第37話 約束

 雲ひとつない晴天を見上げて、俺は中学時代の苦い思い出に耽っていた。

 熱でうなされた時に届いた一通のメール。

 あの時の俺はそのメールを見て少しばかり申し訳なくなり、そして次に腹が立った。


 俺がいない時に負けてんじゃねえよ、と。

 ベッドから起きたら、自分はもうバスケ部ではなくなっていて。

 試合結果を淡々と知らせるメールは、俺が三年間続けてきたバスケ部を、ベッドの上で引退したことを告げていたのだ。

 メールを呆然と眺め、携帯をベッドに投げたのも無理はないだろう。

 だが今思えば、体調管理ができなかった自分が一番悪いし、『裏切り者』と告げるメールに被害者ヅラなんてとてもじゃないができない。

 例え中学のバスケ部が好きじゃなくても、言動くらいは普通にしておくべきだったのだ。

 チームが好きじゃないから身勝手な我儘を通すなんて、子供の言い訳にもなりはしない。

 分かっている。

 そんなこと、今は分かっている。


「ひどい顔ね」


 すぐ隣から、聞き慣れた声がした。

 ずっと昔から聞き続けてきたその声は、中学時代を長い時間思い返していたせいで少し懐かしく感じてしまった。

 変な話だ。こいつがベンチで昼寝する三十分ちょっとの時間を、思い返すことに使っていただけだというのに。


「陽、聞いてんの? ていうかあんた、私日焼けするから五分で起こせって言ったわよね。時間、絶対過ぎてると思うんだけど」

「細かいな、少しくらい変わらねえって。つーかそもそも寝るな」

「仕方ないでしょ、昨日寝るの遅かったんだから」


 欠伸を噛み締める理奈は本当に寝不足のようだ。

 五分で起こして、といきなり猫公園のベンチに座って眠ってしまった時は目を疑った。


 今日は千堂高校との試合前日。

 日程の兼ね合いで日曜日が試合となり、今日は午前の練習だけだった。

 疲れを残さないように、と戸松先輩が口を酸っぱくして言っていたのを思い出す。

 隣のコートで練習していた女バスと同時に上がったため、理奈とは久しぶりの一緒の帰り。

 だが猫公園でジュースでも飲むか、と誘ったのが間違いだった。

 まさか昼寝に付き合わされる羽目になるとは。

 まあ、苦い思い出に浸ってボーッとしてた俺も悪いのだが。


「帰るぞ。腹減った」


 ベンチから重い腰を上げると、理奈が「えー」と気だるそうな声を上げた。


「ジュースはさっき飲んだろ。今からまだ暑くなってくるし、帰ろうぜ」

「まあ、それはそうなんだけど。分かったわよ、寝起きが辛いなんて言ってたら置いてかれそうだし」


 理奈もよっこいせと腰を上げた。片手に空き缶を持って、ゴミ箱を探している。


「後ろにあるよ」


 理奈の後方五メートル付近にある、口の大きいゴミ箱を指差す。

 ゴミ箱の金網は錆びていて、ひと気のない猫公園にあることでどこか哀愁が漂っていた。

 隣で理奈がシュートの構えを見せる。

 何をするのかは容易に想像がついた。


「よっ」


 カラン、と小気味良い音が辺りに響く。

 投げられた空き缶は危なげなくゴミ箱に入り、理奈は満足気に鼻を鳴らした。


「空き缶放る時までシュートかよ」

「普通に投げるより入るもの……って言おうとしたけどそれはないわね。まぁいいのよ、入ったんだし」

「んじゃ俺も」


 理奈に続こうと缶を投げた。

 投げる瞬間、缶が少しばかり重いことに気付くがもう遅かった。


「うおおおおおお!?」

「きゃあああああ!?」


 中身を飛び散らせながら飛んでいく缶に、俺たちは悲鳴を上げた。


 ◇◆


「服も髪もべっとべと……なんでよりにもよってオレンジジュースなのよ……」


 自宅前で理奈がげんなりとして文句を言った。


「ごめんごめん、クリーニング代かかるようなら言ってくれ」

「洗濯したら取れるからいいけど。……でもその代わり、そうね。罰ゲームでもしてもらおうかしら」

「じゃあ、また学校でな」

「えぇ、また……ってこら逃げるな! いいじゃないそれくらい!」


 首根っこを掴まれて、玄関までもう少しのところで連れ戻される。


「よくねえって、俺明日試合なの。怪我でもさせられたらシャレになんない」

「馬鹿ね、そんなの分かってるわよ。随分前に、私あんたにカレー作ってあげたじゃない? そのお返しに私も陽に何か食べさせてほしいなって」

「えー、料理か」


 作れないこともない。料理ができる女子には完敗だろうが、まあ高校生の男子にしてはそこそこできる方なのではないだろうか。


「何よ、嫌なの」

「……人に食わせるほど美味くないからなあ」


 それに正直面倒だ。家に帰れば母さんが買い置きしているご飯があるだろうし、わざわざ手間がかかる料理をする気にはなれない。

 言い淀んでいると理奈は少し残念な顔をして、

「そうね、明日大事な試合だし。ごめん、忘れて!」

 と両手を合わせて笑った。

 だがその笑顔がどこか寂しそうで、心が痛んだ。


 理奈には世話になっている。心配もかけている。

 又東高との試合で怪我をした時。退場する時に聞こえた声は、確かに理奈のものだった。

 俺はわざわざ確認しないし、理奈から言ってくることもない。あの試合の話を理奈にした時も、理奈は会場に居たことすら俺に言わなかったのだから。

 藍田と付き合ってからしばらく経つ。

 休日にこうして一緒にいる数も極端に少なくなった。

 そんな理奈が、俺にわがままを言っている。

 ……俺がかけている心配と比べて、なんて小さなわがままなんだろう。


「分かったよ」


 それくらいで少しでも借りを返せるなら楽なものだ。

 早く休みたい気持ちも残ってはいるが、今はこの幼馴染への礼もかねて昼飯を作ろう。

 ない腕によりをかけてやろうじゃないか。


「ちょい待ち」


 そこまで意気込むと、理奈に止められた。


「どうしたんだよ、家上がらないのか?」

「陽、ほんとにいいの? 今絶対疲れるけど仕方ないか、みたいな顔してた」

「……そんなことないぞ」

「はいダウト。いいわよ、ほんとに思いつきだったし」


 理奈はあっけらかんと言った。

 考えていたことをズバリと言い当てられて、否定するのが僅かに遅れてしまったことを誰が責められるだろう。

 この幼馴染は本当に、たまにこういうところがある。 久しぶりに理奈とは長い付き合いなんだということを実感した。


 幼馴染。

 本当にそれだけの理由で、理奈は俺のことをこんなにも見通すのだろうか。

 それとも、ただ俺が分かりやすいだけなのか。

 

「明日の試合が終わってから、改めて作ってもらうわ。まあ、お互い部活あるしいつになるか分からないけど」


 そう言うと、理奈は一瞬迷ったようだったが言葉を繋げた。


「……試合、応援しに行くから」

「え?」

「練習終わったら、応援しに行く。また途中からになっちゃうけど、観に行くからね。しっかりやりなさいよ」


 そう言うと、理奈は自分の家へと足を伸ばした。

 理奈の後ろ姿を眺めながら、俺の頭にはある一言が反芻している。

 また、とあいつは言った。

 やっぱり、あの時叫んでくれたのは。

 痛みで朦朧とした頭でも、声はしっかり届いていた。

 ……嬉しかった。


「……理奈!」

「えっ、なにどうしたの!?」

「試合に勝ったら、その日に飯作ってやる!」

「え、勝ったらってあんた、でも日曜日でお父さんとかいるだろうし、それにヘトヘトでしょ?」

「いや作る! 飛び切りまずい飯作ってやる、覚悟しとけ!」


 理奈はポカンと口を開けていたが、やがて吹き出した。


「プッ、アッハハ! なによそれ、もっとマシな宣言してよね!」


 お腹を抱えておかしそうに笑う理奈は、目尻に溜めた涙を拭いている。

 もうその表情に、先ほどまであった影は感じられなかった。


「……うん、楽しみにしてる」

「ああ、待ってろ」

「だから勝ちなさいよ。約束ね」

「約束だ」


 理奈はその言葉に頷くと、クルリと背を向け自宅へと帰っていった。

 あいつと口に出して約束したことなんて、もしかしたらこれだけ長い間一緒にいても初めてのことだったかもしれない。

 多少の気恥ずかしさはあれど、そこに後悔はない。

 千堂高校に勝つ。

 負けられない理由がまた増えた、それだけなのだから。

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