10 ググ/屋台に黒にオレンジの

 ググに抱きつきながら泣いていたキリだったが、やがて静かになったので覗きこんでみると、いつのまにかキリはググの腕の中で寝ていた。


 キリに布団をかけてベッドで寝かせ、その一方でググは床で寝ることにした。


 背中は、いまだにじんわりと痛む。

 一日の疲れを自覚したところで、ググはすぐに眠りについてしまった。



 眠りが深いものから浅いものへと徐々に変わっていき、気がつくとググは夢の中にいた。


 普段の夢とは違い、これは夢である、となぜかそのときのググは理解していた。


 自分よりも背が高い、黒いシャツを着た人物に手を引かれ、人混みの中を歩いている。

 彼は、ググの手をひいていないもう片方の手で煙草を吸っている。


 蒸し暑い空気と人混みの中で、煙草の先から灰色混じりの白い煙がふわりと生まれ、宙へ溶けていった。


 夢なのか。

 過去の記憶なのか。


 彼を見上げても、彼はググを見下ろすことなくただ前を見ているため、その表情はうかがえない。耳から顎筋にかけてが見えるのみだった。


 周りの景色はぼやけていてはっきりとどこなのかはわからないが、おそらく、屋台が並ぶ夜の町だ。


 気温が高く、暑い。


 買ってもらった苺の飴を未だに口にせず、ググは飴を持っていない方の手の甲で額ににじんできた汗を拭う。


「ソンググ」


 と、ただでさえ愛称でも呼びづらいのに、ググを愛称ではなくわざわざ呼びづらいその本名で呼ぶ彼。


 ググの知る限りでは自分を本名で呼ぶのは彼だけで、彼がいなくなった今では、誰も自分を本名では呼ばないし、名乗るときにも絶対にその名前は出さない。


「離れるなよ、絶対に」


 名付け親の彼は、まだ背が低く幼いググを見ず、ただ前を見据えて、そう言った。



   ■



 無意識に瞼が上がり、少し黄ばんだ見慣れた天井が視界に映る。


 十分に寝た心地がせず、気怠げに上体を起こし、目を擦り、ググは携帯端末を見た。


 アラームを何回分かセットしていたはずだが、すべて自分が寝ているうちに止めていたらしい。


 そして、ベッドで寝かせたはずだったのにも関わらずキリはなぜか床に降りてきていて、わざわざ布団も降ろしてきてそれにくるまり、ググの隣で安らかな寝息をたてている。


 随分と幸せそうに落ち着いた様子で眠っているキリを見ていると、自分も再び眠りに落ちてしまいそうだったが、それどころではない。


 大学の一限の講義に遅刻する。


 余裕がないので、いつもは洗面台の前に立って鏡を見ながら整えているが、この時に限っては鏡も見ず、その場で髪を手櫛で適当に整える。


 おぼつかない足取りで立ちあがり、上の服を着替えることは諦め、大慌てで下だけ履き替えていると、キリが目をこすりながら起きてきた。


「ググ……」

「おはよう」


 ジーンズを腰まで上げ、ベルトを締めながら、ググはキリに声をかけた。


 ふわあ、とおおきなあくびをして腕を天井へ上げて伸びをするキリを見て、


「ぼく、学校行ってくるから」

「……キリも……」


 布団に手をおろし、まだ寝ぼけた様子でキリが言う。そして布団を体に載せたままもぞもぞと動き、キリは両腕でググの脚にしがみついた。


「……キリも行く」


「だめ」脚からキリの腕を解除し、「ここで留守番してて」


「えー?」キリが不服そうにググを見上げる。


「ジョンファに一緒にいてくれるように、後で連絡してみるよ」


「じょんふぁ?」


 寝ぼけているのか、もう忘れているのか。


「昨日会った子だよ」


 ざっくり説明しながら、ググはベッドに置きっ放しになっていたリュックをひったくる。


 中にレポートなどの必要なものがすべて入っているのを確認し、それからキリを一瞥すると、やはりキリは不服なようで、唇を尖らせ、ジト目でググを見ている。


 目が合ったので、ググはすぐに口を開く。「すぐ帰ってくるから。お昼には戻るよ。一限で終わりなんだ」


「いーやーだー!」せっかく解除したのに、キリは喚きながらまたググの脚にしがみついた。


「だめだめ! 単位、大事なんだ」


「キリとたんい、どっちがだいじ?」


「…………」よく耳にするような台詞を言われ、ググは黙って天井を仰ぐ。


「ねー!」


「遅刻しちゃうから、もう出るよ! 早く帰ってくるから」


「クソ野郎!」


「……どこで覚えたんだそんな言葉」


「テト」


「そんな言葉遣う子は、もう屋台行けないね」


 どちらにせよ、キリがこんなことになっている以上もう堂々と屋台どころか外を出歩くことすらできなさそうだが、ググがそう言ってみると、キリは急に塩らしくなり、眉を下げる。


「えー? ごめんね、うそ」


 ググが早足で玄関に向かい、スニーカーを履いていると、キリはググの枕を抱きしめてついてくる。


「すぐ戻ってくるからね」


 ググになだめるようにそう言われるも、キリは返事をせず、今にも泣き出しそうな目でじっとググを見つめた。


 罪悪感があるが、仕方がない。


 ジョンファが入れるよう施錠はせず、ググはドアをゆっくりと閉めた。




 寝坊したのにも関わらず、この日は晴天だったこともありなんとなくググは気分がよかった。


 警察に見つかれば即刻注意されるようなスピードで、第二新釜山から第一新釜山を繋ぐ「新橋」をマウンテンバイクで駆け抜ける。


 小学生や中学生、高校生はもうとっくに登校している時間なのもあり、新橋には人が少なく、スピードを出しても比較的安全だった。


 大学の講義にも、バイトにも遅刻したことがないググにとっては、ここまで急いでこの新橋を渡ることは初めての経験だった。

 

 大学に到着し、駐輪場にマウンテンバイクを停め、しっかりとタイヤに施錠した。急いでいるので施錠すら面倒だったが、これが盗られてしまったら徒歩での移動は不便な為、施錠は必須だ。


 大学構内を走り抜け、この日の講義が行われる講義室へたどり着く。


 ドア前で生体認証の為に生徒たちが列を作っている為、なんとか遅刻は回避できたことを知る。


 息を切らしながら列に並び、ドア横にあるパネルに手のひらをかざし、ググも生体認証をパスし出席登録を完了させ、講義室へ入った。


 だいぶ広い講義室の中央らへんに、金髪の頭が目立つ。


 ググの数少ない友人のうちの一人、ジフンだ。


 丁度ジフンの隣が空いていたため、ググはそこに座り、リュックをデスクに置きながら「おはよう」と声をかけた。

 

「あ、ググ……」


 既に他の生徒たちも着席し始めている。

 携帯端末から顔を上げ、ジフンは浮かない調子で口を開いた。


「何かあった?」昨日キリに見せたレポートを取り出しながら、ググはジフンを見て言う。


「今朝のニュース見てないの……?」


 そう言ってジフンはデスクに突っ伏し、顔を下に向けたままそっと携帯端末の画面をググに見せる。


空中少女コンジュンソニョ・ソラ、NADS・テト 熱愛か、事務所は否定】


 ググがそれを手に取ると、ネットニュースの記事が目に入った。


「空中少女」とやらのソラというメンバーと、それからテトの写真が一枚ずつ横並びで掲載されていて、下にそんな見出しがある。


 NADSというグループ名とそのメンバーのテトという名前、そして顔は嫌でも覚えたが、ソラという人物は初めて見る。


 公演中の写真だろう。照明を浴びて更に白く見える肌。燃えるような赤い唇。

 何にも染まらない黒の長い髪はなびき、瞳はまるでキリのそれのように深い緑だった。


「はあ、おれ達のソラちゃん……いっぱい貢いだのに」


 ググは思わず目を丸くし、「そんなにファンだったの?」


「ググには内緒にしてたけど、サイン会も収録も何回も行ったし、プレゼントだってしたもん」


 落ち込むジフンの隣で、ググは、キリのことを思い浮かべる。


 これが本当だとしたら、テトにとってキリはただ単に妹かなにかなのだろうか?


「ひょっとしたら、わざと流されてるガセかもしれないよ」ググは端末をジフンに返し、「あの有能学園のニュースから注目逸らすためかもしれないし。それに事務所は否定してるんでしょ」


「いや。本当だと思う」無気力そうに、ジフンは端末を受け取った。「だってアイドル総出演の番組のとき、ソラ、テトのほうちらちら見てたから。まさか本当にそうだったなんて」


 いつもは講義に真剣に参加するジフンだったが、この日は完全に活力を失ったのか、珍しくそのまま寝てしまった。


 講義が開始してから数分経ち、ふと、ジョンファへの連絡を思い出す。


 こうしている間にもキリが何をしているかわからない上に何をしだすかもわからないので、すぐさまジョンファへチャットを送った。


『おはよう。もしよかったらなんだけど、鍵あけてあるから、うちでキリのことを見ていてくれない? 一人で留守番させるのは心配だけど、大学には連れてこられなくて』


 送ると、ジョンファは在宅での仕事なのか暇なのか、思いのほか二分ほどで返事がくる。


『今、家見ましたけど、キリちゃんいませんでしたよ。どっかいっちゃったのかな。


 ていうか、昨日大きな音がしましたけど、大丈夫でした?』


 キリがいなかった、という内容を見て、全身からさっと血の気が引いたのがわかった。


 もしキリがどこかに行っていたら。見つかったら。捕まったら。


 キリはどうなる? ぼくは?


 前方で教授がマイク越しに何かを説明しているも、まったくググの頭の中に入ってこない。


 探しにいったほうがいいか? どこを? 第二新釜山を? いや、もしそこから出ていたら――


「ググ」


 後ろで、自分を呼ぶ声がし、我に返った。


 振り返ると、キリがいた。


 昨日のググの服を着たままで、ググのサンダルを履いている。キリの足には大きく、大部分が余っている。ググと目が合ったキリは嬉しそうに笑い、ペタ、ペタと足音を鳴らしながらググの元に歩いてくる。

 

 当然、講義室の生徒の視線が一斉にキリに集まる。


 キリは、空いていたググの右隣の席に座った。


 講義室には、生体認証をパスしなければ入れない。その為、生徒はわざわざ並んでまでして生体認証をパスし、出席の登録をする。講義に登録されていない生徒が生体認証を行おうとしても、エラーが出て入室を拒否され、ドアから音声案内が鳴るはずだ。生体認証無しで入室しようとしても、同様にそうなる。

 

 とは言え、キリはすでに講義室の中にいる。


 唖然とキリを見るググに対して、一人でここに来られたことへの褒められ待ちなのか、キリは笑顔のままググを見つめる。


 キョロキョロと周りを見てからググは小声で、「留守番しててって言ったのに」


「やだ。さみしいでしょ」キリは声のボリュームを遠慮するということを知らないらしく、いつもの調子で答えた。


「気持ちはわかるけど……どうやって来たの?」


「おっきい車のった」大きさを表しているのか、キリは両手を広げる。「それのうしろ」


「おっきい車?」


「物がいっぱい乗ってたから、いっしょに、半分まで」


 恐らく、トラックか何かの荷台に勝手に乗ってきたらしかった。


「なんでぼくのいるところがわかったの?」


「わかるよ」


 胸に手を当て、キリがどこか誇らしげに言う。


 今こうしてここまでたどりついているということは、何はともあれキリは無事だということだ。


 安堵と、それからここに来させてしまったことの呆れから、ググは深くため息をつく。


「もうしかたないからいてもいいけど、そのかわり静かにしててね」


「わかった!」


 早速大きな声を出してキリが元気よく返事をしたため、ググは自分の口に指をあてて「静かに」と注意した。


 それから三十秒ほど、キリは正面の大きなモニターを見ていたが、やはり授業には興味がないようで、机に頭をのせて呻きはじめた。ググはキリの肩をやさしく数回たたいてなだめようとしたが、ググのほうに顔を向けて苦しそうな表情をする。


「つまんない」


「あと一時間くらいあるよ」


「それって、どのくらい?」


「長い」


「かえろーよー」


 腕を揺らされ、どうしようか困っていると、うるさかったのか、「おい」と後ろの生徒に声をかけられる。「子守りならヨソでやってくれよ」


「……ごめん」

 

 キリではなくググが怒られるので、まさに騒ぐ子供の子守をする保護者になった気分だった。


 キリが静かになる気配もなく、むしろキリは他人に注意されたことについて理解している様子もない。仕方ないので、寝たままのジフンの横でググは荷物をさっさとまとめた。


「出よう」


 キリの手を引き、立ち上がる。

 嬉しそうにキリは「やったあ」と漏らして、ググと講義室を出た。



   ■



 校舎から出て、中庭を通る。


 庭が珍しいのか、キリはググよりも数歩先を歩き、周りをキョロキョロと見渡しながら、たまにしゃがみこんで地面に落ちている何かを観察したりする。


 中庭の中央に設置されている噴水までたどり着くと、キリは噴水へと一目散に駆け出して、綺麗とは言い難いその噴水に手をつっこむ。


 手を水の中へ泳がせるキリをぼんやりと見ながら、ググは両手をジーンズのポケットへ突っ込んだ。


 これで、よかったのか。

 これからどうなるのか、予想もつかないのに。


 こう思うのは何度目かわからない。

 が、いまこんなことを考えてももう遅いことは、十分わかっている。


「ググ、これお風呂?」


 屈託のない笑顔でキリが振り返りググにそう聞いたが、すっかり思考の中に入り込んでいたググは、すぐには答えられなかった。


 ハッとしてキリのほうへ歩き、「違うよ」とキリの手を引き、噴水から離す。


 キリはきょとんとして首を傾げ、


「ググ、怒ってる?」


「ううん。怒ってはないよ」


「せなか、いたい?」


「もう大丈夫だよ」


 噴水に浸していた濡れたままの手で、キリがググの頬に触れる。


 キリの親指の腹が、左頬の傷跡に触れたのがわかった。


「ごめん」


 ぼそりと、キリが言い、手を下ろした。


「きれいになったね」


 言われ、一瞬なんのことかわからなかったが、ググが噴水を見ると、それまでずっと澱んでいた水が透き通り、太陽の光を受けて水晶のように輝き、水流もそれまでより美しく見えた。


 水面を覗き込むと、鏡のようになったそれに自分の顔が映る。


 石を投げつけられたあの時からずっと、自分の左頬に刻み込まれていた、小さな傷跡が無くなっているのに気がついた。


「キリ」噴水のヘリに座っているキリに、ググが声をかける。「キリがやったの?」


 キリは微笑んで、答えない。

 ググを見上げて、キリがそっと片手を差し出す。


 ググは、躊躇いなくその手をとり、キリは立ち上がった。



   ■



 本当はこのままさっさと帰りたかったが、キリが来たがっていたので、帰宅ついでに第一釜山の屋台が並ぶ通りを歩いていくことにした。


 リュックにちょうど自分の黒のキャップが入っていたので、念のためそれをキリに被らせ、マウンテンバイクを押して歩く。


 平日の昼間とは言え、人が多い。地元の人間は少なく、大体は海外からの観光客で賑わっており、自転車をギリギリ通らせられるくらいの人混みだった。すぐ隣を、屋台の料理を手にした観光客達が横切っていく。


 白くて、赤くて、黄色い。

 チーズトッポギの屋台を発見した。


「キリが食べたいのあったよ」ググは屋台を指差し、キリを見た。


「食べる」


 キリがそう言ったので、マウンテンバイクのハンドルを手にしたまま列に並ぶ。


 支払いを済ませ、商品を受け取り再びキリに声をかけようとすると、すでにキリが近くにいない。


「……もー……」


 思わずぼやき、俯いて大きなため息をする。

 すぐに頭を上げ、あたりを見渡していると、


「すみません」


 横からカタコトで声をかけられた。


 反射的に「はい?」と返事をし、声のした方を見ると、そこにはおそらく日本からであろう観光客の若い女がいて、ググのことを見上げていた。隣に立っている同じく若い女は、連れのようだった。


「あの、もし良かったら」


 声をかけてきた彼女がなにかを言おうとしたが、


「ググ、あっち」


 キリがどこからか戻ってきて、ググの腕を掴んだ。


 声をかけた彼女はキリを見た瞬間「あっ」と声を漏らし、二人揃って申し訳なさそうにすぐに踵を返し去っていく。


「ちょっと、もう勝手にあちこち歩き回らないでよ」


 戻ってきたキリの手を握り、少し怒っているような顔を作ってみてそう言うと、キリは「なんで?」と言うだけで、自分がどれだけ大きなことから逃げてきたのか未だにわかっていない様子だった。


「さっきのはともだち?」


「いや。さっきのは知らないひとだよ。友達は全然いないし」


 近くにあったベンチがちょうど二人分は空いていたので、マウンテンバイクを近くに停め、キリをベンチに座らせた。


 チーズトッポキの乗った皿と箸をキリに渡すと、良々鶏で見た例の食べづらそうな箸の持ち方でそれを食べ始める。


 料理を食べながら、キリが口を開く。「キリは友達いるよ」


 横に座ろうとしていたが、立ったままググは聞いた。「だれ?」


「テトとググ」


 キリの言う「友達」の中に自分が含まれていることに少し安堵し、


「テトは友達なの?」


「うん? うん」


「他には?」


「いなーい」


 それから、あんなに嫌がっていたのにキリも食べてみたいと言うので、スンデも買うことにした。


 ベンチの近くに出店があるにしても少しでも目を離すとキリはどこかに行ってしまう可能性があるので、絶対にここから離れるなという厳重注意の上、並びつつもなるべくはキリを凝視することにした。


 食べている間は大人しく、黙々とキリは食事を続けている。食べるのが遅く、咀嚼に時間がかかっているようで、体はじっとさせながらも頰をもごもごと動かせているキリを見ながら、いいぞもっと時間をかけろ、とググは念を送る。


 と、スンデの店主が申し訳なさそうに、だがどこか呆れたような口調でググの前に並んでいた二人組に声をかけた。


「あー、ごめんね兄ちゃんたち。電子決済以外やってないんだよ」


 熟れた蜜柑のようなオレンジ色の髪の少年と、カラスのような黒髪の少年――少女だろうか――は店主にそう告げられ、愕然とする。


 ふたりともラフな格好をしているが、頬や四肢、ところどころに煤がついていたり服が少し破れていたり穴があいていたりと、まるでどこかで火事に巻き込まれたかのようないでたちで、つっ立っている。


 オレンジ髪の少年が、フィルム貨幣を突き返され、厚めの唇の口をポカンと開けた後に、声を出した。


「はあ!? 釜山のくせに」


「ひょっとして、まだフィルムやってるの、済州チェジュだけ?」黒髪の少女も、続いて声を上げた。少年と言うには高い声だったので、少女で間違いないだろう。


「まじかよ、腹減ったのに……」


 脱力したように、少年は両肩を落とす。

 そして、少女の肩に手を載せ、「行くぞ、タル」と低い声でぼそりと言った。


 大人しく去ろうとした二人だったが、その後にググが言ったセリフによって、二人の足が止まる。


「ぼくがかわりに払います」


 二人が突然のことに目を丸くしている間に、店主が差し出したパッドに指を載せて、ググは自分の会計も含め、彼らの会計も済ませた。


 近くのベンチに座っていたキリはその様子を見ていたのか、足をぶらつかせながら、箸を握ったまま大きめの声でググに声をかけた。


「ともだち?」


 ググは首を振って、「いいや、知らないけど、なんかかわいそうだから……」


 店主に渡された料理を、はい、と少年に渡す。


 それから自分たちの分も持ったググがキリのいる近くのベンチに移動すると、彼らもついてきて、少年の方が口を開いて、頭を軽く下げた。


「あの、ありがとうございました」少年はフィルム貨幣をググに見せながら、「返したいけど、これしか持ってないんです」


 ググは手を振って、


「いいよ、大丈夫。それに、なにかあったんでしょ?」


「じつは、ここにくる途中ちょっと事故っちゃって。なあ、タル」


「う、うん」


 黒髪のショートヘアの少女が、少年の背中の後ろにそっと隠れた。


「おれたち、そもそも口座も持ってなくて。済州はまだ貨幣使えるから……こっちもそうなのかと」


 それから、いただきまーす、と言って、少年と少女の二人はキリとググの横に座り、スンデに手を付け始めた。


「うめー!」


 少年が満足そうに食べるのを一瞥し、ググはキリにスンデを渡す。


 やはり食べたことがないようで、キリはスンデの皿を顔に近づけて、寄り目になるほどじっと見つめる。ぱちぱちと瞬きをしてから今度は匂いを嗅ぐが、独特な匂いにキリは顔をしかめた。


 ゆっくりとスンデに口をつけ始めるキリを見ながら、オレンジの少年がググに声をかけた。


「彼女ですか?」


 苦手なのは匂いだけだったようで、スンデを食べることには苦労せず、もぐもぐと頬を動かすキリが少年の言葉をきいて首を傾げる。


 ググは頭を振り、


「いや、彼女じゃなくて妹だよ」


「……じつはおれたち、人を探してて」


 ググの答えに対し噛み合っていないような返事をしながら、少年がキリをじっと見つめた。少年と同じように、少女もスンデを咀嚼しながら上体を傾けてキリを見る。

 

 一斉に二人の視線を浴びたので、さすがにキリも変に思ったのか、食べながらソルを見返す。


「なに?」口が開き、咀嚼されきったスンデが姿を覗かせた。


 キリの口の周りにスンデの一部がついてるのを、ググが手持ちのティッシュで拭く。


 拭きながらも、ググの手は震えそうになる。


 人を探しているって、まさか。

 キリのことだったら。


「いや……違うか」ググが何を言おうか迷っていると、少年が溜息をつく。「こんなバカそうなはずが……」


「バカだとー?」


 バカ、という単語に反応し、キリが頬を膨らませ、食べながら立ち上がる。力の弱い手から、割り箸が一本ポロリと落ちた。


 ググはキリの服を掴み、


「探してるって、どんな子を?」


 ググの問いに、少女が答える。「黒い髪で、パジャマらしいんです。けど、他の特徴きかないまま出てきちゃったから……たしかに、妹さんは髪が黒いけど……髪が黒い子なんて、たくさんいるし。ボクだって、髪は黒いし……」


 黒髪。

 パジャマ。


 動揺が伝わらぬよう、ググもスンデを口の中へ放り込んだ。


「ああ、ニュースの子?」


「もうニュースになってるんですか?」少女が目を丸くし、「じゃあ、そうだと思います」


「そうしたら、この子は人違いだよ」ググは、そっとキリを隣に座らせる。「ぼくとずっと暮らしてて、あの日も一緒にいたから」


「そっか……」少女は俯いて自分の皿を見て、それから少年の方を見る。「ソル。この子じゃなさそうだよ。もっと探さなきゃ……」


 ソル、と呼ばれた少年はそれでもキリのことを見つめた。

 彼の髪と同じ色の橙の瞳と、キリの深い緑色の瞳の視線が混じり合う。

 キリは、なぜ見つめられているのかもわからない様子で、ぱちぱちと瞬きをし、黒い睫毛が鳥の翼のように動く。


 ――違うか。


 うわ言のようにソルは言い、


「よっと」


 立ち上がった。


「じゃ、おれたち、行きます。ごちそうさまでした」


 箸が載っているだけですっかり空になった料理の皿を持ち、少年と少女はググに軽く頭を下げた。


「ああ。気をつけて」


 言って、ググは二人を見送る。


「ばいばい!」


 キリが大きな声を出し、二人の背中に向けて手を振った。


 二人の姿が完全に見えなくなったとのろで、ググは、キリの被るキャップのつばをぐっと下におろした。

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