(15)

 かれんは古町の外れにある、自分が住んでいるマンションまで歩いて帰った。

 カギを開けて玄関のドアを開けてみると、いつもは真っ暗なリビングルームから明かりがもれている。

 玄関先にも自分が帰った時にはいつもない靴が置いてあった。


 かれんは慌てて履いていた靴を脱ぐと、リビングルームへ行ってみた。



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 リビングルームのドアを開けると、部屋の方から何とも美味しそうな匂いが流れ込んできた。

 テーブルの上にはケータリングか何かで頼んだのだろうか、美味しそうな洋風の料理が並べられている。

 シーザーサラダにローストビーフ、サンドウィッチにフルーツタルト……。

 どれもかれんの好きな食べ物ばかりだ。

 かれんはテーブルの料理を見た途端、急に空腹を覚えた。

 そう言えば、さっき希恵と喫茶店で話した時は紅茶しか口にしてなかったし、昼食から何も食べていない。


「――あっ、かれんちゃん、お帰りなさい」

 かれんがリビングルームのドアの前で立ちすくんでいると、キッチンの方からシャンパンのボトルらしいビンを持った昴がニコニコしながら歩いて来る。

「昴、どうしたの? これ」

 かれんがテーブルの上の料理を指さした。「まさか……。でも、明日、ホテルニューオータニでディナーの予約してたじゃない? それに、仕事は?」

 かれんはチラリと壁にかかっている時計を見た。

 20:30を回ったばかりだ。いつもの昴なら、マーズレコードでまだ仕事をしている時間のはずだ。

「だって、今日、僕たちの初めての結婚記念日だし」

 昴がニコニコしながら言った。



 本当にあの白城しらき知里ちさとという少年は……、とかれんは知里のことを思い出した。

(――私は昴のじゃなくて、だって言うのに)

 結婚した今でも「加賀谷かがやかれん」なんて旧姓を名乗っているが、自分は昴の妻なのだ。

 かれんの働いている「株式会社スカイ」では、結婚しても旧姓で通す女性がほとんどで、かれんも普通に旧姓を名乗り続けている。

 だからと言って、知里がまさか自分が昴の妻だということを知らないわけがない。

 知っていて、わざと呼ばわりしてきたのだ。

 なのに、昴も昴で「そうなんだ、認めてくれるんだ、嬉しいよ」と、ニコニコと笑っているんだから……。



「昴、仕事があるから、お祝いは日曜日にしようって言ったじゃない。だから、明日、ディナーの予約を……」

 入籍した時は結婚式などは何もしなかったから、初めての結婚記念日は地元の有名なホテルでディナーでも食べよう、と提案してきたのは昴だった。

「もちろん、明日のディナーも楽しみにしてるよ。でも、やっぱり最初の結婚記念日だから、その日にかれんちゃんと一緒に祝いたかったんだ。黙ってて、ごめんね。かれんちゃんを驚かせようと思ったんだよ。――ほら、座って」

 昴は立ちすくんでいるかれんの手を取るとリビングルームのイスに座らせ、昴もかれんの向かいのイスに座った。


 昴は手を伸ばすと、リモコンのスイッチを押した。

 部屋の隅にあるスピーカーから、かれんの好きなキャロル・キングの曲が流れて来る。


「――あっ」

 かれんは言いかけて一旦口を閉じたが、さっき希恵と別れた後に心の中で呟いた言葉を思い出した。

「何? かれんちゃん」

「あっ……。ありがとう、昴」

「ううん、かれんちゃんにお礼言われて、僕、嬉しいな。仕事、早く終わらせた甲斐があったよ。――でも、かれんちゃんがたまたま出かけててくれて良かった。どこ行ってたの?」

「実は、希恵と会ってたんだ」

「希恵ちゃんと?」

「うん。希恵、手塚さんにもう会わないって言ったんだって。――昴、手塚さんに、その、子どもがいるって言うこと、わかってたんでしょ?」

 かれんの言葉に昴はゆっくりと頷いた。


 さっきまでいつもと同じニコニコとした表情をしていたのに、昴の表情が変わった。

 前にかれんが(――何か、今の昴、ヘンだな)と思った時と同じ、「静かに笑みを浮かべる」ような表情に変わっている。

 いくら「いつでもどこでもマイペース」な昴とは言え、手塚の「謎」を話すのに、普段と同じニコニコとした表情では言いにくいと思っているのだろうか。

 いつも子供っぽい昴が、いきなり自分よりも五歳も十歳も大人になったような感じがする。



 いや、違う……、とかれんは思った。

 昴は見た目や言動こそ自分よりも子供っぽく見えるが、本当は自分よりも精神年齢は遥かに上なのだろう。

 子供っぽいのは昴よりも自分の方だ。

 素直になれない自分よりも、何事も真っすぐに見ることができて、何でも素直に自分の気持ちを言うことができる昴の方が遥かに大人だ。

 今なら、よくわかる。


 それに比べて自分は……。

 自分が会社帰りに「マーズレコード」に頻繁に寄るのだって、二人で住んでいるマンションに一人でいるのが何となく淋しいからなのだ。


 昴は自分が寝る前くらいに帰って来て、自分は昴がまだ寝ている時に出勤する。

 店の定休日の日曜日以外は、結構なすれ違い生活だった。

 でも、昴に「淋しいから早く帰って来て」なんて、到底言えない。

 昴は「マーズレコード」を一人で切り盛りしているし、店の仕事の合間に音楽雑誌やサイトの記事も書いている。

 いつもあの「ニコニコ」とした笑みを浮かべているが、案外忙しいのだ。

 かれんが昴に「淋しい」と言えないのは素直になれないのも理由だったが、そんな忙しい昴に遠慮しているからだった。

 かれんは昴には自分に遠慮せず仕事してほしかった。


 多分、昴は仕事帰りに「マーズレコード」に頻繁に寄って来る自分が「淋しい」ということを知っているのだろう。

 そして、かれんが「遠慮せずに仕事してほしい」と思っていることも……。

 知っているからこそ、普段と同じように、いや普段以上に嬉しそうにニコニコしながら自分を迎えてくれるのだろう。



「手塚さんに子どもがいるだろうってこと、わかってたよ。手塚さんの車の後部座席の背もたれに、チャイルドシートの跡があったからね。姉さんが実家に帰ってくると、父さんの車にチャイルドシートを移動させてみんなで出かけたするんだけど、シートを外した時につく跡と一緒だったんだ。

 まあ、それだけだと『子どもがいる』と言う証拠としては確定できないけど、手塚さん、兄弟には子どもがいないみたいだし、あのチケットの半券の日付もおかしいし、やっぱりそうなんだろうなって思った。

 ――かれんちゃんに黙っていてごめんね。でも、どうしても言えなくて」

「まあ、確かにデリケートな話だし、言えないのも仕方ないし……。私も昴の気持ちも知らずにしつこく訊こうとして、ごめん」

 かれんが昴から視線を逸らしながら言うと、昴は「あれっ?」という表情をした。


「かれんちゃん、今日、どうしたの? いつもと違うけど」

「べっ、別に……。いつもと同じだけど!」

 かれんは顔を赤くしながら、思わず否定してしまい(また、やってしまった……)と心の中で呟いた。

(――素直になるのって難しい)

 かれんはすっかり赤くなってしまった顔をうつむかせた。

(――でも、ちゃんと結婚祝いのお礼を言って、希恵のことも謝ることができたし、それはそれで良かったってことにしよう)

 やっぱり、いきなり自分の言動の全てを素直にするのは難しい……。

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