08
少しずつ衰弱していく音恒が褥から起き上がれなくなるまで、そう何年もはかからなかった。それでも美織はほぼ毎日往診に通い、彼に寄り添い続けた。
「音恒は、もう良くはならぬのか」
あれから何が気に入ったのか、時折美織に会いに来るようになった宇多がついに問う。
「そうですね、もう、永くはないでしょう」
食事が摂れなくなれば、もうこの時代でなす術は無い。まだすりつぶしたくだものなどは口に出来るがそれも量が少なくなってきていて、誤嚥し咽せることも増えてきた。ここまで来ればもう時間の問題だ。
「ならばその後、汝はどうする」
「音恒様が亡くなられたら、私がここに来る理由も無くなりますからね。そうなれば……まずはこれまで受けられていないかもくの医学生を修了して、全ての医学資格が欲しいです。その後は少し旅でもして、見聞を広めるというのもありかとは思いますが」
「ここに留まる気は無いのか」
「ありません」
先のことは決めている。宇多の、問いなのか提案なのか図りかねる言葉にもはっきりと返す。
「私の片翼は、音恒様に託しました。あの方が居ない場所で、あの方が居た頃と何も変わらない様が続いていくのは見るに耐えません。それに私には、成し遂げたいことも出来ました」
揺るがない想い。思い。年を重ねて、少し頑固になっただろうか。
人一人が亡くなったところで、世界は変わらず回っていく。そんなことは分かりきっているし、これまでにも数え切れない程経験してきた。どれほどの死を見てきたか――それも、覚えてはいるのだが。
覚えているなら、忘れられないなら、この記憶力さえも神から賜ったものとして活用させてもらおう。人間の限界だとか、そんなことなんて知ったことか。それすら超えて、覚えておく。目の前で生きた命の全てを。
「……昨日」
「?」
「音恒を見舞った時、和臣を独占しすぎだと拗ねられてしもうた」
「ええ~……」
困ったように笑う宇多の告白に、美織も困ってしまう。だってそんな、見え透いた独占欲を向けられて。
(嬉しくならないわけないじゃない)
付き合っているわけではない。好き合ってはいるが、想いを伝え合ってはいるが、あくまでそれだけだ。お互いのために、お互いにそれ以上踏み込まないようにしている。それも宇多は承知の上だ。
「もう、しようのないひと」
文句を言うつもりなのに、頬が緩む。これでは説得力の欠片もない。
「そろそろ、戻りますね」
「うむ」
軽く頭を下げ、音恒の部屋へ向かう美織を、宇多は見えなくなるまで見送った。それからふと、思い出したように呟く。
「そもそも人間は、神が生んだ存在だったの」
ならば人間は等しく神の子であり、人を越える寿命を持つ美織は確かに人神――生神なのだろう。
*
最期の近さを思って、美織はしばらく音恒の部屋のすぐそばに部屋を借りて泊まり込んでいた。わがままを承知で宇多に頭を下げたのだ。思っていたよりあっさりと許しが出たが。
「……みおり」
「はい、音恒様」
言葉も出にくくなっている彼の声を、逃すことなく拾う。
「つきが、きれいじゃ……」
「っ……」
二人だけの「愛ことば」。この時代からすれば随分未来の文豪が生んだ言葉だから、この時代の人が知る筈もない。故に、これを二人が愛を交わす言葉に選んだ。
泣きそうになるのをぐっとこらえ、美織は精一杯微笑んで見せた。
「死んでもいいわ」
とっくに月なんて見えていない。お互いのことしか。そもそもここは室内で、月はおろか、星も雲も見えはしない。
それでも良かった。ただこの言葉が交わせれば。
その夜――明け方近くになって、音恒は息を引き取った。衰弱しきって痩せこけた顔は骸骨のようで、それなのに穏やかでもあった。
「きれいな死に顔じゃな」
朝になって知らせを受けるなり音恒の部屋を訪れた宇多が、ぽつりと言う。
「昔の音恒のことはあまり知らぬが、赤く腫れて化物のようだったと聞いたことがある。それを治したのが和臣であることも」
「……完治する病ではありませんでしたから、普通の人のように自由に外へ出ることは出来ませんでした」
「そうか」
それでも、美織の治療がなければ音恒はもっと早く亡くなっていただろう。全身が腫れあがり、それはひどい様相で。そのことも、美織に教えられたという音恒の側付きだった者に聞いて知っていて、何よりも外へ出られない音恒にはずっと美織が付いていた。ただそれだけでも、寂しさや不満もいくらかは紛れていただろう。
この時、宇多は天皇の地位を後継の息子に譲り降りていた。上皇となって、異母兄弟とはいえ弟である音恒を失って、何を思うのか。いくらきょうだいが多いとは言え、美織と関わったせいもあってか、特に音恒とは他の兄弟姉妹よりも関わりが多かったのではないかと推測できる。
宇多は、それ以上何も言わなかった。美織も何も聞かなかった。
一通り挨拶を済ませ、荷物をまとめて去る美織を、誰も引き止めることも声をかけることも出来なかった。
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