(23)
しばらく、「マーズレコード」の店内は静寂に包まれた。
かれんの耳元にだけ、自分の鼓動の音が蓄音機のボリュームを最大にしたかのような音量で聞こえていた。
「――知里君」
自分の鼓動の向こう側から昴の声が聞こえてきたので、かれんは我に返って昴の方に視線を向けた。
昴の声は珍しく低めの声だった。
昴の表情から、いつもの笑みが消えている。
そして、昴が自分で「かなり黒い方」と言っていた瞳に、かれんが今まで見たこともないような光がキラリと宿っていた。
「先生……」
知里も昴がいつもと違うことに気付いたらしく、一歩後退りした。
「知里君、君、かれんちゃんの後をつけていて、何を見ていたの?」
「何をって?」
「かれんちゃんは確かに僕たちに比べれば頭も良くないかもしれないし、知里君みたいにダンスに秀でているとかそういう特技もないかもしれないし、平凡な女なのかもしれない」
「えっ? 昴?」
かれんは思わず「ムッ」とした表情で昴の方を見た。
さっきまで、「昴は平凡な女である自分がいる新潟に留まっているような器ではないのかもしれない」とか思っていたが、当の本人に言われると、その通りだとはわかっていても、さすがにムッとしてしまう。
「でも、かれんちゃんはかれんちゃんなりにものすごく頑張ってるよ。特に仕事。まあ、僕もこの『マーズレコード』はそれなりに頑張ってるけど、到底かれんちゃんには敵わないな」
「昴……」
今まで昴が「かれんちゃんには敵わない」と言ったことってあっただろうか、とかれんは思った。
敵わないなんて、自分がいつも昴に対して言っている言葉だ。
(――やっぱり、私、昴には敵わないんだ)
小さい頃からこの言葉を、何度心の中で呟いて来ただろう。
でも、もしかすると、昴もこの言葉を心の中で呟いていたのだろうか。
自分ほど多くはないにしても、何回かは心の中で呟いていたというのだろうか……。
「知里君だって、ダンス、ものすごく頑張ってるんだから、かれんちゃんの働いてる姿を見て、ただの『平凡な女』だとは思わなかったはずだよ。そうじゃない?」
「――」
知里は返事をする代わりに、また昴から視線を逸らして横を向いた。
昴は知里の態度を見て、口元だけ笑みを浮かべた。
「ねえ、知里君、かれんちゃんがどういう風に仕事をしていたか、ちょっと言ってみてよ」
知里は顔を正面に向けると、昴の方をジッと見た。
そして、昴から視線だけを逸らすと、ポツリポツリと話し始めた。
「この人は、確かに頑張って仕事していたよ。そして、楽しそうに仕事してた。いつも一緒にいる男の人にいろいろと教えたり、行った先の店の人と熱心に話をしたりしてた。頑張って努力して、まあ、今やってることが好きなんだろうなって思った」
「――知里君」
かれんが知里の方に視線を向けると、知里と目が合った。
知里はスッとかれんから視線を逸らすと、昴の方を正面から見た。
「でも、それだけだよ。頑張って努力してる『平凡な女』だよ。先生がこの人や
昴は知里の言葉を聞いて、いつも通りのニコニコとした笑みを浮かべた。
「知里君、君はもう、僕の答えを言ってるけど」
「えっ?」
「僕はかれんちゃんと一緒なんだよ。今やってることが好きなんだ。だから、ここにこだわるんだよ」
「――」
「平凡だから一緒にいる理由がないとか、平凡だからここにいる理由がないなんて、誰が決めたの? 確かに知里君には非凡な魅力があるし、東京やアメリカも刺激的で魅力のある場所だけどね、僕はかれんちゃんと『マーズレコード』のある新潟に残るよ」
「――」
「アメリカには、知里君一人で行くんだ」
昴は一瞬真顔になると、知里の目をジッと見つめながら言った。
――知里のあの真っ黒な瞳が涙で潤んで、頬に一筋の涙が伝わる。
かれんは知里が昴に言ったセリフを聞いて、知里の涙を見て、なぜか頭を思いっきり叩かれたような痛みを感じた。
知里の涙を見て、自分も泣きたいような気持ちになった。
確かに、昴が「今やってることが好きなんだ。だから、ここにこだわるんだよ」と言って、知里とアメリカに行くことをキッパリと断ったことは嬉しい。
昴がアメリカに行く気がなく、自分と「マーズレコード」のある新潟にこだわってくれるのは嬉しい。
でも、昴が自分の元や新潟に留まったとしたら、知里の「想い」はどうなってしまうのだろうか。
知里だって、昴のことが好きで、昴のことを必要だと思っているのだ。
もしかすると、「本当にアメリカに行けることになったら、先生は僕について来てくれるかもしれない」と思って、頑張ってダンスの練習をして、お金を稼いだのかもしれない。
自分が今の知里の立場だったらと思うと、胸が痛い。
自分が今の知里のようにバッサリと「アメリカには、知里君一人で行くんだ」と言われてしまったら、本当に悲しいだろう。
だって、自分だって、知里と同じように昴のことが好きだから……。
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