10.準備

 昨夜の経緯を思い出した雄和は、重い気持ちでやたらと辛くした味噌汁を啜る。何を食べても温度と感触しか分からない舌が、唯一分かる辛みを感じ取る。香辛料のせいで痺れている舌が、新たな刺激を堪能する。

 思えば殴られた頬は未だに痛みを有しているが、旭に歯向かう気は毛頭ない。漫画やアニメでなければいいだろうという、浅はかな思考があったのは事実であるからだ。

 それに、兄弟の多くは恐らくこの状況を気にしない。気にしないというと語弊があるが、事情は察しているだろうからそれでいいし、それに今は皆自分のことで精一杯だ。

 旭は早々に朝食を終えて出かける準備をしているし、同様に早く食べ終えた錦も気が立っていることがありありと分かる。台所で皿を洗っている信濃は、所作から明らかに機嫌が悪そうに見える。

 上三人で口論が始まっていないだけまだマシではあるが、空気がいい訳では無いし、雄和と共に食事を進めている燕の顔色は少し悪そうだ。

――大丈夫かこいつ。

 流石に心配をしていると、隣からの視線に気づく。それは、スローペースながら朝食をとっていた舞鶴だ。ちょっとした視線ならスルーもしたが、こうも困り眉で見られると気になりもする。一言声をかけると、舞鶴は慌てて不安げに口を開く。


「あ、あの、お兄ちゃん、ほっぺた、大丈夫?」

「ん? あぁ大丈夫やで。痛そうに見えるだけ。平気やから、ありがとな」


 心配してくれていた様子の舞鶴に返すも、彼女は困惑したように眉を下げる。続けて、目線を泳がせて悩む素振りを見せた後、ゆっくりと問う。


「えっと、平気って、こと?」

「……やから、そうやって言うとるやろ」


 舞鶴の質問に呆れながら返しても、彼女はあまり納得していない様子だった。

 舞鶴との会話は、こういったことが頻繁にある。はっきりと分かりやすく返事をしているはずなのに、伝わっていなかったり、全く噛み合わない返答をされたり。こちらの話し方が下手なのか向こうの理解力がないのか。話すことも面倒になるが、年の離れた妹の質問くらいまともに答えてやりたい。

 だけど、話が噛み合わない事を考えると溜め息も出る。その思考のままに短く息いて食事を終えた雄和は、黙って静かに食器を下げた。


 それから数分後。家に無機質な呼び鈴が家屋に鳴り響く。洗面所で歯を磨いていた雄和は、玄関の方から聞こえてくる会話から訪問客の正体を思い浮かべると、洗面所に呼びに来た燕にジェスチャーで返答をした。

 その後、一旦部屋に戻った雄和は、机の上に置いてある紙袋を手にし直ぐに玄関へと向かう。ドアを開けた先に立っていたのは、暗い茶髪のロングヘアをサイドで結い、膝下までのワンピースを身に着けた少女。彼女は、雄和の幼馴染の万場マンバ百華モモカ。小学生時代からの友人で、雄和に特撮などを薦めた張本人である彼女は、この家の事情もある程度は把握している。母親がサブカルチャーにあまり理解がないのも知っており、これまでも見つかってはまずいものを百華に預けたことも何度もある。そして今回も、そういった用件である。

 紙袋を片手にドアを開けた雄和を見て、百華は明るい笑みを浮かべ手をひらひらと動かす。


「やほ、雄和。顔色悪いね。しかも腫れてるじゃん、大丈夫?」

「大丈夫やで。いや、オレの顔色や腫れ具合はええねん。それより、こんな早よから呼び出してごめんな。そっちも出かけるとかあったやろ?」

「んー今日は特に予定ないし、こっちのことなんて気にしなくていいよ。頼ってもらえると嬉しいしさあ」

「ありがとな。んで、これ追加で預かってほしいんやけど」


 気にしないでと軽く笑った彼女は、妙に照れくさそうに答える。彼女の厚意に感謝しながら渡したのは、昨夜旭に見つかった写真集だ。これが母親に見つかっては、旭に怒られた程度で済むとは思えない。そのため昨日あれから百華に連絡しておいたのだ。

 数日前にもこうして預けたにも関わらず、再びの依頼に申し訳なさを抱くが、当の百華はなんでもないように頷き、それを受け取った。


「じゃあこれこっちで預かっとくね」

「頼む。いつもごめんな」

「いいっていいって。これ、お母さんに見つかったら捨てられちゃうんでしょ? それの方が嫌だよ。私のほうはそんなことないから安心して!」


 任せて、というように軽く胸を張った百華の様子に、軽く笑いながら頷く。

 百華の家は、両親ともに理解があるどころかオタク気質である。父親は今でも特撮を視聴し続けており、初めて会ったときは居間で堂々と当時放映中の特撮シリーズを観ていたのだから、非常に驚いたことを覚えている。

 その後百華の父親と共に只管ひたすら視聴した出来事は、そういった作品を禁止されていた雄和にとっては貴重な体験となった。


「帰ってきたらまたメールでもするから」

「はーい。じゃあそれまで何とか頑張って!」


 話したいことは多くあるだろうにそれを抑えて、彼女は紙袋片手に笑顔で帰っていった。

 百華の背を見送った雄和は、安堵した様子で家の中に戻る。写真集も早めに彼女に預けておけばよかったと思いながら家の中に戻ると、見るからに青白い表情で階段を下りる旭と目が合った。彼の「今の誰?」の問いかけに短く百華の名を呟いた。


「ちゃんと写真集は預けた。これであさ兄が無駄に怒られるのはないで」

「あぁそう、ならよかった。というか、最初からそうしてよ」

「……ごめん」


 淡々とした相槌の後に嫌味っぽく吐かれたが、それには何も反論しない。しかし旭はその態度も気に入らないのか大仰に溜息を吐き、またぶつぶつと何かを言って、最後に話を切り替えた。


「あぁ、そうそう。僕はそのうち美郷伯母さんや舞鶴と一緒に母さんたち迎えに行くから。家の掃除とかしといてよ」

「……はあい」


 けだるげに返事をした雄和は、一旦部屋へと戻った。


 それから数十分後、旭と舞鶴は美郷と共に空港へと向かい、残された四人はそれぞれ家の掃除と昼食等の買い物に分かれた。


「じゃあ、雄和と燕は買い物行ってきて。僕と錦兄さんで家の掃除するから」

「オレらに買い物任せてええん?」


 てっきり買い物には信濃が行くだろうと思っていただけに、深く考えず雄和は訊ねた。傍らでは錦が嫌そうに顔をしかめており、彼にとっても予想外だったのだろう。

 錦の様子に呆れた様子の信濃は、ひとまず買い物メモと予算を確認して雄和に手渡す。


「最近あんまり台所や冷蔵庫の掃除してなかったから、そのあたりの掃除をしようと思って。買い物くらい僕じゃなくてもいいからね」

「わかった。なら、行ってくるわ」

「お願いね。ほら、錦兄さんもいつまでも苛立ってないでやることやってよ」

「……はいよ」


 錦は、機嫌の悪さをおもてに湛えたまま、そっけなく返事をして廊下出る。信濃も掃除に取り掛かることにしたようだ。

 掃除は兄達に任せることにして、雄和は受け取ったメモに目を落とす。書かれている内容から見るに、作るものは和食なのだろう。

 そんなことを考えながら、メモと財布を手にした雄和は、燕と共に買い物へと向かった。


 穏やかで暖かい気候の中、特に話すこともなくスーパーへと向かう。利用客で賑わう店内を歩いて、二人は手早く品物を選ぶ。安く売っているものも意外とあり、燕は同じ鶏肉でも値段や色合いを真剣に見比べているようで、そのあたりは一任する。

 買い物中には、ついリストにない食料品や消耗品も買いたくなったが、今は不要だろう。

 雄和はなくなりつつあるタバスコが欲しいし、運動部の男子が多い故にプロテイン等も必要だ。ダメ元で購入していいかと燕に問うたが、却下されてしまったため諦める。余分なものを購入したせいで、無駄ないさかいが増えるのは避けたい。

 無事予算内に買い物を終え、沢山の品物でいっぱいになった幾つかの袋を抱える。陽の当たる温かな道を歩いていると、唐突に燕がこんなことを口にした。


「……雄和兄貴、あんまり、ダメージなさそうだな」

「なにが?」


 なんのことか分からず聞き返すと、燕は覇気のない顔で旭とのことを説明する。


「昨日、旭兄貴に怒られてただろ。だから……ちょっと心配だったんだけど、結構平気そうだから、安心した」

「あー……」


 燕のその言葉が少し引っかかる。いや、癪に障る。平気なわけがない。怒鳴られ殴られた上に、大事な写真集も雑に扱われた。それで腹が立たないわけがない。しかし悪いのは自分であることはしっかりと理解しているし、勝手に捨てられるよりはずっとマシだ。そのため不満を面に出さないように努めている。今だってそうである。癪に障ると感じつつ、その不快さを表に出さないよう、へらへらと笑みを受かべているのだから。


「あぁ、それか。いやぁ、別にノーダメってわけじゃないで」

「そうか、それは……ごめん」

「ええよ別に。自分であんまり荒っぽくならんようにしとるだけやから」

「……旭兄貴に対する不満は、ないのか」

「ないよ。あさ兄が怒ったんも、オレが甘かったわけやでな。兄ちゃんも、オレのことで余計に怒られんの嫌に決まっとる」

「……悪かった。軽々しく、平気そうとか言って」

「ええって言っとるやろ。さ、早よ帰ろうや。のんびりしとるとしな兄に怒られるわ」

「……そうだな」


 憂いを帯びた表情で頷いた燕は、それ以上は特に何も話さなかった。それに少し感謝しながら静かに帰路についた。

 家に着くと玄関扉が大きく開け放たれており、玄関口ではきちんとマスクを着用した錦が、ほうきを片手に黙々と掃除に励んでいた。箒を動かす度に埃が舞い、目が刺激さされたのか、辛そうに眉を寄せる。


「ただいまあ。なんや、にし兄大丈夫か」

「……ん。目のあたりに埃でもついたのかもな。顔洗ってくる」

「はーい」


 少し落ち着いた低音が耳に届く。外出前まで機嫌が悪いように見えた錦だが、どうやら大分落ち着いたらしい。時間の経過によるものか、相手が旭や信濃じゃないからか。なんであれ冷静さを取り戻してもらったのはいいことである。

 錦は自分の顔に付着した埃を払い、一旦家の中に戻った。それに続き、雄和と燕も購入したものを片付けるために家に入る。

 手を洗い居間に向かうと、そこには幾つかのクーラーボックスが置かれていた。台所では信濃が開け放った冷蔵庫を漁っていた。その絵面に少々驚いたが、すぐさま落ち着きを取り戻し声をかける。


「た……ただいま。しな兄、戻ってきたで」

「おかえり。そこにクーラーボックスあるから、買ってきたもの詰めといて」

「はあい」


 袋から取り出した食品を、燕が仕分けて、雄和がそれらをクーラーボックスに詰めることにした。

 並べられた複数のクーラーボックスのうちの一つを開けると、中には既に冷凍食品が詰め込まれていたので、別のボックスを開ける。中身は保冷剤が入っていただけだったので、そこに買ってきた肉のパックを入れる。

 数分で作業を終えた後は、二人も片付けに取り掛かる。普段から掃除や片づけはしているものの、大して追いついていないのが正直なところである。

 雄和は廊下を、燕は和室をそれぞれ掃除する。それから旭からの連絡があるまで、各々家中の大掃除に取り掛かっていた。

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