大切な人が待っているのだ。

この高所から飛び降りる、という手段は、たいていの場合、とてつもない高所からだった。学校机から飛び降りる、なんてものじゃない。学校から飛び降りる、くらいの高さが必要なのだ。

かといって、痛さを覚悟した少年であっても、学校の屋上から飛び降りなんてしたら死んでしまう。なので、少年は、小学校の帰り道にあるあぜ道から、二メートルほど下にある川に飛び込むことにした。

夕陽に染まったアスファルトはは柔らかいオレンジ色で、少年のそばを部活動らしき中学生たちが走り抜けていった。前から柴犬をリードでつないだ女性が歩いてくる。

見覚えのない顔が次々に隣を通り過ぎていく。少年はそれを道の中心に立ってじっと見ていた。カップ酒を持ったおじさんが少年を一瞥し、舌打ちをしていった。

川を見下ろす。思いのほか水面は式通っていて、魚の黒い影がニュルニュル泳ぐのが見える。水底の石までも見ることができた。

少年は少しだけくたびれたランドセルをおろし、軽く屈伸運動をする。先日のドッジボールで擦った膝が顔を出しては隠れた。

人を避けて道の端により、前傾姿勢をとる。深く息を吐いて、走り出した。

道の逆端まで走ると、右足でアスファルトを強く蹴る。

一瞬の浮遊感の後、少年の体は吸い込まれるように落ちていった。水面に夕陽が反射してキラキラ光る。ばしゃん、と大きな音をたてて、少年の体はしっかり川に収まった。大きな水しぶきが上がる。

光が乱反射する水面に波紋が広がるのを、少年は見ていなかった。彼はその時、真上にある空を見つめていた。少し紫を帯びた空に、一つ光が浮いている。あれはきっと金星だ。少年は思った。その時、世界はとても静かだった。道行く人の声も、少年の悪口も、灯油の宣伝も聞こえなかった。

膝に水が沁みる。起き上がり、膝をおさえた。治りかけの擦り傷がグジグジにとろけかけている。しかし、膝よりも腰に痛みを感じた。川の底にしこたま腰を打ったようだ。触れると、強く殴られたような痛みが走った。

顔を袖でぬぐい、辺りを見渡す。夕焼けの景色は変わっていないが、元の世界に帰れたのだろうか。

「何してるの」

聞き覚えのある声にあぜ道を見上げると、少年のクラスメイトのエミちゃんが、彼を見ていた。

「風邪ひくよ」

エミちゃんは言った。しかし、その表情は張り付いたような苦い顔で、少年の知る、優しいエミちゃんの面影はなかった。彼女のその対応から、少年はまだ元の世界に帰れていないことを知った。

少年が水にぬれて重くなった体を引きずって川から上がると、エミちゃんは黙って歩いて行った。風で揺れる三つ編みは、前見た時より長くなっているように思える。

風に吹かれて冷えた体をさすりながら、少年はエミちゃんの後姿を見た。

少年は去年まで、いや、つい数か月前までエミちゃんが大好きだった。よく二人で遊んだし、帰り道も一緒に歩いた。そのたびに、友達のショウタくんにからかわれた。普通は嫌がることなのかもしれないが、少年はそれも好きだった。ショウタくんに揶揄されると、胸の中がなんだかむず痒くなって、頬が熱くなった。まるで、エミちゃんにとって、自分が一番仲の良い男の子のように感じられた。それは、少年の小さな優越感だった。

しかし、そんな大好きなエミちゃんはもういない。このエミちゃんは、少年の大好きだった彼女ではないのだ。

その証拠に、エミちゃんは少年に一度も微笑まなかった。元の世界のエミちゃんなら、いつもニコニコしていて、少年が一人でいたら必ず、一緒に帰ろうと言ってくれるはずなのだ。

夕陽に向かって歩くエミちゃんを見つめる。彼女がもう振り返らないことを悟り、彼も帰ることを決めた。彼女と肩を並べて歩かないことにも、少し慣れてきていた。そんな自分を少年は悲しく感じた。

ランドセルの元へ行き、蓋を開く。中から戦隊もののスポーツタオルを取出し、頭を拭いた。ズボンの裾を乾かしながらランドセルの中を覗く。理科の教科書が一番上にあった。今日の最後の授業だったからだ。

少年は理科の授業が一番好きだった。なぜなら、彼の好きな担任のキムラ先生が、一番楽しそうにしている授業だからだ。

少年のクラスメイトのほとんどは、一番好きな授業に体育を選んだ。しかし、運動の得意でない少年は、それよりも、考えたりする授業のほうが好きだった。

今年になって初めて担任を持つというキムラ先生も、おそらく少年と同じだった。体育の授業の時、キムラ先生のやるお手本を、クラスメイト達は悪い見本として扱った。

運動の代わりに、キムラ先生は座学を教えるのがとても上手だった。キムラ先生はほかの先生に比べて若くて、とても優しくもあった。

いつかの理科の授業の時、キムラ先生は余談として宇宙の話をした。その時のキムラ先生の目はどこか遠くを見ながら、爛々と輝いていた。クラスメイト達は飽きたように机に突っ伏していたが、少年はキムラ先生をじっと見つめてその話を聞いていた。

少年はその時初めて、地球が回っていることを知った。しかも、地球はとてつもない勢いで回っているらしい。キムラ先生は黒板に青いチョークで円を描くと、白いチョークでそれを貫く棒を描いた。駒だ。少年は思った。少年のクラスではその時、自分好みにカスタマイズした駒を戦わせるバトル駒が流行っていた。

しかし、そんなはずはない。少年は思った。なぜなら、そんなに激しく地球が回っていたら、少年たちはこんなふうに授業を受けたり、歩いたり寝たりなんてできるはずがないからだ。

少年は以前、回した駒の上にフィギュアを乗せようとしたことがある。アニメで、そのフィギュアのキャラクターが大きな沿岸の乗り物に乗るのを見て、それを再現したかったからだ。

しかし、無残にもフィギュアは弾き飛ばされてしまった。この地球が駒のように回っていたとしたら、自分たちも同じように飛んでいくに違いない。

少年は少ない語彙で、必死にその思いをキムラ先生に伝えた。するとキムラ先生はにっこり笑って、その説明をしてくれた。

しかしその説明は少年には難しすぎてわからなかった。引っ張ってるとか引っ張られてるとか、そんな言葉が耳を通り過ぎていった。

とりあえず、この地球は回っていて、自分たちはこの場所に必死にとどまっているようだ。そうとしかわからなかった。

少年はランドセルの蓋を閉め、それを背負った。少年の世界でずっと変わらない態度で接してくれるのはキムラ先生だけだった。

遠く離れたエミちゃんの背中を見つめる。ぎゃこうで真黒になった背中に、今更追いつこうだなんて思わなかった。

いつもの帰り道を一人で行く。夜のとばりが降りてきた。夕陽はほぼ沈み切って、星がチラチラと見える。その中に、移動する光がある。飛行機だ。赤い光は、少年の視界からフェードアウトしていった。

少年を取り巻く複数人の声の中に、知ったものが混じって聞こえた。川べりを見下ろすと、少年と同じクラスの少年たちがわいわいと騒いでいた。

その中に、ショウタくんの姿を見つけた。ショウタくんは五六人いるクラスメイト達の中心に立って、大きく笑っていた。

ショウタくんは勉強はできないが運動が得意で、明るい性格も相まって、クラスの人気者だった。以前まで、そんなショウタくんと少年は親友と呼べるほどの仲だった。

クラスメイト達と笑いあうショウタくんを見ているうち、少年は以前、ショウタくんと小学校の中庭の掃除をしたことを思い出した。

ショウタくんはその時、持ってきたバケツに水をいっぱい入れて、それをゆらゆらと揺らし始めた。

 「まあ見てろって」

不思議そうに見つめる少年を傍目に、ショウタくんはニヤッと笑った。

バケツの取っ手を右手で持ち、前後に動かし始める。肩は動かさないまま、徐々に揺れは大きくなっていく。

気づけばバケツはほぼ、ショウタくんの肩の位置にまで上がってきていた。水があふれるんじゃないか、少年はハラハラしながら見ていたが、水滴はこぼれてこない。

そしてついにその瞬間は来た。バケツはショウタくんの肩を起点として、一回転してしまった。バケツは止まらず、そのままぐるぐると回り続ける。

少年はその光景を唖然として見つめていた。なぜ水はこぼれてこないんだろう。考えても、少年の持つ知識だけでは分からなかった。

少年はそれまで、ショウタくんを勇者だと思っていた。物語に出てくる、かっこいい主人公。ショウタくんは、ファンタジー小説に出てくる勇者と、同じ特徴をいくつも持っていた。そして、エミちゃんはお姫様、少年自身は、勉強ができるほうだから魔法使いだろう。そう考えていた。しかし、その日、実はショウタくんは魔法使いだったのだと知った。その証拠に、ショウタくんは普通ではありえない光景を見せてくれた。これは、まさしく魔法だ。少年は思った。

少年が驚いているのを見ると、ショウタくんは満足したように笑い、バケツの回転速度を落とした。すると、さっきまで不思議なくらい動かなかった水が、ハラハラと落ちてきた。その様子も、まるで魔法のように綺麗だった。

大きな笑い声で、ハッと意識が戻った。ショウタくんを囲んだ集団が、ゆっくり移動し始めている。

あの時、魔法を見せてくれたショウタくんも、もうここにはいなかった。ショウタくんもエミちゃん同様、変わってしまった。少年と話すときの笑顔はぎこちなく、冗談をあまり言わなくなった。これもまた、少年が異世界に気づいた要因の一つだ。

少年は溜息を一つこぼし、また歩き出した。ショウタくんとクラスメイト達の賑やかな声から逃げるように、早足に家路につく。

家に着く頃、あたりはもう紫につつまれていた。オレンジはすっかり溶け、街灯が点き始めている。下校のチャイムはもう鳴りやんでいた。

家には光が灯っていた。中から楽しそうな話声が漏れ出てきている。

少年はランドセルの中から鍵を出し、ゆっくりと鍵穴に差し込んだ。ノブを回し、扉を開く。その先には、いつも通りの家の光景があった。これもまた失敗だ。少年は何度目かの溜息を飲み込んだ。

正面のダイニングに続く扉から、女性が顔を出した。

「あら、おかえりなさい」

女性は優しく微笑むと、スリッパをパタパタいわせながら、少年に歩み寄った。

「今日は楽しかった?」

女性の問いに、少年は首を振った。そのまま二階の自室へと向かう。女性は追ってはこなかった。

部屋の扉を開けると、散らかった床の荷物を足で避け、ランドセルを置いた。

ベッドに腰かけ、ぼんやりと部屋を見渡す。近頃読まなくなった小説が、積み重なって床に置いてある。

壁に貼ったポスターに目を移す。月をバックに、宇宙飛行士がふわふわと浮いている。クリスマスに、父親が少年に買い与えた物だ。

少年は無理やりポスターから目を離し、勉強机に飾ったお面を見た。以前流行った、ヒーローのお面だった。遠い昔に、夏祭りで見つけたものだ。

あの頃、少年は幸せだった。今よりもっと幼くて、エミちゃんともショウタくんとも、キムラ先生とも知り合っていなかったが、少年は幸せだった。

黒い景色の中に、丸い光が一列並ぶ。人が多くて、一歩先も見えるか危うい。そんな中を今より小さい少年が歩くことができたのは、彼の手を引く人のおかげだった。暖かい手が、少年の手を包む。ドン、ドン、と太鼓の音が体中に響き、心臓の鼓動と混じった。

階下で、ガチャンと音がした。続いてパタパタとスリッパの音がする。そろそろ晩御飯になるだろう。

「お帰りなさい」

女性の声を聴きながら、少年はベッドに寝転がった。

どうすれば元の世界に帰れるか。少年はまた悩み始めた。扉を開く、飛び降りる、王道のパターンはもう試した。他に何があったろうか。少年は白い天井をぼんやり見つめた。

この世界は少年に優しくなかった。穏やかだった少年の世界は一気に景色を変え、少年はめまぐるしく変わる環境について行くだけで必死だった。

どうしてこうなったのか。少年は考えた。始まりの日はいつだったのか。

その答えは案外すぐに出た。少年の父親が、少年の母親を、石に変えてしまった日だ。

強い雨が降っていたあの日、少年の母親は白い部屋に連れていかれて、石にされてしまった。

その時、少年の頭に一筋の光が差した。その光は、瞬く間に少年の体を包み込む。

少年はこの異世界からの脱出方法を悟った。

少年はその日、晩御飯を食べなかった。家にいる女性がご飯を作るようになってから、晩御飯を食べる量は著しく減っていたため、一食分抜いても少年はあまり辛くは感じなかった。加えて、少年は自分自身がたてた計画があまりにも恐ろしく、食欲が湧かなかったのもある。

少年は心を鎮めるため、窓の向こうの月をぼんやりと見た。しかし、駄目だった。心臓はあの日の夏祭りのように高鳴って仕方なかった。

少年の母親は優しかった。夏祭りの日、人込みを怖がる少年の手を引いて、いろいろな世界を見せてくれた。お面を買ってくれたのも、いつの間にか寝てしまった少年を負ぶってい歩いてくれたのも、少年の母親だった。

母親の背中で、母親の香りが強くしたのを、少年は覚えていた。しかし、その香りを、少年はもう思い出せなかった。

夜が更け、家が静まった。この家にいるものは、少年以外、みんな寝たのだろう。

少年は机に立てかけたお面を取って、そっと部屋の外へ出た。

一階に降りる。案の定、部屋は暗く、誰もいなかった。キッチンに向かい、調理器具の棚を開く。一番長くて、一番鋭い包丁を手に取った。学校の調理実習で使った者より重く、少年は両手を使って包丁を持った。ガラス窓に移った自分を見ると、包丁はまるで剣のようだった。

その時、少年はまた知った。ショウタくんじゃない、少年こそが、勇者だったのだ。

少年はヒーローのお面を額にかけた。決戦の時が近づいている。

足音を忍ばせ、少年は父親の部屋に向かった。父親と女性の部屋が別であることは知っていた。

扉をそっと開ける。父親がダブルベッドの上で大の字になって寝ていた。小さくいびきをかいている。少年はその傍らに立ち、包丁を握りなおした。

少年の世界を変えたのは父親だったのだ。少年は気づいた。あの雨の強い日、母親は白い部屋、病院に連れて行かれた。病院は体の悪いところを治す場所だ。キムラ先生もそういっていたし、少年自身も『歯医者』で虫歯を治してもらったことがある。母親はどこが悪いのだろうか。父親は母親を心配する少年に何度も「大丈夫」と言い聞かせた。

それから数日経って、母親がいないのにも関わらず、親戚が集まって宴会が行われた。みんなして黒い服を着て、お坊さんのお経を聞いた。何度も寝そうになったが、もしかしたらこれは母親を元気にするための物なのかもしれないと、少年は意識を保ち続けた。その時、親戚の数人が泣いていたが、少年は気にしなかった。隣に座る父親までも顔をゆがませているのは気になったが、声を出していい雰囲気ではなかったので、何も聞けなかった。

その後、みんなで豪華な食事をした。その間も、母親は帰ってこなかった。また数日経って、ついに少年は母親のことを父親に訊いた。お坊さんのお経以来、ずっと父親が浮かない表情で聞きづらかったのだが、もう気になってたまらなかった。やっぱり、お坊さんのお経は効かなかったのだろうか。母親は今もまだ病院で闘っているのだろうか。

尋ねた少年を、父親は遠くの地に連れて行った。その場所に行くのに、車で高速道路を二時間は走っただろうか。少年は以前母親を連れて病院に行った時より時間がかかったのが気になったが、何も聞かずに黙って窓の外を見ていた。

ついに辿りついたその場所には、大きな石がたくさん立っていた。そのどれも、ただの石ではなく、綺麗に四角く削られている。四角い面の一つに、何か黒く彫られていたが、少年には読めなかった。

その中の一つに父親は花束を添え、言った。

「お母さんだよ」

少年はその時、その言葉を冗談だと思っていたが、違った。父親はとてもまじめな顔をしていたし、何より、その後も母親は帰ってこなかった。母親は本当に石になってしまったのだ。

父親は悪い魔法使いだったのだ。だからきっと、父親を倒せば、少年は元の世界に戻れる。そういう物語も、いくつも読んできた。

少年は母親が石になった日から、生活がぐるぐると変わっていった。エミちゃんとショウタくんは、なんだかよそよそしくなった。そういえば、みんなで黒い服を着ていたあの日、二人も二人の親と共に来ていた。その時にきっと、父親に魔法をかけられてしまったのだ。ショウタくんのきれいな魔法も、きっと封じられてしまった。

キムラ先生は一度だけ少年に「大丈夫、君は一人じゃない」と言った。その時は意味が分からなかったが、今なら分かる。その言葉が嘘だったことも。少年は母親がいなくなって、一人になった。一人だった。

ぐるぐるは止まらない。母親がいなくなってどれくらい経ったか、いつの間にか、家に知らない女性が住むようになった。

「お前のためなんだ」

父親は言った。

「初めまして。これからよろしくね」

女性は、父親の部下なのだろう。それか、この人も父親の魔法に惑わされているのだ。

女性の背後には、少年よりも年下に思える男の子がいた。

「弟だよ。お前はお兄ちゃんになったんだ」

父親が言った。違う、少年は思った。少年は兄ではない。弟なんていなかったし、欲しくもない。ぐるぐるぐるぐる。

気づけば、家に居場所がなくなった。晩御飯の場では、三人が楽しそうに笑っていた。まるで、ほかの家庭の食事を見せられているようだった。けれど、父親だけは少年の物だった。あの二人がおかしいんだ。自分はここにいていいはずだ。でも、これは、どういうことだろう。どうして父親は少年じゃないほうに笑いかけてるんだ。どうしてここにいるのが母親じゃないんだ。どうして、その場所にいるのが自分じゃないんだ。

まるで、僕がいらないみたいじゃないか。

ぐるぐるぐるぐる。

少年の頭の中で、バケツが回り始めた。ショウタくんの魔法。ゆっくり、その速度は増していく。静寂の中、遠くから太鼓の音が聞こえてくる。

ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。

ショウタくんとエミちゃんは少年を見ると、ぎこちなく笑った。

「大丈夫か」

ショウタくんの質問の意味が分からず問い返すと、二人は困った顔をして顔を見合わせた。

「また遊ぼうな」

そう言って、二人はは少年から離れていった。これもいつの話だったか。

ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。

頭の中のバケツは止まらない。太鼓の音も、まるで耳元にあるようにうるさかった。こんなに大きな音なのに、少年の父親は眠ったままだ。

ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。

晩御飯に、少年の嫌いな人参を甘く煮たものが出た。母親は、少年が気付かないようにそっと人参を入れるのが得意だった。

「好き嫌いはだめだよ」

「お兄ちゃんだしな」

父親と女性は少年を見て笑った。

ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。

バケツの中の水は、溢れないように必死にバケツにしがみついている。

きっと、あの水は少年の世界だ。流されないように、こぼれないように、必死に、無様に、この場所に縋りついている。

太鼓の音が、五感を震わせた。

ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。

こぼれないように、溢れないように。

ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。

包丁を掲げる。もう終わらせよう。バケツのせいで目が回る。太鼓のせいで、何も聞こえない。

ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。

ちがう、違うんだ。少年は思った。

ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。

バケツを回すのは、僕だ。

バケツから手を離す。

少年は包丁を振り下ろした。




包丁の刃が父親に届くその時、懐かしい香りがふっと、少年の鼻をかすめた。柔らかく、優しい香り。安心する香りだった。

少年はすぐに気が付いた。どれだけ久しぶりでも分かる。これは、母親の香りだ。

少年は包丁を放り投げ、お面を取って辺りを見渡した。いつの間にか消えた太鼓の音で静かになった部屋には、少年と父親以外、誰もいない。母親の姿も無かった。それどころか、母親の香りもしなくなった。

少年は困惑しながら、お面を取った。ハッとして、お面を顔に寄せる。先ほどよりはかすかだが、母親の香りがした。

これだ。少年は思った。これが、少年の世界の香りだ。

これが、ここだけが、少年の世界なのだった。

手を離したバケツから、水がキラキラと溢れだす。

少年の頬を、雫が一筋伝った。

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バケツ少年 はし @ksn8

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