倭王の系譜

武内司(たけのうちつかさ)

第1話 はじめに

 古代史の本を数多く読んでいると、本物とそうでないものがあることに気づく。本物の作者は各々の事柄を多面的に分析したり、観察したりしている。そうでない作者は、この多面性に欠ける。古代史だけではなく、物事の本質なり、真実を探るには、この多方面からのアプローチは欠かせない。 

 古代史のアプローチとして、例えば、騎馬民族征服王朝説で有名な元東大教授江上波夫は、三つの方面からのアプローチを総合的・統一的・同時的に研究すべきであると説く。その三つとは、古事記・日本書紀などの神話・伝承、古墳とその出土品、中国史に記載された東アジアの形勢である。このうち、どの一つが欠けても本物の説とはいえない。

 文献史学や考古学を専門とする広義の歴史学の場合、江上波夫の騎馬民族征服王朝説や、古墳時代は血統を異にする3つの王朝が交代していたという元早大教授水野祐の三王朝交代説など、読者に興奮を与えるようなインパクトのある仮説を公に発表するときには多方面からのアプローチは絶対欠かせない。現に、騎馬民族征服王朝説や三王朝交代説は戦後すぐの発表にもかかわらず、その後にどんなに批判や反証を受けても、細部は別にしてその際立った構造は現在まで残っている。昨今、この多方面からのアプローチが十分でないまま自説を本にしたり、雑誌に記事を書いたり、座談会で力説したりしている考古学者の方々を目にする機会が多い。本来、考古学とは、魏志倭人伝をはじめとする中国の各時代の史書、朝鮮の三国史記や三国遺事、日本の古事記や日本書紀、さらに風土記や神社に伝えられる祝詞など古文献の内容を実証する立場にあるはずである。西洋では、考古学者ではないが、トロイアの遺跡を発掘したハインリッヒ・シュリーマンがイーリアス・オデュッセイアに記載されていた地形・道程を信じてトロイアの遺跡を発見した事実はその代表例である。世界的な大発見をした、トロイアの遺跡のシュリーマンにしろ、ツタンカーメンの墓を発見したハワード・カーターにしろ、その情熱と努力と着想には卓越したものがある。

 近年における邪馬台国がどこにあるのか?という議論には、社会的立場とか民族感情に基づいた論者が多いような気がする。その民族感情はどこに由来するのだろうか?戦前、ある高名な国史の大学教授が、学問としての古代史と教育として教える古代史は違うと新入生に諭したと伝えられる。真実を追求する学問と政治的な影響を受けざるを得ない教育とは違うと言っている。これは戦後の自由な民主主義の時代においても少なからずみられる光景である。真実を追求する学問としての歴史研究は科学的でなければならない。科学的とは、社会的立場とか民族感情とかに左右されるのではなく、物事を多面的・客観的・合理的に分析して実証するということである。

 日本人における民族感情の歴史的な変化について司馬遼太郎は次のように語っている。

“古代の東アジアにおいて巨大な中心はただ一つしかない。中国の農耕文明圏がそれであり、その周りは中国文明圏という巨大な光源の被光体として存在してきた。旧満州、朝鮮半島、インドシナ半島東部(ベトナム)、そして日本列島などに住んできた人びとの消長とその文化の伝播、それに定着という動態は5~6世紀までの間は特に流動に流動を重ねているように思える。しかしながら、やがてその流動が止まる。止まるのは7世紀、新羅による朝鮮半島の統一と日本の律令国家の成立以後とみていい。この頃から、それぞれ国家群がその基礎を固くし、互いに国境を固め、かつて東アジアを流動した人びとはその居住地域によって民族という輪郭を濃くし、鎖国性が濃くなった。国家の障壁が高々とそびえてしまった。それ以降の感覚でもってそれ以前を振り返るとき、流動の時代というのはあたかも夢の中の光芒のように思えるのである。民族は地理的制約のもとに歴史的発展をしてゆくものらしいが、日本は鎌倉幕府の成立によって律令体制が徹底的にくずれ、自作農の土地所有が明快になり、高麗こうらい朝(936年~1392年)の社会との相似性が極めて微小なものになった。同時に日本にとって文明の光源であった中国からも遠ざかった。さらに言えば、精密な封建社会を確立した江戸体制の成立によって、強固な中国式律令体制を持ち続ける李朝朝鮮(1392年~1910年)とは、まったく似ても似つかぬ社会になってしまった。そこから産出されてくる法や道徳習慣・社会意識は当然相似性が少なく、その相似性の少なさの上に立って両民族の差異を拡大して見がちなのが、両民族が相互に観察しようとする場合の通癖といっていい。私のような古代史の素人がときおり流動の時代を考えたくなるのは、このような陋小ないやしい通癖から自分を救い出したいという衝動に駆られてのことかもしれない。”

 騎馬民族征服王朝説の江上波夫、三王朝交代説の水野祐、「倭人伝を読み直す」を書いた森浩一(元同志社大学教授)、「邪馬台国の言語」を書いた言語学者の長田夏樹(元神戸市外国語大学教授)、さらに学者ではないが古代史に造詣が深く「古代史疑」を書いた松本清張、「この国のかたち」を書いた司馬遼太郎など諸氏は万人が認める本物の作者である。これらの方々に共通するのは戦前に教育を受け、古事記・日本書紀を読みこなしたというより、身についていることである。そして戦後の言論の自由の下で、戦前に習得した旧満州や朝鮮についての知見や知識を基に、歴史の真実に迫ろうという気概をもってそれぞれの論文や仮説を発表している。江上波夫・長田夏樹・司馬遼太郎にいたっては、戦前・戦中の実体験に基づく東アジアの言語、モンゴル語や中国語・朝鮮語の知識が豊富である。さらに言えば、この6人の方々は、敗戦を体験したことで、日本の国あるいは日本人を日本列島内だけで考えるのではなく、東アジアの一部として日本の国のあり方、そして日本人とは何かを深く考えている。これだけの知識・経験・情熱があってはじめて本物を書けるといえるのではないだろうか。その真摯な情熱と迫力には凄みさえ感じられる。主にこの6人の方々の諸説を中心に据えて、いくつかのテーマごとに、衣食住を豊かにするような文化や技術は高い所から低い所へ流れるという人類の歴史の必然性を一つの基準として、私が共感できるところや私の考えを述べていきたい。

 また、天皇と日本は7世紀後半に用い始められた用語であるから、ここでは大王と倭または倭国、そしてその政権を倭王権とする。神武じんむ応神おうじんなど天皇の漢風諡号しごうは8世紀中頃に聖武天皇以前の天皇を一括して定めたものであるが、ここでは分かりやすさを考慮して便宜上使用する。3世紀後葉から4世紀初頭にかけて大和地方に成立した政権は、複数の有力者によって政権が運営され、7世紀まで王権としては未成熟な状態であったので、大和朝廷ではなくヤマト王権とする。カタカナ書きの「ヤマト」と記すのは、「ヤマト」という地名が奈良県の大和以外に、北部九州の筑後に山門郡、肥後に山門郷と呼ばれる地域があり、その他にも「ヤマト」という地名があるからである。


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