5‐3.新たな一歩
ネット環境を手に入れた梨乃は、ひたすら画面を見つめていた。
一ノ瀬と双葉、小松の三人から基本の使い方やネットリテラシーを学び、目を輝かせながら研究所の外の世界の情報を集めていく。
藤原と生田というと、行方不明もどきになった翌日の夜に疲弊した様子で研究所へと戻ってきた。
何があったのか聞いてみると、酒豪である首相に一晩付き合わされ、一眠りしてから帰ってきたそうだ。話した内容は特に言うことはなかった。
心配する必要はなさそうだと察して、一ノ瀬は梨乃を呼びに行く。
「梨乃、昼ご飯だぞ」
「あ、はい」
夜はしっかり眠る梨乃は、昼間はずっとパソコンに向かっている。
今まで研究所の中を歩き回っていたが、今ではその鳴りを潜めた。呼べば素直に中断してくれるが、逆に呼ばないといつまでも部屋にこもりっきりだ。
その状態になって一週間が経とうとしていたある日の昼食で、梨乃は突然予想外の相談を一ノ瀬と双葉に持ちかけた。
「外に出たい」
「外……?」
冷静に考えればまったく予想外ではなかったかもしれない。
梨乃は本能的に学ぼうとする、好奇心の塊だ。いつも見ている情報がどれだけリアルだとしても、それはただの情報にすぎず、それだけでは満足するわけがない。
一ノ瀬は少し悩んで再び梨乃を見ると、無意識だろうが上目遣いで一ノ瀬のことを見ていた。隣の双葉は双葉で、梨乃に見えない位置で一ノ瀬の服の裾を掴んでいた。
アンドロイドと言っても、見た目や動きは人間同然だ。それは梨乃を作ったそもそもの目的でもあり、いずれは研究所の外に出ることも考えなければならない。
時期が少し早まっただけだ。責任は俺が取る。そう覚悟して、
「分かった。藤原さんと生田さんに聞いてくる。それでOKをもらったら、明日どこか出かけよう」
昼ご飯を口に放り込んだ。
そのときの梨乃の顔といったら、今までで最高の満面の笑みだ。
「梨乃ちゃんはどこに行きたい?」
「たくさんありますよ。水族館に動物園。山と海。あとは……お祭りとか、雪とかも見たいです」
「明日で全部は無理だなぁ……」
露骨に肩を落とす梨乃に「またあとで行けばいい」と提案すると、顔にはまた笑みが現れる。見ているだけで疲れがなくなるくらい、微笑ましかった。
* * *
結論を言うと、外出許可は下りた。ただ、藤原と生田は少し渋ったのだ。
「梨乃は貴重な研究対象だ」
「研究所の中だけならまだしも、外に出すとなると危険が伴う」
「それはそうかもしれませんけど……」
藤原も生田も、今までそんなことは一言も口にしなかった。
外に出る話自体が初めてなのだから、なかったのは当然と言えば当然だが、明らかに二人の様子が違っていた。まるで梨乃をモノとして扱っているような言い方だ。
「絶対に、梨乃から目を離すなよ。絶対だ。もし誘拐でもされたらこのプロジェクトも、私たちも終わるんだ」
生田は必死だった。その勢いに気圧されて、「はい」と答えることしかできない。
お互いに納得のいかない状態だが、一ノ瀬たち三人が責任を持って梨乃を連れて帰ることを条件に、外出許可をもらうことができた。
このことを梨乃には聞かれたら、また問題が起きる。そうならないように監視室に移動して、一ノ瀬は双葉と小松に伝える。
「考えてみれば、最近よそよそしかった気がしますね」
「あ、こまっちゃんも思った? 先輩、もしかして石田総理と飲んだあとですか」
「おそらくそうだろうな。ひと眠りしたとは言ったもののひどく疲れてたし、何か隠しているようにも見えた」
実は一晩付き合ったのは嘘で、あの日の昼間に重要な何かがあったのではないか。例えば会議か、もしくは上からの指示か。
いずれにせよ、その真意を直接聞いても望む答えが返ってくるとは思えない。
「まぁ、考えてもしかたない。今は梨乃の外出許可がもらえたことを喜ぼう」
「ですね」
あんなに外に出たがっていた。願いは叶えてやりたいと思うのが、一ノ瀬たちの親心というものだ。
「俺たちは、梨乃の親なんだ。しっかりしなくちゃいけないな」
梨乃の部屋に戻り、小さく寝息を立てる娘の髪を撫でながら、一ノ瀬は自分たちの立場と覚悟を静かに再確認した。
* * *
翌早朝、梨乃をたたき起こすと、思い出したように飛び起きてものの五分で支度を終わらせた。
昔双葉が買ってきた、白をベースに少し水色の入ったワンピースだ。余程お気に入りなのか、たまに研究所の中でも着ていた。
「さあ、行きましょう」
今にも部屋を飛び出して研究所の外へと走って行ってしまいそうに、梨乃の体はうずうずしていた。
「えっと、支度してもらったとこ申し訳ないんだが、俺たちがまだ終わってない」
「じゃあ急いでください」
子どもに急かされて慌てて準備をする。
しかし、しばらく外に出ていないと何を着ていくか迷う。それは双葉と小松もどうやら同じで、三人の様子を見回る梨乃にさらに急かされた。
焦ってコーディネートした結果、三人揃ってお気に入りの、いつも白衣の下に来ている服になってしまった。
支度を終え、梨乃は藤原と生田に聞こえるように元気よく「いってきます」と叫ぶと、社員証をかざして研究所の出口を開く。
「手繋いどけ」
「はい」
握りしめる手の力は、一歩進むごとに強くなっていく。
恐怖と不安と緊張と、でもそれ以上に好奇心と高揚感と。色々なものが混ざった心で、梨乃は新たな一歩を踏み出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます