第6話 恋の瞬間

 〜夏休みが終わるまで、残り9日〜


 いつもよりも空が高く見えるのは、雲が一つもないからでしょう。


 いくら私とはいえ、いよいよ夏休みの課題とやらに冷や汗をかきはじめました。私は美味しいものは後に残しておく性格です。ということは嫌なことも後回しにするわけです。夏休みの最後は結局、散々見て見ぬ振りをして来た課題たちのしわ寄せが待っているのでした。


 彼の不思議な力で、私の夏休みの課題も終わらせてくれないものかと阿呆あほうなことを考えている昼下がり。しかしもし、彼の能力の回数に限界があり、使い果たしてしまった途端とたんに彼が消えてしまうとしたら?


 こんなどうでも良いことにその大切な、貴重な一回を使うのはあまりにも馬鹿馬鹿ばかばかしいです。そう勝手に解釈した私は、しぶしぶ机に向かいます。


 私の体内時刻は、いつから彼を標準時子午線と定めたのでしょうか。彼に会うまでが待ち遠しく、彼と別れた後はもう、その日が終わってしまったような気がします。そのせいで課題の進み具合にもいまいち勢いが乗りません。きっと彼と課題には因果関係は見られませんが、そういうことにしておきます。


 進む秒針は一歩、また一歩と夜の方へ、私の体を動かすことなく連れて行きます。未だ真っ白なノートが、今日1日がどれだけ無駄なものだったかを物語っているようです。


 すっかり気の抜けたサイダーを、私は無理に喉の奥に流し込みました。ぬるくなった液体が体内を流れているのが分かります。かすかに残る甘い香りを、鼻を通して吐き出しました。


 結局この1日をかけて理解したことは、二次関数にじかんすうの答えでも、偉大な詩人がみずからの文章に込めた想いでも無く、彼に会わないと私の1日は始まった気がしないという事実だけでした。


 冒頭でも申し上げた通り、私は色恋沙汰いろこいざたには全く無縁むえんで生きてきましたから、こんなにも他人に心惹かれるなんて思ってもいませんでした。彼に逆告白宣言をされたあの日の自分に今の気持ちを伝えたら、きっと驚くことでしょう。


 手持ち無沙汰ぶさたな夕暮れを過ごしていた私は、行くあてもないまま、オレンジに染まる街へ足を踏み出しました。


 夏休みのような長期休みというのは、自分が今何曜日を過ごしているのか、見失う事が多々あります。日々の区切られたコマ送りのような生活とは違う、自由気ままな毎日。そう。まるで猫の日常のようです。


 猫のようだと思った矢先、ふと私は、彼に会う前の校庭で見た風景。銀色の猫を見かけたあの日のことを思い出してしまいました。


 貴方に伝えそびれたあの景色。あの日から私の日常が少し違うものになったような気がします。思い出した途端に私は、何故かあの猫をもう一度見たいという気持ちで仕方なくなってしまいました。


 しかしそれは望んではいけないことのような気がするのです。


 彼と猫。けして繋がりそうもない点と点。そのはずなのに、どちらかに近づこうとするともう一方が離れていく気がしてならないのです。


 いつか必ず彼に銀色の猫の話題を持ちかけてみようと思った事が、この夏の私の最大の間違いでした。



 -どれほど歩いたでしょうか。


 気づけば街の街灯が点々とつき始めていました。空はまだかろうじて明るさを保っていますが、せっかちな星達はもうすでに各々の輝きを放っています。


 私は手頃なベンチに腰掛け、暮れゆく街並みをぼんやりと眺めていました。目の前を軽装で走り回る子供達の泥だらけの全身から察するに、きっと彼らは今日、朝からずっと遊んでいたのでしょう。


 様々な人が家へ足を運ぶ中、私はその流れに逆らうように、その場に何をするでもなく座っていました。私がこうやって普通とは違うことをしていると、そんな時は決まって彼に会えるのです。そのような気がするのです。


「お? 奇遇だね。君もこの公園が好きなの? 」


 そんな彼が私の前に現れたのは、もうすっかり日も暮れ、流石の私もそろそろ帰ろうかとしていた時でした。


「遅いよ!」


「え? 約束してたっけ? 」


 まるで待っていたかのような発言に彼は戸惑いました。それもそのはず。待っていたのは私の勝手です。約束も何もしていない彼を待ち続けていたのは私自身です。


 まるで、彼を待ちぼうけていたような自身の発言をかえりみて、火照る私を察したのか、彼は無言で冷たいサイダーを差し出しました。


「そこの自販機でさっき買ったんだ。開けてないから飲んでいいよ。暑そうだし。」


 彼にもらったサイダーは、昼間に飲んだものとは比べ物にならないくらい美味しく、私の熱くなった体を内側から冷やしてくれるようでした。


 ふと隣の彼の方は振り向くと、滴り落ちる汗を拭う仕草が見受けられました。ジョギングでもしていたのでしょうか。心なしか心臓が早く動いているような、呼吸が落ち着いていないような気がします。


「ねえ。よかったら、、の、、飲む? 」


 この時の私は確実に、人類史上最小にして最大の一歩を踏み出しました。電球、車、飛行機、コンピュータ。あらゆる人類の進歩や発明よりも偉大な、それでいて何よりも小さな一歩です。ペットボトルを握る手が震えているのが、私から見ても嫌でも分かります。


「あ、え。いいの? じゃ、、じゃあもらうね。」


 突発的なトラブルに見舞われたように、彼はたじたじとしていました。よっぽど暑かったのか、色白の頬が赤くなっています。そんな状態になるまで我慢させていたのか。気づかなかったのか私は。この大馬鹿者。と、私は心の中で自分を一発ぽかりと殴りました。


 無機質なプラスチック伝いに触れ合う互いの唇を想像すると、私の脳内はオーバーヒート寸前になってしまいます。できるだけ考えないように、その事実を思考の遥か彼方へ追いやることに意識を集中させます。


「残りは飲んでいいよ!また明日ね。もう行かなきゃ!」


 その間になんの会話をしたのか、私は覚えていません。気がつくとそこには、ペットボトルを持った私一人だけが座っていました。


 なぜか私には、その時その場を離れた彼が、照れ隠、しをしているような気がしました。彼が照れる理由はわかりませんが、とても用事があったようには思えません。


 四六時中彼のことを考えている私が言うのです。十中八九当たっていると思います。


 この日の私は自分に自信があったのかわかりませんが、彼の行動の真意を考えた結果、私に好意を抱いているのでは? と言った答えが導き出されました。恋をしているのは私の方のはずなのに。彼を好きになっても意味がないと、タイムリミットがあると分かっているのに、叶うはずのない恋をしているのは他でもない私自身なのに、です。


 現代はペットボトルも改良に改良が加えられ、より軽く、より小さく設計されているはずです。それなのにこのペットボトルはどうでしょう。先程から飲もうと試みるのですが、一向に持つ手が動きません。


 一度お互いの唇が触れ合ったペットボトルの口が顔に近づくと、どうしてもそこから残ったサイダーを飲むことができないのです。間接キスというのは、直接キスよりもドキドキすると一度本で読んだことがありますが、まさか私がその被験者の一人になるとは。


 もし今、誰かに実際の所どうなの? と、聞かれたとしたら、私は勢いよくYESと声を上げることでしょう。恋する気持ちと間接キスについて。論文にまとめて、発表でもしてみましょうかしら。


 この恋という奈落は、いったいどこまで続いているのでしょうか。私が、終わりの見えない底なしの穴に身を投げてから、もう随分ずいぶん経ちました。


 最初は右も左もわからなかった私も、今ではもう自由に体を動かすことができます。自分の気持ちに正直に、ただまっすぐに彼を想う私自身を肯定することが出来ています。


 付き合っては別れを繰り返す皆さんとは違い、私の恋は一度きり。そして、必ず終わりがあるのです。しかし、それを私は不幸だと思ったことは一度もありません。


 例えばそうですね。なんでもいいのだけれど、例えば。美味しいお菓子があるとします。一粒食べればもう幸せです。しかし、その数には限りがあります。終わりがあるからこそ、一つ一つ大切に食べようとするでしょう?


 私の恋とはその甘いお菓子のようなもので、彼との時間は残されたお菓子の包み紙を一つ一つ丁寧に開けるような、そんな時間、感覚なのです。


 一人歩く帰り道。夏の夜も幾分いくぶんか過ごしやすくはなりましたが、世界はまだまだ熱を帯び続けています。永遠にも感じる短い暗闇の時間は、今日1日の出来事を静かに、思い出という形に上書き保存してくれているようでした。


 暑い外気に晒され続けた私は、そっとキスするように、ペットボトルに口づけして、残ったサイダーを飲み干しました。それはあまりにも自然で、当たり障りのない動作だったように思います。


 まだ炭酸の残った液体は、今の私にはいつもより少しだけ、刺激的に感じました。


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恋という奈落 AKARI @akari-jp

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