第53話 藍田の家

 藍田の家は、高級住宅街と称される地域に建つマンションの一室だった。

 車に揺られるのは辛かったらしく、藍田は無言で先生にお辞儀をしてフラフラとロビーへと入っていく。


「桐生君、藍田さんのこと頼むわね」

「はい」


 保健室の先生は俺の返事に頷くと、車を発進させた。車はあっという間に見えなくなり、俺は藍田を急いで追い掛ける。

 藍田の足取りは重く、追い付くのに数秒とかからない。藍田は俺に気づくと、ゆっくり口を開いた。


「……ごめんね、ついてきてもらって」

「いいよ。それよりしっかり前向きな、転ぶぞ」

「それなら手、貸して」


 差し出された手に一瞬逡巡したが、俺はその白い手を取った。肌の白さと裏腹に、その掌から伝わる体温はジンと熱い。藍田は少し口元を緩めると、再び前へ歩き出す。


「綺麗なマンションだな」


 辺りを見渡して、俺はそう呟いた。

 マンションのロビーには豪勢なソファが並び、雑誌が入った本棚まで設置されている。

 ロビーから見える中庭には噴水が上がっており、景色もいい。

 藍田は俺の呟きに暫し反応しなかったが、やがて静かな声で言った。


「そうだね」

「うん。羨ましい」

「私は見慣れちゃったから分かんないけど。確かに、綺麗なのかも」


 含みのある言い方に首を傾げたが、エレベーターが到着する音に意識を引き戻される。

 エレベーターの中は黒々としており、身を引き締められる。こうした高級感のある居処は慣れていない。

 そんな様子に気付いていないのか、藍田はエレベーターの表示をぼんやりと眺めている。9Fという文字と共に、エレベーターのドアが開いた。


「高いな」

「景色いいよ。桐生くんの家ももしかしたら見えるかも」

「まじで」


 しかし辺りを見渡すと、外の景色を眺められそうな場所は見当たらない。内廊下にはカーペットが敷かれており、適度な照明の明るさはまるでホテルのようだ。


「家に入ったら、ベランダから見えるから」


 藍田はそう言うと、内廊下を進んでいく。

 すると不意に側のドアがガチャリと音を立てた。出てきたのは上品な格好をした中年の女性で、藍田に気付くとニコリと微笑みをたたえる。


「あら、奏ちゃん」

「あ、こんにちは」


 藍田はぺこりと頭を下げる。俺もそれに倣い会釈した。


「学校は抜け出してきたのかしら?」

「いえ、そういうわけでは」

「こちらは?」


 女性が問うと、藍田は少し詰まった様子だった。

 その質問には、どこか好奇心が隠されているように感じる。

 普段の藍田ならそんな質問など難なく躱すに違いないが、今は体調を崩していてそれどころではないだろう。だからといって、俺が近所の人に自分は彼氏だと宣言するのは気が引ける。

 両親は居ないと言うが、マンションという環境の中では噂が回ることも想像に難くない。


 ──友達と言うのが無難だろう。


 だが、今日俺が藍田の家に付いてきたのは彼氏としてだ。

 先生にもそう言って許可を得たのだ。

 そのことが脳裏をよぎり、俺の伝えようとした言葉は空虚な息となって消えていった。


「友達です」


 少し時間をかけて、藍田がにこりと笑った。

 女性は微笑みを崩さないまま俺と藍田を交互に見つめ、「仲が良いわねえ」と言う。


「体調を崩してしまって。先生の指導で、学級委員を務めてるクラスメイトに様子を見るようにと」

「ふうん、そうなの」


 女性の表情は変わらなかったが、声色が沈んだ気がした。

 興味が失せたのだろうかと勘ぐってしまう。

 女性は俺に軽く会釈すると、少し気取った歩き方で去っていった。


「……なんて言うか、上品なご近所さんだな」

「上品なご近所さんは、会釈だけで挨拶を済ませるものよ」


 藍田は冷たく言い放って、再び歩き始める。マンションの近所付き合いも大変そうだなと嘆息していると、藍田は立ち止まった。

 鍵を差し込もうとする状況から、その部屋が藍田の家なのだと理解する。

 重厚な扉が、俺が今まで入ってきた家の中でトップクラスに格式の高いであろうことを窺わせた。


「どうぞ」

「いや、ごめん」


 扉を支えて、藍田を先に中へ入らせる。

 格式の高さに驚いて、病人に扉を支えさせるなんて情けない話だ。

 中へ入ると、細い廊下を進んだ先は広大なリビングだった。四人家族である俺のリビングの倍はあった。

 黒系統の色で統一されていることで、より一層高級感が醸し出されている。

 俺が口を開けていると、藍田は「これ、私の趣味じゃないから」と言った。


 一人暮らしでもない限り、それは当然のことだろう。だがリビングにはいくらか生活感が欠けていた。最低限の家具は揃っているが、雑貨や小物などがほとんど見当たらない。とても家族で住んでいる家だとは思えなかった。


「今日、親帰ってくるのか?」


 保健室ではそういう話になっていたはずだ。


「帰ってこないよ。薄々気付いてたでしょう」

「いや、今気付いたとこ」


 付き合ってはいても、俺は藍田のことをあまり知らない。藍田自身のことは、最近解ってきた。だが彼女を囲む環境を知ったのは今日が初めてだ。世間に当たり前に存在する、そんな家庭環境だと勝手に思っていたから知ろうとさえしてこなかった。

 藍田が今日俺を招き入れたのは、ひょっとすると自身を囲む環境を伝えるという目的でもあったのかもしれない。

 自宅のリビングに居るにも関わらず、無言で俯く藍田を見て俺はそう思う。


「飯作るわ」


 俺がキッチンへ行くと、藍田は顔を上げた。


「何も訊かないのね」

「こっちの方が優先度高いと思っただけ。寝室で休んでろよ、お粥できたら呼ぶから」

「……うん。お言葉に甘える」


 藍田は申し訳なさそうに笑うと、ソファから腰を上げた。

 寝室へと向かう姿を俺はぼーっと眺めていると、あることに気付いた。


「……あ。食材とか食器の位置とか全然分かんねえわ」


 俺が言うと、藍田も気付いていなかったようで目をパチクリとさせた。


「ほんとだ。簡単に説明しないと」


 戻ってくる彼女に、俺は苦笑いしてしまう。


「今日はお互い抜けてるね」


 紅みのかかった顔でクスリと笑う藍田は、俺の目にはどこか嫋やかに映った。

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