三人目との遭遇

「おいコラ、アンタ。流石に分かってんだろ。何逃げようとしてんの」


がっしりと肩を掴まれた悠は男を見上げた。重なる視線を不意に外した悠はおもむろに肩に添えられた手の指先を摘み、男はそれを不思議そうに見つめる。異国の挨拶かと油断した男は二の句を紡ごうとして口を開いた。


「いたたたた!」


が、悠が男の爪にめいっぱい力を込め、緩んだ所を見逃さず強引に肩から手を引き剥がした。止める間も無く走り出した悠の背中を男は睨み、分厚い洋書をどこからともなく取り出す。取り出す、というよりは空中からいきなり手のひらに現れたという表現がぴったり合う気がする。


「……ックソ!」


焦った男の声が後ろから聞こえた悠は必死に廊下の曲がり角に向けて足を動かす。少なくとも姿が見えなくなれば諦めてくれるかもしれないと考えたからだ。

一方で男は手のひらの上に浮かぶ本へ片手を掲げた。すると見えない手に開かれたように本が開き、ページは風に吹かれるように勝手に捲れ文字が光る。


「俺は話がしたいだけなんですけど!」


悠に摘まれてヒリヒリする指先を軽く振って痛みを和らげた男は本に掲げていた手を悠へ向けた。


「ひぃっ?!」


すると、尖った光の塊が悠の足元に勢い良く刺さる。向けられたことのない敵意と直接の攻撃に涙目になりながら、震える足を前へ前へと進め、必死に角を曲がった。

正直、話をしたいと言いながら攻撃してくるとはあまりにも説得力が無い。どこか適当な部屋に入り込めば撒けるのではないだろうか。敵のホームグラウンドでこの判断は死ぬか生きるか五分五分に違いないが、ホラーゲームの回避ポイントを今は全力で信じたい。

角を曲がった先には三部屋見えた。その内の一部屋は死角になっていて奥へ進まなければ扉すら見えないので、一応悠はその扉のノブを掴んで音が鳴らないようにそっと閉めた。

次は回避ポイントを探すしかない。カーテンに阻まれた窓から差し込む光のみを頼りにするのは心許ないが電気を付けることを考えれば致し方ない。というより今は現代ではないので火を付ける、が正しい表現だろう。

隠れ場所を探すために部屋を見渡せば、書斎なのか、天井いっぱいに敷き詰められた本棚に圧倒された。しかし書斎と言うには少し古めかしい匂いがする。本の倉庫という言葉がしっくり来る気がした。


「どーこだ」


少しぼんやりしていた悠は廊下から聞こえた男の声と足音に危機的状況を思い出し、足音に気を付けて部屋の奥へ進む。

物を男へぶつけて怯んだ不意をつき、廊下へ逃げ出すのは現実的に考えた場合難しい。となればシンプルに隠れた方が安全に思える。但し見付かった場合の逃げ場所が無くなってしまう。

そう悩んでいる暇も無い。今だって男はこちらに近付いている。

焦った悠の目に飛び込んできたのは大きなソファとソファに掛けられた大きな布。その中へ身を隠そうと勢い良く布を捲った悠は即座に後悔した。


「…………ん」


人間。ソファと布の間に人間。

外には武器を持った男が居るというのに逃げ込んだ部屋にも敵か味方か分からない人物が居る。外の男はつい先程のことにも関わらず悠の事情も知っていた。となれば、城の中に居る人々にはもう知れ渡っているのかもしれない。攻撃されたことから悠は殺せとの命令が下されているという可能性も全くのゼロではない。

いっそ廊下を駆け抜けようと考えた悠は寝ぼけていそうな男は見なかったことにするべくそっと布を元へ戻した。無造作に伸びた長い黒髪に覆われて表情も見えなかったのだから夢だと思ってくれることを祈ったのに。


「うわ……?!」


いきなり掴まれた手首は振り払うことも出来ず、下げた筈の布の中へと体ごと引きずり込まれた。腕を背に回されるだけではなく、男の片足も悠の足の上に回されシャツドレスの裾ごと引き寄せられる。


「はな……離してください……」


恐怖に震える声は自然と小さく零れた。見知らぬ誰かに抱き締められる恐怖といったらない。身動きが取れないほど強く抱えられ、ひんやりとした男の指先が悠の首筋に触れるといよいよ殺されそうな気が涙を滲ませた。


「ころ……殺さ、ないで」

「……追われてるなら黙ってくれ。ここには誰も好んで立ち入らない」


耳元に聞こえた男の声が案外優しかったので悠は一瞬肩の力を抜いた。それと同時にソファの背もたれ側へと悠の体を移動させた男は布の端を正してあたかも一人で眠っているかのように寝転び直した。

その動作が終わるのを待っていたかのように扉が開いた。顔を覗かせたのはおそらく悠を攻撃してきた男だった。


「……ちっ、お前か」


どんな仕組みかは分からないが、部屋の明かりが順につく。布から光が透けて見えた悠は体が追ってきた男に見えるかもしれないと思い、一ミリも動かないように硬直した。息さえも届いてしまいそうで怖かった。


「おい、カール。女の子見なかったか」

「…………」

「おい! 寝たフリやめろ、本の虫。お前の興味が無い女の子ここに来なかったかって聞いてんだろ」


カール。それがきっと今匿ってくれている人の名前なのだろう。

カールの胸元に添えた悠の両手はソファの奥へ移動させられた時にシャツを握り締めていたらしい。顔を出して男と言葉を交わそうとしたカールに必死に懇願する代わりに、悠は一層強くシャツを握り込んだ。


「……知らないな。昼寝の邪魔をしないでくれ、ジャン。ここにはいつも通り本しかない。お前の大好きな女は書物の中からは出てこないぞ」

「あーはいはい、こんな色気の無いところこっちから願い下げだ。貴重な逢瀬を邪魔したな」


完全にやる気をなくした男、もといジャンの声が聞こえた後に少し乱暴に閉じられた扉の音が響いた。遠ざかる足音を聞いて数分後、悠は完全に危機が去ったことに安堵して今日一番の深い溜息をついた。

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