麻里奈

咲川音

麻里奈

 画家の父は毎年五月二十九日になると、アトリエで一夜を明かしていた。

 アトリエといっても庭の片隅にある掘っ建て小屋みたいなもので、鍵は父が管理していたから、そこは幼い僕にとって家の中で唯一の「未知」だった。

「お父さんはお仕事中だから、邪魔をしてはだめよ」

 母はそう言って、白魚のような手を僕の肩に乗せる。

 その界隈でそこそこ有名らしい父は、朝から晩まで絵を描いている忙しさだったが、息子から見ても両親の仲は良すぎるほどに良かった。

 「みやこ」と呼ぶ父の目は限りなく優しかったし、「一志かずしさん」と答える母ははにかみながら彼に寄り添って、僕は度々いたたまれない思いをしたものだ。

 そんな少女の余韻を残した美しい母は、アトリエを見つめる時だけ、寂しそうな顔をした。きっと、愛する人のただ一つ踏み込めない領域がそこだったのだろう。


 父は日曜日の夕方になると、ふらりとアトリエから帰ってきて「ちょっと散歩に行かないか」と僕を誘った。

 僕に合わせてゆったり歩く父と影法師を並べて、近所の本屋や商店街を巡る。たまに「お母さんには内緒な」と言いながらジュースやチョコレートを買ってもらえるのが楽しみだった。

 今思えば、忙しい合間を縫って息子との時間を作ってくれていたのだろう。

 そんな家族思いの父が、どういう訳か一年のうち一日だけは家に帰らず、アトリエに閉じこもるのだ。

「毎年この時期は忙しいのよね。きっと、なにか大切な締切があるんだわ」

 翌朝、帰宅するなりソファに倒れ込む父にブランケットをかけながら、母が苦笑するのも恒例行事だった。


 小学三年生か四年生の頃だったか、僕は偶然、父がアトリエの鍵をしまう場面に遭遇した。誰もいなくなったのを確認して書斎に忍びこむ。先程の父のように机の下にもぐってみれば、果たしてそれは奥のフックに引っ掛けられていた。

 無機質な鍵の、なんと魅力的に映ったことか。

 けれど今持ち出して見つかるわけにはいかない。僕は息を潜めて、両親が家を空けるタイミングを今か今かと待った。

 一週間が過ぎ二週間が過ぎ、あまりの焦らしに叫びだしそうになった頃、父の個展が開かれることになった。僕は咄嗟に仮病を装い、連れ立って出かける二人を見送ったのである。

 僕ははやる気持ちのまま鍵を持って庭に飛び出した。古典的な作りの錠はすぐにあいて、僕は重い扉に体重をかける。

 ギ、ギ、ギ、と軋みながら広がった光景に、思わずひっと息を呑んだ。

 壁一面に、ズラリと少女の絵が並べられている。全て同一人物のようだ。一番左端の赤ん坊に始まって、順に成長していっている。まるで年に一度の記念写真を眺めているようだ。

 そしてアトリエの中央、描きかけのキャンバスには、僕と同じ歳くらいの少女が微笑んでいた。

 僕は恐る恐る部屋に足を踏み入れる。

 紅潮した頬に、艶々とした黒い髪。涙の膜が張った大きな瞳が真っ直ぐに僕を見つめる。

 油絵のもったりした匂いの中で、僕は目を逸らせないまま小さく震え――それが「彼女」との出会いだった。


 それからの僕はこっそりと「彼女」のもとに通い続けた。

 まるで秘密基地を見つけたような気持ちで、僕は今日も扉を開ける。

 それから部屋の真ん中で膝を抱えながら、成長していく「彼女」をいつまでもいつまでも眺め続けた。

 おかしな話だが、僕は絵の中の少女に惹かれてやまなかった。それは取り憑かれたような想いだった。この歳で知るには、あまりにも早すぎる感情。

 「彼女」は一体、どこの誰なのだろう。この少女は父の作品として発表されていない。まるで誰の目にも触れないように閉じ込めているみたいだ。

 あまり考えたくないが、父にはそういう趣味があるのだろうか。いや、それにしてはあまりにも母を溺愛し過ぎている。

 もしかするとこの少女は、父の初恋の人ではなかろうか。

 最初に会った頃よりも随分伸びた髪を見つめて、僕はそう思った。


 週一度の散歩の際に、さり気ない調子で尋ねてみた。

「父さん。父さんが初めて好きになった子って、どんな子だったの」

 父は笑いを含んだ顔で振り向いた。

「なんだ。クラスに好きな子でもできたか」

「別に、そんなんじゃないけど」

 好きな子と聞いて、どういう訳か「彼女」の顔が心に浮かんだ。

 実のところ僕はその頃、少しばかり女の子に人気だった。ちょっかいをかけることでしか好意を示せない幼い友人達に比べ、僕は大人で素敵だというのだ。

 けれどそれは、僕の精神が進んでいた訳ではなく、単に自ら構いに行くほど魅力的な女の子がいなかったというだけだ。

 クラスで一番可愛い子を見ても、「彼女」には到底かなわないと心の内でため息をついていた。

「俺はなぁ、実はお母さんが初恋なんだよ」

「えっ、そうなの」

「お母さんとは中学生の時に出会ったんだ。まあ、しばらくは俺の片想いだったんだけどな」

「へえ、すごい。父さんって一途なんだ」

 両親の馴れ初めには感心したが、謎はいよいよ深まるばかりだ。では「彼女」は、やはり父の空想上の人物なのだろうか。

「初恋は実らないっていうけど、実ることもあるんだね」

「そうだな。無理矢理実らせたようなものだが――」

 そう返す父は、甘酸っぱい恋の思い出を語るには似つかわしくないほど苦々しい顔をしていた。


 僕は毎年の五月二十九日を楽しみに日々を過ごした。

 その日を迎えれば、その数週間後には新しい「彼女」に会えるのだから。

 「彼女」は年ごとに美しくなっていった。

 「彼女」の吸い込まれそうな瞳は、僕が恋人を作る妨げとなったが、それを認めてしまうのは自分の内にある異常な性癖と向き合わねばならないようで、気が進まなかった。

「やっぱり血は争えないな。理想の女の子描かせたら趣味が合うや」

 僕は誰ともなしにそんなことを呟いていた。


 やがて就職し、家を出た僕は、生身の女の子と結婚した。

 その子はどことなく「彼女」に似ていた。母さんとは別なタイプの美人だ。

 結婚前の挨拶に実家へ連れていった時、玄関先で父が目を見張っているのを、僕は少し愉快な気持ちで眺めていた。

 父さんどうするんだよ、僕の理想、あんたが作ったんだぜ。ああごめん、実はアトリエにこっそり忍び込んでたんだ。あの絵、勿体無いな、発表すればいいのに。

 いつかそう笑いながら、酒を酌み交わせたらいいなと思った。


 けれどその願い虚しく、父は帰らぬ人となった。

 その前の年に母が病気で儚くなってしまい、父はそれをきっかけにズルズルと死に引きずられていった。

「まるで都さんを追いかけるようにして……仲が良かったものねえ」

 親戚はそう言っておしどり夫婦に涙したが、僕には愛妻が無事に人生を終えるのを見届けて、やっと息をついたように見えた。

 それよりも気になるのが父の最期の言葉だ。

 啜り泣きのさざなみの中、微かに身じろぎした口元に耳を近づけると、父はため息のようにこう言ったのだ。

「すまない、麻里奈まりな

 と。


 麻里奈なんて名前の知り合いはいない。けれど最愛の妻や息子を押し退けて出てきた名前だ。父の人生において、重要な存在に違いない。

 手掛かりを求めて実家中を整理したが、麻里奈の麻の字も出てこなかった。

 疲れ果てた頭に、ふと、例のアトリエが浮かんだ。

 あそこにはもう長いこと訪れていない。妻のいる身で「彼女」と密会することは、なんだか不倫をしているようで、良心が咎めたのだ。

 しかし父が唯一ひとりきりになれた場所である。なにか手がかりがあるかもしれない。

 僕は書斎から鍵を取ってくると、昔のように扉を押し開けて中に入った。

 生ぬるい空気の動きとともに、細かな埃がちらちらと舞っている。その向こうで微笑む「彼女」は、さらに大人の色めきを纏っていて、父は僕が訪れなくなった後も描き続けていたのであった。

 と、父が使っていたのであろう椅子の上に白い封筒が置かれてあるのが目に留まった。

 近づいてみると、そこには「息子へ」――僕は目を見開いた。父は知っていたのか。僕がここに出入りしていることを。

 慌てて封を切る。簡素な便箋には、懐かしい端正な字が綴られていた。


『お前がこれを読んでいるということは、私は退院出来ないまま死んでしまったのだろう。

 世間は六十五なんてまだ若いと惜しむかもしれないが、私は実際には九十二年もの間生きてきたのだ。

 これから書く私の過去を、お前は信じないかもしれない。だがどうか、年老いた父の妄言だとでも思って最後まで読んでほしい。


 昔、お前にお母さんとの出会いを話したことがあっただろう。

 都と出会ったのは、私がまだ中学生の頃だった。

 言い訳にもならないが、私はかなり奥手な少年だった。男女のことに疎すぎて、恋を恋とも気付けない有様だった。

 そんな私に、都はいつも話しかけてくれていた。

 私が今、画家として身を立てているのはひとえに彼女のおかげだ。誰もが笑った私の夢を、都だけが応援してくれた。

 高校まで一緒にいた都とも、美大進学により離れ離れになってしまった。時間を見つけては連絡を取り合っていたが、私は好意を自分の内に持て余すばかりで、彼女との関係は曖昧なままだった。

 卒業後、私は絵画教室でアルバイトをしながら作品の制作をするというアーティストもどきの生活を送っていた。金も名誉もない私にとって、誰かと将来の約束をすることはかなりの戸惑いであった。不安定な職業だ。周りも良い顔をしないだろうと思えば、臆病者の私はどうしても尻込みしてしまう。

 そんな折、フランス留学の話が舞い込んできた。二十七の春のことだった。

 その晩、都が家に来て、私のことどう思っているの、というようなことを聞いてきた。

 ますます美しく華やいだ彼女に、私は目も合わせられず、君のことは好ましく思っている、というニュアンスの返答をした。都は押し殺したような声で、そう、とだけ呟くと背を向けて去っていってしまった。

 それが、彼女を見た最後だった。


 二年後、日本に帰国した時には、都は知らない男の妻になっていた。

 情けないことに、何もかも取り返しのつかない段になって、私は自分がどれほど都を愛していたのか思い知ったのだった。

 私は彼女を引きずったまま何年も独身を続けていたが、三十五の頃、知人の紹介で知り合った女性と結婚をした。いいかげん身を固めてくれと、両親に泣きつかれての決断だった。


 当たり障りのない新婚生活を経て、翌年には娘が産まれた。私はその娘に「麻里奈」と名付けた。

 麻里奈は私の人生における大きな変化だった。子供とはかくも愛らしいものだったかと、一種の衝撃を覚えた程だ。

 仕事にかまけてあまり遊んでやれず、良い父親ではなかったかもしれないが、持ちうる限りの愛情を注いできた。

 そのような対象ができたことによって、都とのことは、青春時代の淡い思い出として滲んでいくような気さえしていた。

 そうして時が過ぎ、麻里奈は十七歳になった。今時の娘なら少しは反抗しそうなものを、麻里奈は年頃になっても私と並んで歩いてくれるような、優しい子に育った。出来すぎた娘だ。私はこの子の存在ひとつで、己の人生を幸福だと捉えられるようにすらなっていた。

 ところが、運命とは無慈悲なものだ。私は事故に遭った。道を歩いているところに、突然トラックが突っ込んできたのだ、避けようもない。私は喧騒の中意識を飛ばし、そして次に目覚めた時には、二十六歳の私として、ボロアパートの畳に転がっていた。


 最初は訳が分からなかった。今際の際に夢でも見ているのかと思った。けれどそれはいつまで経っても覚めず、そして起こること起こること全てが、一度経験した事ばかりであった。

 そこで私はひとつの仮説を打ち立てた。タイム・リープ。時間跳躍である。

 過去のなぞり返しの中で、最も私の心を震わせたのは、やはり都との再会であった。

 都は――当たり前であるが――思い出のままの笑顔で、私の元に通ってきた。最初は家族のことで頭がいっぱいだった私も、次第にこの摩訶不思議な現象に絡め取られ、同化しようとしていた。

 むしろあちらが長い夢だったのではという新たに生まれた思いを、記憶通りに辿る毎日で必死に否定していた。

 やがて、再び留学の話が持ち上がった。都との別離の日が近づいている。私は電気もつけない部屋で一人、悩みにのたうち回った。

 このまま同じように道を辿れば、また麻里奈のいる未来が待っているのだろう。都のあの、泣きそうに伏せられた顔の向こうに――

 そのまま寝入ってしまった私は、起きるなり外に飛び出して、留学の話を断りに行ってしまった。そしてその足で彼女の元へ向かい、自分がいかに彼女を愛しているのか、熱烈に告白したのである。今振り返ると、完全に衝動的な行動であった。

 全く青春とは美しいパンドラの箱だ。私はノスタルジーに駆られるまま、分岐点のもうひとつの方向へ走り出してしまった。

 都は涙を流して私の想いを受け入れた。そして、どんなに長い間私に恋していたかを語った。私はもう愛しさで胸が張り裂けんばかりだった。

 そして、彼女が本来の夫と出会うのを恐れ、翌年には結婚式を挙げてしまったのである。

 そこから先は、私も知らない未来だ。私は美しい新妻との生活で、徐々に前の人生のことを忘れていった。


 改めて己の罪を突きつけられたのは、産まれたばかりのお前を抱いた時だった。我が子への慈しみが沸き上がると同時に、私は愛娘を、この手で亡きものにしてしまったのだと恐怖に震えた。

 そこからはもう、幸福と苦しみの連続だった。

お前達との暮らしに安らぎを覚える度、決まってその夜の夢に麻里奈が出てくる。目の前に立つ麻里奈は何も言わない。ただ、黙ってこちらを見つめているばかりだ。私は立ち尽くしたまま、涙も流せずに夜明けを迎えた。

 さらに追い打ちをかけたのは、買い物先で前妻を見かけたことだ。彼女は小さな女の子をあやしていた。麻里奈ではなかった。私を素通りする彼女は、幸せそうに微笑んでいた。傍らには夫らしい男性が、両手いっぱいに買い物袋を持って、何やら話しかけていた。

 私はもう地面に額を擦り付けて土下座したい気持ちだった。けれど私の罪を知るものは誰もいない。前妻ですら、わが子を奪われたことを知らないのだ。

 私は自身で己を糾弾するのみだった。


 その方法として、私は麻里奈の誕生日、五月二十九日になると、彼女の肖像画を描くことにした。もうこの世に存在しない麻里奈を、せめてキャンバスの中だけでも生かさねばと、弔いの儀式を重ねていった。

 もう察しているだろうが、お前が時々アトリエに忍び込んでは見ていた少女、あれが私の麻里奈なのだ。

 お前の婚約者を初めて見た時は、心臓が止まりそうになったよ。彼女は私たちに気を使って、何度も家に招待してくれたのに、応じずにすまないことをしてしまった。

 仕事を言い訳にしていたけれど、麻里奈の面影のある彼女に、どう接していいのか分からなかったのだ。

 聡明な素晴らしい女性だ、お前はこれからも彼女に心を尽くして、温かい家庭を築いていってほしい。


 私は己の罪を墓場まで持っていくつもりであった。

 けれど後の人生で、お前も己の道に迷う時が来るだろう。それがどんなに辛く険しいものでも、どうかこれと決めたら、真っ直ぐに突き進んで貰いたい。

 分岐点に引き返して、後悔をやり直したところで、必ず歪みが生じるのだから。

 願わくは、お前の進む道に幸多からんことを。』


 僕は足元が崩れ去ったような感覚に、その場に座り込んだ。父の、遺書というより自白書に身体が震えて気が遠くなる。しばらくそのまま動けずにいたが、冷や汗が体温を下げ始める頃、観念しておずおずと顔を上げた。

 目の前には麻里奈が、微笑みながら幻の時間を成長していっている。本来この世に誕生していたのは彼女だったのだ。彼女は――実体を失うのは僕の方だったのか――それなら僕の存在は一体――

 

 青春のやり直しをした父を思う時、僕はおぼつかない気持ちを覚えては、現世にすがりつくように妻を抱く。彼女の確かな温もりに涙ぐみながら、すべらかな肌に顔を埋める。

 そんな時、妻は何も言わないでそっと背中を撫でるのだ。


 麻里奈によく似た、麗しい微笑みを浮かべて。


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麻里奈 咲川音 @sakikawa_oto

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