3 テト/危機、転機

 それからお互いそのまま眠ってしまっていたらしく、目がさめると、窓のカーテンの隙間から黄色い光が差し込んでいて、朝になっていることがわかった。

 つけたままにしていた腕時計の小型モニターを見ると、午前六時だった。丁度起きなくてはいけないような時間だ。


「キリ」


 布団にもぐりっぱなしのキリに声をかけるも、彼女からの返事はない。そっと布団をめくると、化石のようにまるまって寝息をたてるキリがいた。


 白い頰を人差し指で何度かつつくと、「うう」と声をあげたものの、キリは起きる気配もなかった。


 無理に起こすのもかわいそうなので、自分だけ一足先に朝を迎えることにする。

 部屋のシャワーを拝借して身支度を終えたあと、床に放り出されていた小型のパネルがあったので、テトはそれを広い、テーブルの上で放置されていたペンも拾い上げて、直筆でキリへメモを残す。


『ごめんね きょうはもういくから あしたじゃなくてきょうだったら夜はあいてるから また来るね』


 本当はもっと書き込みたかったものの、キリは長い文章が読めないのに加えて、難しい単語なども知らない上にまだ読めない文字もあるのでこうするしかなかった。ボイスメッセージでもよかったが、それだとなんとなく気恥ずかしいし、文字を覚えたがるキリにはメモのほうが喜ばれる。


 テトは、パネルをキリの枕元にそっと置いた。


 そのときキリの目がほんの少しだけ開いたものの、すぐに瞼は降ろされて、安心したような表情でキリはまた眠りへと落ちた。


 施設前には、いつも通りモリの車がとまっていた。さすがにこんなに朝早くから自分をつけてくる人間はおらず、いつもの帰り際のように車を見つけ次第すぐに駆け込む、なんて必要はない。テトはゆっくり車に乗り込んだ。


 モリはもちろん、この後テトがどこに行き何をするのかを把握している。乗り込んで早々、「寝る」とだけ言ってそのあとすぐに下を向いたテトに「はい」とだけ言って、それ以上は何も彼に声をかけなかった。


 この後は、他のメンバーも一緒に撮影だった。市内に新しくできる百貨店のイメージモデルに起用されたので、百貨店に使用される広告のための撮影だ。


 スタジオについても、眠りが浅かったのかまだ頭がぼんやりとしていて、すでに到着しているメイク前の他メンバーが宙に浮かせられている無数の衣装の確認をしている様子は、まるで夢のように思えた。朝っぱらからたくさんの色を見させられる気にもならなかったので、モリに声をかけ、テトだけはメイクルームへ直行することにした。


 モリが開けたドアの部屋に入ると、部屋の中央で立って待機している女性が一人だけいた。


「さて、そろそろ起きましたか」


 テトも部屋に入ったことを確認して、モリがドアを閉めつつ声をかけてくる。


「テトに紹介。新しいメイクさんの、ジョンファさんです」


「はじめまして」


 ジョンファ、と紹介された彼女は、テトに微笑むことすらなく、無表情のまま頭を下げて挨拶をした。再び頭が上がったころに、数秒、テトと彼女の視線が合う。表情こそ変わりなかったが、気まずかったのか、彼女は目線をそらして掛けていた丸眼鏡をクイッと持ち上げた。


「よろしく」


 一応、よそ行きの笑顔を作ってそう言ったが、年齢も確認せずにテトがタメ口で声をかけたことが気に食わなかったのか、ジョンファの目尻がぴくりと反応する。

 それを察したモリが慌てて間に入ってきて、


「もう、ダメですってば、テト」テトの両肩を掴みジョンファから距離を離し、ジョンファにも声をかける。「ごめんなさいね。馴れ馴れしいのはダメだって、いつも教えてるんですけど」


「いえ、別に……」


「さ、テト座って、さっさとメイクしてもらって、衣装選んできてください」


 両肩を掴まれたままモリに椅子に座らされ、テトはされるがままの状態になった。


「ジョンファさんはいま、動画サイトでもすっごく有名な人なんですよ。いつも起用しているメイクさんのお墨付きというかお弟子さんみたいな人で、そのいつものメイクさんが是非ジョンファさんにテトのメイクを担当させてみたいってことで、今回お仕事依頼させていただくことになったんです。お若いのもあって、センスもすごくよくて。オシャレなメイクからキレイ目なのとか、自然なメイクまで、なんでもできちゃうんです、よね? ぼくもよく動画見てるんですよ。メイクされるひとが、見違えるように変わったり、素材いかしたまま綺麗になったり……」


 モリ一人が必死なせいで、部屋の空気は異様だった。


「じゃ、ジョンファさん、テトのことよろしく頼みますね。僕は他の子たち見てきますんで」


 片手をあげて、モリは部屋から出て行った。

 それからジョンファは何も言わず、テトの前髪を二つのピンでとめ始める。


「僕のこと嫌い?」


 なにげなく、しかし唐突にテトがジョンファに声をかけると、ジョンファの動作がピタリととまった。が、すぐに卓上に並べられた化粧品の一つを手にとって、「どうして?」と返事をする。


「だって、入ってきたときから、嫌そうな顔してたから。もともと嫌いなんでしょ? 僕が馴れ馴れしい態度とったからとか、そういうの関係なしに」


「嫌いだったら、なんなんですか?」


 テトの肌の粗を下地がカバーしていき、艶が生まれる。ここ最近寝不足のせいか、少し肌荒れしてしまっていた。


「別に、嫌われててもいいんだけど、ただ珍しいなと思って」


 ジョンファは返事をせず、ただテトの顔に筆を滑らせていく。


「だって、みんな無条件に好きじゃん、僕のこと」


「殴っていいですか?」


「だから嫌われる理由が知りたくて」


「……だったら、逆に、自分がなんで好かれてるかっていうのは知ってるんですか?」


 あくまでも作業は進行させつつ、ジョンファがため息まじりにテトにきく。


「まず、顔がよくて」即答だった。「それから、外面だとしても、愛嬌があるし、歌もダンスも上手だし、やさしいし、頭もいいし、かっこよくて、オシャレで、あと『有能』で、完璧だから」


「だからですよ。だから、わたしはあなたのことが、あなたみたいな人たちのことが、嫌いなんです」


「それ」思わずテトは顔をしかめ、「ただの嫉妬じゃん」


「そうですよ。ただの嫉妬なんですよ。例えば、顔がいいのも。でもそれって、自分で手にしたものなんですか? その『有能』も」


「もともとの物で、自分で頑張って手に入れたものじゃないけど、自分の物なんだから誇らしいよ」


「だったら、頑張ってもそういうのを手に入れられないひとたちは、どうすればいいんですか。しかたのないことを非難されるひとたちのこと、考えたことあるんですか」


「顔のこと? きみは他の人の顔の嫉妬する必要がないほど、じゅうぶん綺麗な顔してるよ」


「わたしが一番気にしてるのは、顔じゃなくて、有能か、無能かです」


 ベースメイクが終わり、次はアイメイクに入るはずだったが、ジョンファの手はとまっていた。


「気づかなかったですか。わたしが『有能』だったら、このベースメイクだってもうとっくに終わってましたよ。手が二つしかなくても、他の作業ができていたから」


「眠かったのもあるけど」テトは肩をすくめる。「そこは気にしてなかったな。言われてみれば、ってかんじ。それに無能だとしても、評価されたからここまでこれたんでしょ? なら、いいじゃん。たしかにスタイリストさんもメイクさんもうちで雇うのはほとんど有能だよ。それなのにここにいるってすごいことでしょ。何が不満なの?」


「あなたは石頭の立場になったことないから、そんなこと言えるんですよ」


「不毛だよ、正直、この話は。僕のことっていうか、僕たちのことが嫌いなのは、じゅうぶんわかったよ。だから仲良くしようとは言わないけど、わざわざこんな険悪になる必要もないだろ、僕たちいま仕事しにきてるんだよ」


「それはあなたが、嫌われる理由が知りたいって言ったから」


「それはそうだけど、まさか有能無能の話かと思わなかったし、君がただの差別主義者ってだけの話じゃないと思ってたから」


「差別主義者って……」


「その通りでしょ。僕のこと有能って知ってて、それだけで最初から嫌ってたんなら、それってただの差別だよ。自分のこと棚にあげるけど、僕ははじめから有能か無能かってだけで人のこと嫌ったり、煙たがったことはないな。自分の周りが自分と同じような人間ばっかりのところで育ってきたからかもしれないけど。きみが僕のこと見てきた上でなにか別に理由があったかもしれないと思ってきいたんだ、参考にしようと思って」


 ジョンファはなにも答えず、パレットを手にとってテトの瞼へ色をつけようとしたが、手は進まなかった。彼女も彼女なりになにか思うことがあったのか、子供のように口を尖らせてしかめっ面をしているテトを見かねて、やっと口を開く。


「……ごめんなさい」


「もう、いいよ……なんか僕も熱くなっちゃって……もう、口喧嘩やめよう。で、その色好きじゃないから、そこのバッグから僕のポーチとってくれる? 自分のアイシャドウ使いたい」


「ええ?」ジョンファは素っ頓狂な声をあげて、肩を落とした。「人がせっかくなにがベストか考えてきてこれなのに、この色じゃだめっていうんですか?」


「僕、オレンジブラウンのほうが好きだし、そのほうが似合うと思ってるんだよね。なんでも似合うのは、わかってるんだけど」


 ジョンファのアイシャドウ用の細筆を持つ手に、さっきよりもぎゅっと力が込められる。


「いま、殴りたいと思った? 僕のこと」


「そうですね。しかも、嫌いであるれっきとした理由がわかりました」


 言いつつも、彼女はテトのバッグに向かって歩き、 バッグを開ける。


「なに?」


「わがままなところです」


「それよく言われるけど、そこが好きって人ばっかりだったから、嫌われる要因になるってことには気づいてなかったよ。ありがとう」


「あれ、これなんですか?」


 テトの発言はまるっきり無視して、テトのバッグでなにかを見つけたのかジョンファがこれまでとは違う高い声をあげた。おそらく、それは素での声だった。


 ジョンファがなにを見つけたのか見たわけではないがなんとなく予想はついたのでテトは振り返らずに自分の前髪に触れつつ返事をする。「ああ、それ、手紙だよ」


「紙? 珍しいですね。ファンレターか何かですか」


「その通り。恥ずかしいから、あんまり見ないで」


「あ、ごめんなさい……」


 お目当のテトのアイシャドウだけを取って戻ってきたジョンファは作業を進め始める。


「ファンレターなんて、とっておくひとだったんですね……」


「そんな一面があるだなんて、好きと思った?」


「いや別に」


「あ、そう」


 テトの瞼に、目立ちすぎないブラウンのグラデーションが広げられていく。


「僕がデビューしてはじめてもらったファンレターがそれなんだ。手紙でも絵でもなんでも、書きたいものはスクリーンフィルムに書くのがいまの普通だけど、旧世の頃は『紙』に書くのが普通だったんだ。そういう旧世の文化を好むマニアックなひとが新世にもまだいて、僕もそのひとり。紙に描かれた絵が好きだし、紙の本が好き。紙の手紙が好き。それを知ってその子は紙でファンレターをくれたんだよね。はじめてもらったっていうのもあって、ずっと持ち歩いてる」


「紙なんて、はじめてみました」


「だろうね。僕は紙が好きだけど、その僕でさえもうなかなか見ないから」


 それからは、テトとジョンファの間にはとくに会話という会話がなかったものの、はじめの嫌な空気感はすっかり消えていた。

 顔へのメイクもヘアメイクも終了したあとに、ジョンファがぽつりとつぶやく。


「その子はいま、どうしてるんでしょうかね」


 唐突なつぶやきだったので、気の抜けていたテトは思わず「え?」と聞き返した。


「その、ファンレターの子ですよ。いまもテトさんのファンなんですかね?」


「それは、そうだよ。僕もその子のことが好きだから、時間があれば一緒にいる」


「ええ? 相手、ファンの子なのに?」


「だから、秘密だよ」


 立ち上がってウインクをすると、ジョンファが吐き出す真似をする。


「なんでだよ」と、テトはジョンファの頭に細筆をコツンと落とした。



 メイクが終わってからは、衣装選びだった。メイクを先にした自分とは逆で、衣装を先に決定した他メンバーは自分と入れ替わるような形でメイクルームへと向かっていった。


 自分のことを好んではいないということを知っていても、何か落ち着くものがあったので、例の『ワガママ』を行使して、ジョンファを衣装選びに付き合わせることにした。自分はスタイリストではないし、他にスタイリストがいるので、とジョンファは一度はテトの要望を断ったものの、仕事である上にテトほどの立場の人間の言うことをきかないわけにもいかず、嫌な顔はしつつも仕方なしに傍にいることにした。


 スタイリストによって、高価なブランドものの服が円を描くように浮かび、並べられているので、その中央に入って、いくつか好きなものをピックアップしなければならない。


「今回は、高級百貨店のイメージモデルということで、なるべく目立つような高貴なカラーの衣装なのですが」


 スタイリストが遠慮がちにそう言う。並べられているのは、寒色の衣装が多かった。


「僕、青系あんまり好きじゃないんだけどな……」


「ちょっと」ジョンファがすぐに声をあげた。「スタイリストさんがテトさんに合うものを今回のコンセプトを踏まえてせっかく考えてくれたんですよ。それに、他のメンバーさんの衣装の兼ね合いもあります。さっきすれ違った他メンバーさん見たでしょ。今回は暗めの青で揃えるんですよ。だからアイメイクも本当はグレーっぽくしたかったのに」


「青かあ」


「青といえば、高貴な色でしょう?」不満そうなテトに対してスタイリストがなにも言えなくなってしまっているので、かわりにジョンファがフォローに入る。「その暗めのラピスラズリみたいな色のハイネックのセーターなんかどうですか? テトさんがよく着てるブランドのものですよ」


「詳しいな、僕のこと……」


 ジョンファが咳払いをする。


「今回、あなたのメイクをするにあたって、今までの写真とかをチェックしただけです。ところで、ラピスラズリカラーって、すてきじゃないですか? ほら、ラピスラズリの石言葉は、『尊厳』、『崇高』。まさにテトさんにぴったり」


「言わせてるみたいで恥ずかしくなってきたけど、だったらもう一発目はこれにしようかな。これで映りが微妙だったら、また別のテイクで変えればいいし」


「そうそう。じゃ、ほら、着替えて」


 セーターのほかにジャケットなども渡されて、ジョンファに背中を押されて更衣室に入れられる。

 すぐに着替えを済ませてまたスタジオに出てくると、スタイリストが自分に声をかけるよりも先に、モリがバタバタと走ってきて、自分に声をかけてきた。

 顔は真っ青で、目は開ききっている。


「テト」


「どうした?」


 モリのこんな表情を見るのは、初めてだった。テトに何て伝えたらいいのか困惑している様子で、テトが声をかけても、言葉を選んでいるのかなにも言わずにただただテトの顔を見続ける。とにかく、ふざけている場合でもなく、緊急事態であることは察したが、なんなのかは見当もつかない。


 また女関連ですっぱ抜かれたとか? いや、そんなことであれば、モリはまたいつものようにただ呆れて文句を垂れるくらいだ。こんな困ったような顔はしない。


 モリはようやく口を開いたが、その第一声はテトに向けてのものではなく、スタジオ全員にいる人間への声がけだった。


「皆さん、撮影は中止です。とにかく、大変なことになりました。メンバーは今すぐ、別のところへ移動させます。しばらくしたら、事務所から今回の件について報告や謝罪があると思います。今この状況では皆さんに詳細をお伝えすることはできず恐縮ですが、その後の連絡をお待ちください」


 モリを罵る者は誰一人とていなかったものの、急に仕事が中断させられるので、当然スタジオ内はざわつくことになった。


「モリ、なにがあった?」


「他のメンバーはぼくが車で一旦別のところに送ることになりました」


「答えになってないって……それに、他のメンバーって? じゃあ、僕は?」


「ごめん、テト。詳しいことは言えなくて。ただ、テトはドウォンさんに呼ばれてます。今すぐ事務所に来いと。ぼくはテトのことを送りにいけないんです、他のメンバーを送れと言われていて……」


 ドウォンというのは、テトの「父」の名前だ。女関連で騒ぎになったときに父に呼び出されたことはあったが、モリの様子からするにそれ以外のよっぽどのことが原因であることは間違いない。ただ、自分がなにかやらかした上でこの状況にしろ、テトの記憶上では自分がやらかしたことは一切ない。記憶にないならば、酔ったうちに大物の芸能人と寝て、相手が妊娠してしまった、とか。いや、酒を飲んで大変なことになってからは父にしこたま叱られたので、直近では酒など飲んでもいない。


「事務所戻るったって、どうやって戻ればいいのさ」


「タクシーを下に手配しました。お金ももう払ってあって行き先を伝えてあるので、それに乗ってください」


「モリ。僕だけ事務所戻すんなら、ちょっとでも説明して」


「テト」


 モリがテトの腕に触れた。


「……ぼくたちは、ここにいてよかった。でも、もう他の人は……あの施設も、もうダメかも」


「だめって? どういうこと? 核落とされたとかじゃないだろ、さすがに」


 笑ってみせようとするも、あまりのモリの落胆ぶりに、どうしても顔がひきつる。


「いいから、早く、行ってください。ドウォンさんが待ってます。気をつけて」


 モリがテトの腕から手を離す。

 モリは泣いてはいなかったが、目には涙が滲んでいた。

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