(16)

 昴は全てを話し終えると、昴にしては珍しい真顔で「で、どうかな? 莉子ちゃん」と言った。

 莉子は昴にチラリと視線を向けるとまたうつむいてしまったが、横にいたかれんが「莉子ちゃん……」と話しかけると、重そうに口を開いた。


「だって、お母さん、『お父さんと離婚して二人で暮らす』って約束したのに、いきなり『お父さんのことがまだ好きなの』って言い始めたから、私、お母さんと顔も合わせたくなくなって……。だから、かれんお姉ちゃんの家に……」

 莉子はそう言うと、横に座っているかれんの方を見上げた。

「莉子ちゃん、そうだったんだ……」

 かれんが莉子の顔を覗き込みながら言った。

 莉子の目には涙があふれている。

「そうだったの。ごめんなさい、かれんお姉ちゃん、ずっと黙ってて……。お母さんと約束したから。お父さんが浮気していて、離婚して二人で暮らそうってことは内緒にしておこうって……」

「――そう、だったんだ」

 だから、自分や自分の母親がいくら訊いても、二人ともケンカをした理由を話さなかったんだ、とかれんは納得した。


 さっき、昴はザ・ジャムのことを「彼らは解散したのが理由で会わなくなったってわけじゃないんだろうね。一緒にバンドやっていた頃から何かがあって、解散がきっかけで会わなくなったんだろうね」と語っていた。

 昴が言いたかったのは、莉子と妙子は莉子がカーネーションをテラスに投げ捨てた朝に突然ケンカをして口も聞かなくなったわけではない、と言うことだったのだろう。

 その前からずっと何かがあり、その日の朝のケンカはただのきっかけに過ぎなかったんだ、ということを言いたかったんだ、とかれんはやっと理解した。



「――莉子ちゃんは、お母さんのことが好きなんだね」

 しばらくの沈黙の後、昴が座っていた学習イスを少し莉子に近付けながら言った。

「えっ?」

 莉子が驚いたように顔を上げて、昴の方をマジマジと見つめた。

「お母さんのことが好きだから、お母さんとの約束を守ってかれんちゃんや明奈おばさんがどんなに訊いても、お父さんが浮気していることとかを話さなかったんだよね?」

「――」

 莉子は少しの間、昴の顔を見つめたまま動かなかったが、やがて小さくコクリと頷いた。

 昴も莉子が頷くのを見ると、小さく頷いた。

「確かに、大好きなお母さんが離婚するって約束したのに『やっぱり、お父さんのことが好き。離婚しない』って言われたら、ショックだよね。莉子ちゃんがお母さんと口をききたくなくなる気持ち、僕、わかるよ」

 莉子はまた昴の方をマジマジと見つめると、今度は大きく頷いた。

「はい、私、ショックで……」

「でも、本当にそれで良かったのかな?」

「えっ?」

 莉子が驚いたような声を上げると、かれんも昴の方に視線を向けた。


「確かにお母さんは莉子ちゃんを裏切るようなことを言ったかもしれない。ただ、お母さんがお父さんのことが好きだって思うのは、それは仕方のないことだよ。好きでなければ結婚しなかっただろうし、莉子ちゃんも生まれなかったからね。

 お母さんは莉子ちゃんに悪いと思って、ちゃんと謝って、自分の気持ちもちゃんと伝えようとしたよね? でも、君は『口も聞きたくない』ってお母さんの話をまったく聞こうとしなかったし、お母さんにどうしてほしいのかって自分の気持ちも伝えようとしなかった。

 本当にそれでよかったのかな?」

「だって、それはお母さんが私のことを裏切ったから……」

「確かに裏切ったお母さんが悪いかもしれない。でも、莉子ちゃんはお母さんに自分がどうしてほしいのか、今後どうしたいのかはちゃんと伝えるべきだよ。大好きなお母さんが自分の気持ちを伝えようとして来たんだから、尚更だ。

 お母さんの話をちゃんと聞いて、そして、自分がどうしてほしいのかも伝えるべきだよ。ただ、黙って何も話さずにいたら、莉子ちゃんの気持ちは伝わらない。

 それに、人は自分の都合の良いように物事を捉えてしまうから、莉子ちゃんが黙ったままだと、莉子ちゃんが考えていることとはまったく違う意味で物事を捉えてしまうかもしれない。

 まあ、たまには上手く空気を読んでくれる人もいるかもしれないけど、やっぱり自分の気持ちはちゃんと相手に伝わるように話さないと。それに、君が何も話さずにいると、ここにいるかれんちゃんや明奈おばさんも心配して、まったく違うことを考えてしまうかもしれないしね」

 昴はそう言いながら、チラリとかれんの方に目配せした。


 ――まったく昴は、とかれんは莉子の肩を抱きながら思った。

 昴の今の言葉、確かに莉子に向かって言った言葉だろう。

 でも、さっきの言葉のいくつかは自分にも当てはまる、とかれんは思った。

(――ただ、黙って何も話さずにいたら、莉子ちゃんの気持ちは伝わらない)

 確かに、黙って何も話さずにいたら、自分の気持ちは伝わらない。

 まあ、たまには上手く空気を読んで自分の気持ちを汲み取ってくれる人もいる。

 例えば、ここにいる謎解きの得意な昴が、何も言わなかった莉子がなぜ何も言わなかったのかの謎を解いたかのように……。


 かれんは思わず莉子の肩を抱いている手に力を入れた。莉子の気持ちが痛い程よくわかったからだ。

 自分の気持ちは伝えたい。でも、伝えられない。

 言うのが面倒とかそう言うわけではない。とにかく面と向かってなかなか言えないのだ。

 特に莉子は、ケンカしているとは言え母親の妙子が大好きなのだから、尚更言えないのだ。

 その気持ちも、良く分かる。


「――」

 莉子はしばらくの間、黙ったままうつむいていた。

 三人がいる部屋の中では、相変わらず昴が持ってきたザ・ジャムの曲が流れていた。

「――莉子ちゃん、大丈夫?」

 莉子があまりにも長い間黙っているので、かれんは心配になって莉子の顔を覗き込んでみた。

 莉子は泣いていた。

 目にいっぱい涙を溜めて、泣いていた。

 

 かれんは一瞬、さっきの昴の言葉が中学二年生の莉子には厳しすぎたのだろうかと思ったが、次の瞬間、莉子は涙を拭うと顔を上げた。

「――かれんお姉ちゃん」

「何? 莉子ちゃん?」

「私、家に帰ります」

「えっ?」

「帰って、お母さんと話してみます。やっぱりまだ本当は口もききたくないけど、私の気持ちとかこれからどうしたいかとかちゃんと話してみます。後、お母さんの話も聞いてみます」

 莉子はスッとベッドから立ち上がった。

「莉子ちゃん、本当に? 本当に帰るの?」

「はい、帰ります」

 莉子は目に涙をいっぱい溜めたままかれんに向かって笑顔を見せると、次に後ろを振り返って、昴にもぎこちない笑顔を向けた。

 昴は莉子の笑顔を見ると、大きく頷いた。

「うん、莉子ちゃん、それでいいよ」

「あの……。ありがとうございました」

 莉子は恥ずかしそうに小さい声で言うと、ペコリと昴に向かって頭を下げた。


「そうそう! じゃあ、帰る莉子ちゃんにお土産をあげないとね」

 昴がニコニコしながら言ったので、かれんは「えっ?」と言う表情をした。

 お土産って、まさか……。

 昴はかれんに借りたラジカセからザ・ジャムのCDを取り出すと、CDケースの中に入れて莉子に手渡した。

「えっ?」

 ザ・ジャムのCDを渡された莉子は、突然の成り行きに目に溜っていた涙を引っ込ませてキョトンとした顔になった。

「莉子ちゃん、中二だったよね? 僕、中二の頃から洋楽聴き始めたんだ。だから、このザ・ジャムのCDあげるよ。ちなみにさっきもちょっと話したけど、ザ・ジャムはイギリスの70年の終わりから80年の初めにかけて活躍したバンドで……」

 莉子がキョトンとした表情をしている中、昴が饒舌じょうぜつに語り始めた。


 あーあ、また昴のクセが始まった、とかれんは思った。

 しかも、何もこの場所のこの瞬間に洋楽の話を始めなくても良いではないか。

 まあ、そういうところも、昴は「いつでもどこでもマイペース」なんだろうけど……。


「ちょっと、昴!」

 かれんがやっぱりモヤモヤしながら言った。「何でこのタイミングでザ・ジャムの話をし始めるのよ?」

「だって、莉子ちゃん中学二年生って言うから、僕の中二の頃を思い出して……。洋楽とか聞き始めても良い頃なんじゃないかなって思って」

「昴が中二から洋楽聴き始めたからって、莉子ちゃんも中二で洋楽を聴き始めなくちゃいけないって決まりはないじゃない!」


 昴とかれんが言い争っている様子を、莉子はキョトンとしたまま見ていたが、やがて「ふっ」と吹き出すと、笑い始めた。

「どうしたの? 莉子ちゃん、そんなにおかしかった?」

 かれんが莉子の方を向いて言うと、莉子はコクリと頷いた。

「はい。――あの、明奈おばさんが言ってたんですけど、お二人は本当に仲がいいんですね」

「もう! 莉子ちゃんまで、そんなこと言わないで」

 かれんは前に自分の母親にも、「やだ、あんたたちって、本当に仲良いのね」と言われたことを思い出した。

「そうなんだ、莉子ちゃん。僕とかれんちゃんは本当に仲が良いんだよ」

 莉子に向かって嬉しそうに言った昴に向かい、かれんは鋭い視線を投げつけた。

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