「いま」は

 あああっあああっああああああああっ!!

 

 分かっていた、分かっていたのよ!! 

 この賭けは私が負ける、負けるとっ!!


 その敗北を見せつけるかのように、今の私の目の前には薄暗い石で造られた広間と座る物の居ない玉座。ついさっきまでの一般的な日本住宅のフローリングが張られたリビングでは、ない。

 夢かと、私があまりにも焦がれるが故に見た夢かと思いそうになるが、そこに私が確かに存在していたという証拠が、開いた手の平の中に、ある。


 一本の髪の毛。


 明らかに自分のものではない、少しうねりが入った癖のある短い、黒い髪。


 震えの止まらない証拠の乗る手に、もう片方の手を合わせ、どこにもやらない様に閉じ込める。

 重なる手に額を当てて私はただ、ただ、泣く。


 傍から見るとまるで神に祈りを捧げている様な恰好で。


 その事に気が付いた途端、笑いが零れた。次から次へと笑いが止まらない。止める気もないのでそのまま心に任せて吐き出す。音のない無機質な玉座の空間に私の無様な笑い声が響く。


 神に祈り? 元の居場所に戻して下さい、と? 

 神に感謝? ほんの一時でも戻れた、と?

 

 それとも。


 神に懺悔? 自分で動かず、何も差し出さず、モノを強請ってばかりいた自分の罪を? 



 冗談じゃないっ!!!!

 私は最初に奪われた!それでもまだ何かを諦めて差し出せと!?

 ふざけるな。

 ふざけるなっ!


 

 両手が自由に出来たなら間違いなく、座り込んでいる冷たく固い石畳を全力で殴っている。手が壊れようと、何度でも。それをしないのは、手の中にある「これ」が、今の私が私を保てる、唯一の私の証拠。なくしてたまるものか。 


 そっと両手を開く。見つめる先はたった一本の、髪。

 その一本だけでもあれば、私はさっき起こった事を鮮やかに思い出せる。


 年をとっていても、一目ですぐに分かった。寝顔は何歳になっても変わらないが、ところどころ父親に似てきていた。小さい頃は私に似ていたのが嘘のよう。


 無意識に髪を撫でていた。私の知っている細くて優しい感触ではなくなっていたけど、それが尚、無性に愛おしいと感じた。


 貴方にとったら、起きたら見知らぬ女が泣きながら自分の髪を撫でてるなんて、ビックリな状況だっただろうけど。 涙は、一目見た時から止められなかった。


 でも、最後に。


 年配の女性が入ってきて私が賭けに敗れた事が決定し、絶望の世界に飲まれる、その瞬間に、確かにこの耳で聞いて、私の目は貴方の口の動きを捉えていた。


 貴方が私に向けて言った。



 『お母さん』


 

 それだけで。

 その一言だけで。


 私はこの絶望の中でまだ、もがける。


 

 わかってくれた、その事実が希望。

 たった一本の髪は、希望の証拠。



 だからまだ、この狂ってしまいたい心を抑えられる。



 そう思える意思が、今はまだ自分の中にある。

 手の内に落としていた視線を瞼で遮る。自分しか感じられない闇の中でその思いを再確認し、そっと目を開く。色を取り戻した瞳の見つめる先は変わらないが、それに語り掛ける様に私は大丈夫、と口から言葉が自然に出てきた。



 さあ、これからの事を考えないと。

 やらなくちゃいけない事は山詰みだ。

 でもとりあえず。

 


 お酒が飲みたい。酔っ払って形振り構わず愚痴って大泣きしたい。



 まずはそれから始めよう。

 そうしたら、考え始める。



 今なす事が決まればこんな所にいつまでも長居は無用だ。膝が固まって起き上がりづらい足で何とか立ち、大き過ぎて近くに居ると存在に気付かないそれに向かって、私は顔を上げる。


 私に「魔王」の真実を告げたモノ。

 私に賭けを持ちかけ、勝利したモノ。

 彩る色は、黒。

 

 強大な力を有しているのが遠見でもすぐわかる、そんなドラゴンに向かって私は口を開く。



 「ねえ、そこのでっかいの。これから私はお酒を飲みに行くから」



 吐き捨てる様に言い、私は光の溢れる場所に繋がる大きすぎる扉を目指し足を進めた。扉の境界線を越えるか越えないか、暗闇と光の中間の位置で歩いていた足を止める。後ろにいるドラゴンにもう一度、顔を向けて口を開く。

 「あんたも、くるんでしょ? 」と、そう言葉を付け加えればドラゴンは肯定の意なのか、薄暗い空間の中でもはっきりと分かる漆黒色の、その大きな羽を広げた。



 一陣の黒い突風が開け放たれた扉から吹き抜け、舞い上がる。


 もうそこには静寂だけが残っているだけだった。




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