第3話 桜

「お茶ありがとね、喉乾いてたんだ。」

突然部屋に入ってこられて混乱した僕は、もちろん聞きたいこととか色々飲み込んで、まずは気持ちを落ち着けるために、逃げるように部屋を出て台所に向かう。ふと目に入った少し食べ残した朝食の皿も運んでいく。食器かごに残るグラス1つに、麦茶を注いで1つ静かに深呼吸をしてから自室に戻った。


「それで、本当に、何をしに来たの」

「うん?だから、冬がずっと学校に来てないって話をきいたからさ、気になって。」

「気になってって、もう何年か会ってなかったじゃん。普通家まで来る?」

「だって学校来てないなら、ここでしか会えないじゃん」

「それは、そうなんだけど…」


なんか、もう対話を諦めそうになった。彼女はきっと僕の欲しい返事をくれない。

いや、僕の欲しい返事って何だろう。


「学校行かないでさ、家でいつも何してるの?」

「何って。何もしてないよ、ゲームしたり本読んだり、寝てるだけ。」

「ふーん。それって楽しい?」

「…楽しい訳ないだろ。それしかやることが無いんだよ。」

「そっか。それならさ、今から外にいこう!

 私の家から学校に行く道の途中にある高架下の坂道、桜が綺麗なんだ」

「い、行かないよ?何言ってるの、桜なんてもう散りかけだろ。」

僕は庭にある小さな桜の木を見た。その枝から離れた花びらの1つは、夕依と一緒に部屋に入ってきた。

「それに登校路なんて…行けないんだよ。」

「どうして?誰が決めたの?行こうよ、あ、これ自転車の鍵だ!もーらいっ」

彼女は勝手に僕の机に近づいて、小物入れを漁って少し錆びた小さな鍵を握って見せた。

「夕依!まってよ、夕依!」

「早くついてきて。大丈夫。

昼間なんて学生は歩いてないし、咎める大人なんてみんな仕事中なんだよ」


彼女を放っておく選択肢もあったが、そのまま引き下がるとは思えなかった。

僕は仕方なく、彼女を追って部屋を出た。急いで足を突っ込んだスニーカーは、殆ど汚れてないのに少し窮屈だった。



 外の、匂いがした。

車の排気ガスの匂い、人間の生きる匂い、前は意識しなかった。でも久しぶりに外に出た自分は敏感に感じ取っていた。決して心地良いものではないけれど、恐れていた不快さはなかった。先で自転車を漕ぐ夕依が、小さな桜並木を指さしたとき、忘れていた春の匂いを思い出した。


「ほらね。みんなにお花見してもらえるような壮大な景色ではないんだけどさ。

 私は好きなんだ。」

「うん。しっかりみたのは去年ぶりだ。」

「あはは、そんなの私も同じだよ。春にしか咲かないんだから。」

「それは確かに…そうだね」

「…1年だよ。たった1年。

 大丈夫、何も終わってないよ。まだ始めてないでしょう」

「え?」

「…ううん。」


桜を背景にして、振り返る夕依の笑顔にすこし心が揺れた。

彼女の目的は何だろう。どうして、制服を着ているのに学校に行っていないのか。

何もかも気まぐれに話して、突然行動する彼女のことだ。きっと、考えたってわからない。

落ちた花びらを運んでいく川の水が、日に当たってきらきらと光って見えた。

話相手のいない小さな部屋で、毎日自分と向き合っているようで逃げているだけ。そんな退屈な日々を過ごしていた僕には、彼女の“わからない”部分が、その景色と同じくらいに眩しかった。

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