Parents

8.憂鬱

 父からの電話から数日後。部活にて5月の長期休みの間の練習日程表が渡された。当然のようにびっしりと埋められた学校での練習に他校との練習、それらに燕は頭を抱えたくなった。決して厳しい練習を想定して嫌になった訳でも他校との練習が嫌な訳でもない。これらにほぼ参加できない可能性が高いと伝えねばならないことが嫌だったのだ。

 練習後、燕は監督の元を訪れて予定通り練習に参加出来ず、遅刻もしくは欠席する事を伝えた。

 燕の申し出に、何故だと不思議そうな表情を浮かべた監督の男性は、事情を説明しても納得している様子ではなかった。


「親の実家に行くって、そんなに時間がかかるものなのか」

「……はい。県外ですので。宿泊もしますし」

「他校との練習もあるし、何より大会の予選だってあるんだぞ。お前だけ残ることはできないのか」


 監督は困ったように顔を顰めて提案する。監督の言うことも分かるが、燕だけ残るというのは尚更家族に迷惑をかけてしまうから出来ないのだ。それをなんとかうまく伝えると、監督は諦めたように口を開く。


「そうか、なら仕方ない。お前はメンバーから一旦外しておく」

「申し訳ありません」

「もし参加できそうなら、俺かコーチに連絡するように」

「はい、分かりました」


 想定していた以上に簡単に話が終わったことに安堵して、燕は監督に礼をし踵を返す。

 先日舞鶴が受け取った連絡の中にあったのは、両親が帰国することだけではない。 5月の長期休みの間に母の実家に帰ることも伝えられていた。帰省も何日か滞在することになるため、その間の練習に出られないのは必至だと、こうして燕は顧問の元にやってきていた。こういった監督や顧問への説明は、中学の頃から頻繁に行っているが一向に慣れない。もし、監督に怒られたりしたらと思うと、気が気でないからだ。

 監督は、1人だけ残ることなどは出来ないのかと聞いていたが、燕だってできるものならそうしたい。母と会ってその後更に祖父の元に行かねばならないくらいなら、部活動に参加する方がよっぽどいい。しかし燕の祖父からの評価はである。それはつまり好き勝手することは許されない立場となってしまうため、そんな特例は起こりえないのである。

――部活内での評価が下がっても仕方ないな……。


 そんなことを考えながら帰宅すると、家の中は何となく空気が重い。母が帰ってくると分かってからずっとこうで、皆あまり元気がない。特に旭や信濃の気落ちようは酷いもので、長男故に色々と責任が重くのしかかる旭は大きな不安を抱えているのか食事中でも物憂げな顔をしており、信濃もここ最近は皿を片付けながら溜息を吐いたりしている。

 この空気感は非常に好ましくない。しかし兄たちの心労は自分と比べ物にならないだろうと理解しているため、軽々しく口を開くことは避けた。

 それに、休みが終わればまた母は仕事に行くだろう。それまで耐えればいい話だ。

 沈んだ気分で廊下を歩いていると、丁度二階から下りてきた錦や雄和と鉢合わせる。真っ黒な髪が目に写ったため一瞬誰かと思ったが、先日錦は髪を黒に戻していたのだった。動揺しておいてなんだが、金髪より結構似合っていると燕は勝手に思っている。


「おう、おかえり」

「ただいま。どこか行くのか?」

「あぁ、メシでもな。……お前も行くか?」

「別に、にし兄の奢りってわけではないけどな」


 予想外の提案に驚くが、同時に何が起こっているのかを予想する。リビングへと続く扉から様子を伺えば、その先では旭と信濃がなにやら険悪な雰囲気で話し合いをしていた。

 食卓の上にあるのは様々なノートと書類。それは、母に見せねばならない帳簿や自身等の成績など、報告しなければいけないことに関するものだった。

 長く家を空ける分、母は家がどうなっているかを非常に気にする。学校でトラブルが起きていないか、真面目に勉強し部活にも励んでいるか、無駄遣いはしていないか等々。あと、なによりも子供たちの成績を。そのために何をどう話すかも考えねばならない。そんな時に一番話さねばならないのが旭であり、信濃はそのための相談相手といったところか。

 母が帰ってくる事が分かってからの彼等は、いつも気が立っている。あまり話しかけない方がいいのは明白だ。

 状況を理解し一瞬困惑した表情を浮かべた燕に、雄和は「言ったやろ」とでも言うように首を傾け、錦がそれに続く。


「だからさっさと鞄置いて着替えてこい。俺と雄和がメシ食ってくることは言ってあるから。燕も食うことになったって言っとく」

「うん。わかった。……あれ、舞鶴は?」

「舞鶴は声掛けたけど、行くとも行かんとも言わんからええんちゃう? 勝手になんか食うやろ」

「……そう」


 舞鶴を放っておくのは如何なものかと思ったが、そんな反応をするなら別にいいかと考える。それに、錦と舞鶴の相性はあまり良くないことを思えば、無理に連れていくのは避けた方がいいのかもしれない。

 なんてことを考えつつ、燕は一旦自室へ向かった。鞄を置いて私服に着替えて、財布や携帯電話等を持って玄関に向かう。その間も舞鶴に会うことはなかったが、特に気にせず兄達と共に家を出た。


 信濃に連絡を入れた後、錦の運転で近くの飲食店に向かう。よく食べる彼等にとってはあまり金がかからず沢山食べられる方がいいので、比較的リーズナブルな定食屋に入った。

 突然やってきた大柄の男三人に案内に来た店員が僅かに目を丸くしたが、そんなのは彼等にとっては慣れっこだ。自由に座っていいと案内されたので隅の方に移動して、メニューを開く。大きめに映る豚の生姜焼き定食が真っ先に目に入ったが、燕は豚肉がどうしても嫌いだ。安かろうが食べる気はないと目を逸らし、アジのフライ定食を頼む。

 錦は唐揚げ、雄和は海鮮丼とそれぞれ好みの定食を注文した。他の客の迷惑にならない程度におかわりをし腹を満たしていると、携帯電話が振動する音が聞こえた。音は錦の携帯電話から発されており、折りたたみ式のそれを開き確認した錦が呟く。


「信濃からメールだ。もう帰ってきてもいいってよ」

「分かった。なら、食べたら帰ろうか」

「せやなぁ。あのギスギス感嫌やから外で食ってもええ言われたんは楽やわ」

「そうだな」


 脱力したような雄和の言葉に相槌を打って、香り立つ温かい味噌汁を啜る。その向かいでは、返事をした錦が不機嫌そうに言葉を続けた。


「母さんは色々と厳しすぎんだよ。金銭面も娯楽も勉強も。……俺、今のとこ成績落ちてねぇ筈だけど、それじゃ絶対満足してくれないだろ。今から憂鬱だな」

「燕はどや? 中学のテストも成績よかったしいけるやろ。今は知らんけど」

「どうだろう。俺の成績中途半端だからな……」

「よう言うわ。オレの方が成績やばいで。会うの嫌やわ……絶対なんか言われる……」


 ワサビを多めに乗せた刺身を咀嚼し飲み込んで、雄和は長く溜息を吐いた。

 雄和は昔から随分と国語が苦手で、そのことで母に何度も説教を受けていた。今回も何かしら引っかかるものがあるのだろう、まだ再会していない母に怯えて頭を抱える。

 彼は他にも録画しているアニメや、友人から借りた漫画等も含めて気がかりは多い。気落ちするのも無理はなかろう。

 そこから、雄和は母に会う際に起こりうるだろうあれこれに対する不安や弱音を存分に吐いた。元々からよく喋るタイプの彼だけに、それはなかなか止まらず、そのうち錦も触発されてかぽつぽつと話し出す。そうなれば簡単には止まらない。

 何に対しても文句ばかりだと切り捨てることは簡単だが、彼等の胸の内を思うと文句が出るのも致し方ない。

 伯母の美郷曰く、彼等兄弟の基準は非常に高いそうだ。一般的に見れば高いレベルでクリアしていても、母の厳しさ故にまだまだ上を目指さるをえなくなる。そうしなければなんと言われるか。


『雄和くん、国語ひどいって聞いてたけど、全然そんなことないじゃない。寧ろ凄いくらいよ。双葉さんおかしいんじゃないの?』

『方針に口出しですか、おかしいのは貴女でしょう』


 数年前、美郷が母と会った時に勃発したの会話から、それは窺い知ることもできた。しかし、それを理解したところで母の基準が変わらなければ、こちらだって考えを改めづらい。『母さんの基準は厳しすぎるから、もう少し緩めてくれませんか』なんて言える奴は兄弟の中にはいないだろうから。

 明確な解決法を求めていないようなただの愚痴が燕の耳に入る。正直気分がいいものではないが、彼らの胸の内を思えば、こうなるのも致し方ない。 


――兄貴もしんどいだろうな。そう思えば、俺の不満なんて大したことじゃない。

 言いようのない重い気持ちを抱えたまま、燕は錦と雄和の言葉に耳を傾けていた。



 それから数日後、両親が帰る前日。燕の調子は朝から最悪だった。

 起床してからもケイやギーグに『顔色が変だ』と言及され、教室では貴音にも心配された。

 確かに妙に頭は重いし強烈な不快感が燕の中を占領しているが、言ってしまえばいつものことである。だから心配されてもいつも通りを装った。


「本当に大丈夫? 調子悪いなら保健室行った方がいいよ」

「別に大丈夫、心配しないで」


 眉を下げる貴音を不安にさせぬよう極力平静を保って返事をすると、貴音は心配そうにしつつも引き下がったが、それが龍樹相手となると通用しない。以前から燕の不調に気づいていた彼は、通学時からあの手この手で何とかして休ませようとしていた。

 そして昼休み、弁当を準備したり友達と机を近づけたりする生徒がいる教室。燕もひとり弁当箱の包みを開けた。食欲は無くても腹は減るし、残したら信濃に申し訳ないと弁当を食べ始めたその時、突然聞き馴染んだ声に名前を呼ばれた。

 その先にいたのは、なにやら真剣な顔つきの龍樹だ。手には何も無く、どうやらこちらに弁当を食べに来たわけではないらしい。いきなりやってきた他クラスの生徒に僅かに目線が集まる中、その中心の龍樹は燕の机の傍に立ち、真剣に言う。


「燕、保健室行こう」

「……俺は別にどこも調子悪くないって言ってるだろ

「貴音が気づくんだぞ、相当だ」

「……だとしても、もう回復したから平気だ」

「青白い顔して何言ってんだよ、とりあえず熱測るだけでもいいから、行こう」


 純粋に心配している様子の龍樹は、そう言って燕の手を掴む。だがそれに素直に従うわけでもなく、燕は彼の手を振り払う。


「そんな熱もなにもないから。いいよ」

「そんなの測らなきゃ分かんねぇだろ、ほら、いくぞ」

――しつこいな。


 一歩も引かない龍樹に、少しだけそんな感想を抱く。確かに朝から気分は良くないが、なのだ。龍樹もそれは分かってるはずだ。それなのに何故こうもしつこいのか。

 いや、分かっているからこそ、しつこいのかもしれない。理由が何であれ素直に休む性格ではないことを理解しているから、こうして敢えて周りの目がある中で声をかけて休ませようとする。これを狙ってやっているなら、只者ではないが、相当なおせっかいだなと燕は勝手に考えた。

 ならば仕方ない。燕は観念したように短く息を吐いた。


「……分かった、分かったから。とりあえず弁当食べてからでいいか」

「もちろん! よかった、ちゃんと行ってくれるんだな」


 その言葉に龍樹は分かりやすく安堵し、ゆっくりと手を離した。

 あとでまた来るからと言った龍樹を見送ったあとは、どこか居心地の悪い教室の中、昼食を再開することにした。


「なんだ市河、大丈夫か?」

「あぁうん、大丈夫。悪いな、騒がせて」


 声をかけてくれたクラスメイトに謝罪をして、燕は食事を再開した。

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