04

 うーん、と、言葉を考える。

「陰陽師にしか出来ないこともあります。陰陽師はあやかしが関わる以外の病や怪我は治せないでしょう? 同じように、私はあやかしを視ることは出来ても、退けることは出来ません。それぞれの専門というものです」

「ふむ、そういうものか」

 外との交流が極端に少ないからか、音恒はすれることもなく本当に素直なままで育った。ただ大人にもなりきれないというか、年齢に比して幼くはあるのだが。

「……ああ、外が闇くなってきましたね。そろそろ――」

 帰ります、とは言えずに上げようとした腰が止まる。引っ張られた袖の方を見ると、少し俯いた音恒がしっかりと握り締めているところだった。よく見るとその手が微かに震えている。

 明らかに何かがあった様子。そう言えばこの日は、顔を合わせた始めの時から少しそわそわとしていた。だがこの様子では、聞いたところで答えないかもしれない。だったら、

「一緒に、お月見でもしますか?」

 別に無理に聞き出すこともない。黙って傍にいて、時間が解決することならそれで良いし、彼が話したいと思ったら話せばいい。それだけのことで、それだけならばこれまで他の患者たちにしてきたのと同じだ。

 ただ少し気になってしまうのは、関わる時間が長かったせいだろう。




 食べるものを持ってくると言って席を外した和臣を見送った後、戻ってくるまでの時間に音恒は、ただ屏風越しに暮れゆく空の色を眺めるだけの、いつもと同じ習慣を繰り返す。そうしながら、今朝方聞いた侍女たちの噂話が蘇ってきた。


『和臣さまかい? たしかに、恐ろしいお方だねぇ』

『鳥羽さまも知らないような医術を使うというし』

『それにいくつ季節が巡っても老いないだなんて』

『あやかしが化けてでもいるのかね』


【傷病老死】

 生きていく上で人が苦しむ原因の大きなものがそれだと、いつか和臣が教えてくれた。彼の知識は豊富で、いくら聞いても尽きないし面白い。そう言えば、遣唐使の廃止を予言したこともあった。

 確かに和臣は、出会ってから全く見目が変わっていない。そのことも含め、彼女らの言うことにも心当たりはあるのだ。それでも。

「なにがあやかしか。吾に言わせれば、和臣は神じゃ。ならば老いぬことにも合点がいくであろう」

 わざと口に出して言う。そうしなければ、もし彼女らの言うように和臣があやかしだったなら、今にも居なくなってしまいそうだから。不安で、だからこそ信じたくて。

「…………和臣」

「はい」

 袖で顔を覆って呟いた声に返った思わぬ返事に、音恒は驚いて顔を上げる。何かを乗せた膳を持った和臣が小首を傾げていて。

 何も言わない、何も言えない音恒の様子を見て、にっこりと笑ってみせた。

「もう陽は沈みました。今宵は一等美しい十四番目の月です。縁側で座って見ましょう」

 今なら、外へ出ても構わないから。

 誘われるままに音恒は立ち上がる。屏風の向こう側へ出て、その眩しさに思わず目を閉じた。顔の前に手をかざしても、その眩しさはほんの少し和らぐだけで。

――嫌だ。もしこのまま目を閉じている間に、和臣が消えていたら。彼の代わりに、彼が居る筈のその場所に、あやかしが居たら。そんなのは、嫌だ。

「大丈夫ですよ、音恒様。ゆっくり、目を開けてみてください」

 かざした手をやんわりと握られ、目元を覆う何かで視界が暗くなる。言われた通りにゆっくりと目を開けると、からやわらかな光が差し込んでいた。少しずつ隙間が広がり、それが和臣の手だったと気付く頃には、もう目はその明るさに慣れていて。

「わ…………」

 空に浮かぶまん丸な月に目を奪われる。

 月は、夜とは、こんなに明るかっただろうか。こんなにもきれいなものだっただろうか。澄んだ空気の中を流れる灰色の雲までが月明かりを映し出している。

「げに……げに、このようにうつくしいものだったのか……」

「ええ。……世界は、きれいなんです」

 声の方へ、そっと視線だけを向けた。和臣の姿は、人間のままだ。そしてその横顔は、この世のものとは思えないほどに美しく映った。

 本当は、なのではないだろうか。それとも月からの御使いか。

 少し憂いを感じる表情で、月明かりを受けて輝く瞳を空に向けて。何だか――泣きそうに、見えた。

「かず、おみ……?」

「? どうしました、音恒様?」

 振り返った和臣の表情は、いつも通りだった。見間違いだろうか。見入ってしまって、彼の手が動いたことに気付かず。頬に触れた手の冷たさに、音恒はぴくりと肩を震わせる。

「赤くなりませんね。良かった、月光は大丈夫そう」

 かゆみもない、ぶつぶつも出ないし、腫れもしない。太陽だけがだめなのだろうか。今の和臣の言葉からは、今日月の下へ出たのはひとつの賭けだったとも取れる。だったら何故、せっかく引いた症状がまた出るかもしれない危険な賭けに出たのか。

 その問いは、次の彼の言葉ですぐに答えが見つかった。

「夜なら、外へ出られますね。今度からは夜の散歩もたまに入れましょうか」

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