第2部 ハロー、ワールド・アウトサイド・ザ・ラボラトリー
第5章 興味は中から外へ
5‐1.好奇心には端末
「一ノ瀬さん、双葉さん。おはようございます」
「おう、おはよう」
「おはよう、梨乃ちゃん」
フライパンを覗き込むと、カスタードの甘い匂いが鼻を刺激して食欲をそそる。
他人行儀な呼び方と話し方はまだ戻らないが、笑顔にぎこちなさはない。気分が晴れているようで一安心だ。
「これは?」
「フレンチトースト、っていう、パンを卵とか牛乳とかに浸けて焼いたやつ。甘いから、楽しみにしててね」
梨乃はアンドロイドだ。だから実際は食べることで生命を維持しているわけではなく、匂いで食欲がわかないどころか食欲という概念もない。
食べるという行為に人間のそれと同じ意味はなく、悪い言い方をしてしまえば、人間らしさを出すためのただのカモフラージュだ。
しかし自分が人間ではないと知ってしまった今、梨乃にとってはそのカモフラージュは、一周回って興味を惹かれるものになりつつあり、それが食欲という形で現れていた。
「いただきますっ」
並べられた朝食を前に、悩んでいたころとは打って変わった軽快な声とともに手を合わせる。
初めて見たフレンチトーストを頬張ると、精神レベルが思春期とは思えないほど目を輝かせ、口角を上げた。
鼻から息を抜き、次の一口、さらに一口と、休む間もなくそのフレンチトースト一枚を完食した。
「ごちそうさまでした」
背もたれに寄りかかり、目を閉じて余韻に浸る。こんな甘くておいしいものがあるなら、もっと早くに食べたかった。
この世には、私の知らないことがまだまだたくさんある。研究所の外の世界のことがもっと知りたい。梨乃の好奇心はこの上なく掻き立てられた。
そんな梨乃は、まず研究所の仕事が見たいと思い一ノ瀬と双葉に話を持ちかけた。
「見てもいいですか?」
「まぁ、特に見ちゃいけないものもないし、大丈夫だろう」
「やった」
目を細め、胸の前で小さくガッツポーズして喜ぶ梨乃は、問題を抱えていたことを忘れさせるような、普通の少女になっていた。
* * *
今の日本は、ブラック企業が蔓延り過労者が頻出した、一昔前の働きすぎる社会ではなくなった。
変えたのは今の総理大臣の石田だ。
企業には必ず労基署の派遣監視員が常駐し、勤務時間を毎日報告しなければならないほか、残業の禁止を大胆に打ち出したのだ。
新制度になった直後は日本のGDPが激減したが、それでは生きていけないと悟った国民は一念発起、残業がなくても今まで通りの成果と収入を得ることができるようになった。
もちろん、新しい制度を浸透させるまでに時間と費用がそれなりにかかり、石田も国も多大な責任も負うことになったが、今ではGDPも回復して国民の生活に問題はほとんどない。
その副産物としてロボット・AIブームの再来があり、今の日本国民が楽に生活できるよう、日々研究が進められている。
長々と梨乃にそう説明した一ノ瀬は、ただし、と付け加えた。
「この研究所は例外中の例外だ。監視員はいないし、勤務時間の概念もなければ残業の概念もない。もうこの研究所自体が家みたいなもんだ」
「家でも仕事してて、疲れないんですか?」
長い説明を聞いているのにいまだに真剣な顔の梨乃に、逆に疲れないんですか? と疑問を抱きつつ、一ノ瀬は答える。
「俺はこの仕事が好きだからな。前の会社から異動してきたけど、今では梨乃の研究が楽しくて仕方ない。色々気づかされるよ」
梨乃がいなかったら、一ノ瀬が子育てで悩む機会はほぼなかっただろう。あってもそれはまだずっと先のことだ。
子育てだけじゃない。人間関係の点から見たら、この研究所の生活を改めて考える良い機会だった。この広くも狭い研究所でともに生活するには、もっとお互いの信頼や心配が必要だ。
「梨乃のことを信じるのも、必要なことだよな」
一ノ瀬は小さい何かを決心し、梨乃の頭を撫でる。梨乃は嫌がる素振りを見せず、少し照れくさそうにそれを受け入れた。
二人は双葉と小松を引き連れ、研究所の中を歩き回った。
梨乃が入っていた水槽や、定期更新のときに使っている
説明を聞く梨乃の顔は好奇心に満ちていた。
研究所の仕事を梨乃に見せたその日の夜、一ノ瀬は四人を集めてある提案をした。
「梨乃に、携帯とパソコンを与えようと思うんです」
「いいんじゃないか」
「私も同感だ」
「私たちも賛成です」
全員が即答だった。
議論の余地なく、梨乃に携帯とパソコンを与えることが決定した。
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