第八章
第八章
「入りますよ。」
ジョチは、白がゆの入った皿をもって、客用寝室に入ってきた。まだ眠っているのかな、と思ったが、布団に横になってせき込んだままであった。皿をテーブルの上に置いて、濡れタオルを目の前に差し出す。
「どうぞ。」
返答はない。口の周りにまた少し血液が付着していたので、濡れタオルで口元を拭いてやった。
「なんだかこの前より、一段とお悪いようですな。ずっと、病院では見かけませんでしたけど、何もしないで放置したままだったのですか?それなら、かなりおつらかったのではないですか?」
やっぱり返答はない。
「ブッチャーさんから聞きましたけど、三日以上何も食べてないそうですね。せめて、ご飯でも食べないといけないでしょうから、白がゆ、作ってきました。杉ちゃんに醤油とか、卵とか、一切使ってはいけないとうるさく言われたので、本当にただの塩味しかついていませんので、つまらないかもしれませんが。本来であれば、座って食べられればそれに越したことはないのですけど、その状態では、無理だと思いますので、とりあえずどうぞ。」
そういって、ジョチは白がゆの入ったさじを、水穂の口元近くに差し出した。しかし、受け止めることなく、顔をそむけてしまった。
「それではいけませんよ。何か食べないと、体力だけではなく、気力もなくしますよ。無理をしてでも、食べ物を口にするということはしないといけません。もともと、食べ物を扱う商売ですから、その効用はよく知っています。うちの店のお客さんにも、酷く落ち込んでいても、何か食べれば楽になる人は良く見かけます。だから、どうぞ。」
それでも反応はなく、さじのほうへ顔を向けることはなかった。
「水穂さん、思うんですが、あなた、杉ちゃんやブッチャーさんたちが、あれほど頭を悩ますほど心配してくれているじゃないですか。今の態度から判断すると、それを全部はねのけて拒絶しているようにしか見えませんよ。確かに、医者からひどいこと言われたり、看護師に冷たい処遇をされるのはおつらいことかもしれないですけど、あれだけ心配してくれているんですから、少しそれに応えることも必要なんじゃないでしょうか。何よりも、前向きになって、自分でもよくなるようにならないと、回復はしないと思うのですが。」
「何がわかるんです。理事長と呼ばれてきた人に、わかるはずもありませ、、、。」
反論しても、咳に邪魔されて、最後まで言い切ることはできなかった。ジョチは、さじをいったんおいて、再び口元を拭いてやろうと試みたが、すぐに顔を背けられてしまった。
「まあ、確かに、他人ですから、相手の深い事情まで把握することはできないでしょう。でも、生きることを放棄することは絶対にやってはいけませんよ。それだけははっきりと、言っておきます。どんなに誰かに迷惑をかけたとしても、それが、良い方向へ向くことができるのなら、絶対にしてはなりません。犯罪者ではないのですから、それだけはやってはいけないことです。」
「だけど、辛いんです。もう、これ以上こんなみじめな生活を続けなければならないなんて、」
最後まで言おうとしても、咳に邪魔されてできない。
「勘違いにもほどがある。つらいからと言って、勝手に逝くようなことは、ただのわがままに過ぎませんよ。テレビなんかでたまに特集されたりしますけど、そういうことをして、残された人たちに良い結果をもたらすことは、決してないじゃありませんか。それを押し付けられて、立ち直るのに何十年も時間をかけなければならないご遺族も本当にたくさんいる。それを、杉ちゃんや、ブッチャーさんに、強制させるつもりですか?」
「そうかもしれませんが、少なくとも看病疲れからは、解放させてあげられるのではないで、、、。」
また、咳に邪魔されて最後まで言えないのがさらに悔しい。
「だから、せき込んでしまうんですから、そうならないように病院で診てもらうわけじゃないですか。みんなそれを用意してくれているのに、なぜ拒絶するんです?事実、杉ちゃんから聞きましたけど、あなたが倒れたと聞いて、半狂乱にちかい状態までなった人もいるそうですね。どうしてそうなったか、想像してみてくださいよ。それはね、単に容姿のよさだけかということは、決してありませんよ。皆、あなたに生きていてほしいからそうするんでしょ。それを全部拒絶して、ひたすら苦しみ続けるのでは、あのような台詞を言われても仕方ありません。だから、介護殺人とかそういう言葉が出るんです。介護する側も、大変ですけど、される側もある程度、寄り添ってやるようなことをしてやらなくちゃ。すくなくとも、あなたは意識があり、知力もあるのですから、そのあたりを感じ取ることはできるのではありませんか!」
「そうですが、、、。」
「それにね、弟が笑って話していたあのプラモデルの話、まだ続きがあるんですよ。確かに、新しいプラモデルを買ってもらって、弟はすごくうれしかったでしょうね。それを僕が鼻水ですっかり汚してしまい、使い物にならなくなってしまったのもまた事実。そのあと、弟はすごく激怒したんです。子供ですから、自分の大事にしているプラモデルを破壊されて、怒るのは仕方ないことでしょう。その時にね、母がすごく怒って、弟をしかりつけたため、弟はそれ以降、僕の前でプラモデルを見せびらかすことはしなくなりました。たぶんきっと、初めからそれをしなければ、こういうことにもならないだろうなとわかってくれたんだと思いますが、本当に申し訳ない気持ちで一杯でした。なんだか、弟が、離れてしまうんじゃないかなって、不安でたまらなかったです。幸い、のんびりした性格の弟でしたので、あまり気にしないでいたらしく、それ以降も態度を変えることはありませんでしたが。でも、あとで考えると、一歩間違えれば、家庭不和のきっかけになったのではないかと思われますので、恐ろしい出来事であったかもしれません。そうならなかったので、幸運なんだと思わなきゃ。逆を言えばそうならないよう。僕らも責任を取って行動する必要があるんですよ。必要というか、義務なのかもしれませんね。」
「ですけど、もう、できることなんて何もありませんよ。」
今回は言うことは成功したものの、またせき込んで、血液がだらっと流れた。
「いや、あるんじゃないですか。とりあえず、まず第一に、血液を止めること。そのためには、薬を飲んで休む必要があります。でも、すぐに飲んでしまえばいいのかというと、そうではありません。その前に何か食べるということをしないと、効果を発揮してくれないからです。だからまず、これを口にしてください。そうしなければ、浴衣も布団も血液が付着して、汚れてしまいます。」
そういって、口の周りをタオルで拭いてもらうと、口元にさじが突き出された。これはもうだめかと思って、というより、やむを得ずしなければならないなと思って、水穂はさじの中身を口にする。三日以上何も口にしていなかったからか、あるいは、杉三がいつも作っている料理が薄味を意識しているせいか、なぜかその白がゆは、味が濃い気がした。
「あ、やっぱりまずいですかね。料理屋なのに、こういう味付けというものが、ちょっと苦手なんですよ。」
「そんなことありません。」
そういわれてちょっと笑ってしまうと、
「もう一回いけますかな?」
と、すかさず言われて、また口元にさじが差し出された。改めてそれを口にすると、
「あ、よかった。食べられるじゃないですか。」
と言ってさらに笑われてしまうのである。
「すみません。僕が負けました。変なことを聞くようですが、杉ちゃんたち、どうしているんでしょうか?」
思わずそう聞いてみると、
「あ、はい。あの二人なら、今頃弟と一緒に、焼肉食べているんじゃないですかね。」
と返ってくる。
「焼肉ですか。」
「はい。あなたが食せないのは百もわかっていますから、僕が代用品を持ってきたんです。」
「す、すみません。なんだか申し訳ないですね。」
「だから、二人にも、たまには思いっきり好きな物を食べさせてやらなくちゃ。無理をして我慢させていたら、だれだって、爆発するのは当たり前ですよ。そのためには、あなたも食べられるものを、しっかり食する必要があります。」
こういわれたらかなわないな。やっぱり、事業をやっている人らしく、理路整然としている。
「じゃあ、いいですか。もう一回、食べてください。」
また口元にさじが突き出されたので、中身を口にした。
一方そのころ。店舗スペースの一角にある個室席で、ブッチャーと杉三は、大量に出された焼肉を食べていた。
「はい、どうぞ。一杯やって。」
敬一が、ブッチャーの前にビールを差し出す。
「いや、俺、酒は飲めないのです。俺の姉ちゃんのこともあり、どうも酒は危険な香りがして、、、。」
「あら、じゃあお酒よりジュースのほうがよろしかったですか。オレンジジュースでよろしいかしらね。」
ブッチャーが断ると、君子さんが代わりにオレンジジュースを出してくれたので、ブッチャーはそれを浴びるように飲み干す。
「かなり重症なようだけど、結核なのかな。まあ確かに、そういう人を看病するのも大変だよなあ。」
「それが違うんだよ。よく労咳と間違われるけどさあ、だから僕らも訂正するのに、すげえ時間がかかっちゃう!もう、軽々しく、すぐ治るもんだと言われて、僕らもいい迷惑だよねえ。」
敬一の言葉に杉三が訂正した。
「そうねえ。確かに、似たような症状を出す病気はたくさんあるんでしょうね。あたしたちは、凡人だから、すぐに口にしちゃうけど。確かに、あたしも、こっちへお嫁に来たばっかりの時に、お兄さんのことを聞かれるにはいいものの、わけのわからない病名と言われて、逃げられるほうが多かったわ。」
「ほんとだよ。昔ほど怖い病気ではないのに、なんであんなに重症なんだって、逆にびっくりされちゃってさ、理解なんてしてくれないから、辛くてしょうがないってもんよ。皆労咳なんて、とうの昔に忘れててさ、最近は、医者でさえそんな発言するから、もう、あんたらそれでも医者かと、あきれてものが言えん!」
「はい。杉ちゃんの言う通りですよ。だから水穂さんも、病院へ行く気にならないんでしょ。」
君子さんの言葉に、杉三とブッチャーが相次いでそういうと、
「そうだよなあ。もうちょっと、病気について、知識が普及してくれるといいけど、そんなこと勉強している暇もないよねえ。まず、それが第一関門だよね。」
敬一は、でかい声で言った。杉三に負けないくらい豪快だった。
「確かに、それではいけないけど、本当にどこか見てくれるところはないんですか?やっぱりお兄さんと同様、遺伝子のこととか、そういうような相談もしなきゃならないのかしら?」
「いや、それさえも難しいと思うぞ。原因は全く不詳らしいから。」
「そうなのね。お兄さんも難しいと言われていたけど、もっと大変なんでしょうね。世の中には、難しい病気って数えきれないほど、たくさんあるんでしょうね。」
「水穂さんどうしているかなあ。あれから、少し眠ってくれるといいのですが。少なくとも、畳にせんべい布団よりは、もっとゆっくりできると思うんだが。」
「いやいや、兄ちゃんに任せとけ。ああいう重病人の気持ちは、経験者でなければ絶対にわかるまい。」
敬一が、心配そうにそういった、ブッチャーの肩を叩いた。
「あ、よかった。完食できたじゃないですか。じゃあ、お約束通り、薬持ってきますから、しばらく待っててくださいね。」
白がゆを口にすると、ジョチが笑ってそう返した。確かにそうだったようで、さじを皿の中に戻すと、祝福するようにからん、と鳴った。
「それにしても、味が濃かったですかね。よく、弟に言われるんですよね。兄ちゃん、もうちょっと味加減を考えないと、お客さんに味が変と言われてしまうぞ、と。」
「いえ、そんなことありませんよ。三日ぶりに食べ物を口にしたので、結構印象に残る味でした。」
水穂は正直に白状した。
「これからは、しっかりと食事をしてくれますね。じゃあ、水で溶かしておいて、飲みやすくしておきましたから、こちらでどうぞ。」
今度は食事の代わりに吸い飲みが出された。いつもは水筒に入れた水でがぶ飲みするのが恒例なのだが、今回は、粉薬であるから、水で溶いて、吸い飲みに入れてくれたのだろう。
「はい。」
とりあえず、返答をして、吸い飲みに食らいつくというか吸い付いた。
「本当は、薬よりも、食事をする前にその顔をしてもらいたいのですが。だめでしょうかね。イケメンすぎると杉ちゃんが言っていましたが、俳優並みに綺麗ですと、そういう気持ちもすぐにばれてしまいますよ。」
「あ、申し訳ありません。」
「今日はお許ししますから、明日からは気を付けるようにしてください。」
「はい。」
薬を飲むと、やっと吐き気が止まり、ふっとため息が出た。同時に、眠気を催す成分のせいか、眠り込んでしまった。
「そうかそうか。そうだよなあ。確かに、いくら言っても嫌だいやだと言われると、辛いよな。」
「はい。もう、どうしようもありません。俺がご飯を食べさせようとすると、要らないといって顔を背けるし、でかい声で食べろと言えば、人権問題になると俺が注意されるし、しまいには、せき込んで血を出す羽目になるし、、、。」
「まあ、ある意味しょうがないことだが、もう、確かにつらいよな。本来は酒を飲んでがばっといきたいけど、それは無理だろうから、ほら、食べろ!」
敬一がブッチャーの目の前に焼き肉を突き出すと、ブッチャーは、目を輝かせて、それを受け取り、かぶりついた。
「ああーうまい!こんなうまい肉を食べたの、半年ぶりですよ。」
「何だ。半年ぶりって、どういうことだ。」
敬一が、ブッチャーにそういうと、
「だって、貧乏呉服屋ですから、肉を食べたなんて、本当にたまにしかないんですよ。それに、水穂さんのところへ行けば、肉も魚も食べることは許されないですよ!」
ブッチャーは、またジュースをがぶ飲みした。
「そうかあ。そのくらい、大変なんだなあ。しかし、若いのに、そうやって定期的に看病に通うなんて、偉いじゃないか。大体な、そういう人を看病するなんて、中年以上でないとやらないと思うぞ。」
「そうだけど、俺がいなかったら、どうなるんですかあの人は。俺が世話をしなかったら、水穂さんは今頃、血を出してぶっ倒れてしまってます!でも、俺も、正直にいうと、姉ちゃんの時もそうだったんですけどね、俺もぶっ倒れてしまうのではないかと思ってしまう時もありますよ!だって、何を言っても効果なしで、どんどん悪くなっていくばっかりなんですから!回復するなんて絶対にないですからね!少しでも、よくなってきたかと思ったら、翌日にはまた振り出しに戻ってます。こうなると、あーあ、俺のしてきたことは何だったんだろうなって、俺はやるせなくて、頭にくることだって稀じゃないですよ!」
「そうかそうか。実は俺も、兄ちゃんを看病してきて、そういうことばっかりだった。幸い、兄ちゃんの場合、新しい薬が開発されたそうで、それを試してみると劇的に効いたんだが、それを処方してもらえるまでは、もうほんとに大変だったんだぞ。鼻水が、気道に詰まって、窒息の恐れがあるって、何回も病院に運ばれて。」
「ははあ。その新薬を扱ってくれたのが、あの例の病院だったんですか?」
「そうなのよ。そこの耳鼻科ね。だから、俺は、病院の新病棟建設の話が持ち上がった時、真っ先に、病院に金を貸したのさ!」
「そうなんですか。水穂さんにもそういう薬があればいいのになあ。でも、何もないんですよ!俺たちは!」
「まあまあまあまあ、そう怒鳴りたくなる気持ちもわかるが、病気というものは、医療とのいたちごっこのようなところもあるから、仕方ないとして、開き直れ!でも、もし、どうしても辛いようであれば、うちへいつでも食べに来い!焼肉でもしゃぶしゃぶでも作って待っててやるから!」
「わかりました!今日は食べさせてもらいます!」
と言って、ブッチャーは、また肉にかぶりついた。
「楽しそうに食べてますね。でも、私にはまた別の悩みがあるんですよ。」
君子さんが、杉三にそういった。
「別の?」
でも、なんとなく、彼女が何を言うか、杉三は予測できたような気がした。
「ええ、、、。ほら、この店、私達年寄りしかいないでしょ。若い人が誰もいない。」
「は?まだおばさんは、若そうに見えるけどね。」
「お世辞が上手ね。杉ちゃんは。」
君子さんはちょっとため息をついた。
「でも、こっちに嫁いでね、お兄さんがああいう病気であることを目の当たりにして、とても後継者を作るなんて、冗談じゃないわと思っちゃったのよ。いくら、あの二人、父親が違うって言ってもねえ、兄弟であることは変わりないからね、、、。遺伝子の病気である以上、どうも子供にまでそうなるんじゃないかと思っちゃって、、、。」
「あ、なるほどね。確かにね。遺伝子ってそういうもんだよね。親が持っていたものが子供に出るってやつでしょ。」
「そうよ。一応、劣性遺伝だから大丈夫だって、主人は言ってたけど、どうかなって気がして。優性遺伝みたいに、確実視されるわけじゃないからって。」
「うーん、違いが判らないなあ。」
杉三が頭を傾けた。
「そうね。あたしもよく知らないけど、出る確率は二十五パーセントってお医者さんは言っていたわね。黒豹と同じくらいの確立だって。そんな少ない数字でも、やっぱり怖いものは怖くて、主人もあの大きな体にかかわらず臆病だから、二人そろって躊躇しているうちに年を取っちゃって、もうすぐ五十歳なのよ。あたしたち。」
「数字がどうであれ、怖いものは怖いよ。黒豹は、いろんなところに出没してるよ。青柳教授が言ってたけど、奥さんが赤ちゃんできたとき、びんたをするほど激怒して反対したが、奥さんは言うこと聞かなかったらしいよ。で、生まれてきた息子さんは、自分よりひどいとんがり耳だったので、もうどうしようもなかったってさ。結局、一生懸命息子さんを育てたつもりだったけど、学校でのいじめがすごくて、息子さんは逝ったらしい。奥さんもそのショックでおかしくなっちゃったんだって。だから、とんがり耳が親になるもんじゃないんだって、青柳教授は落ち込んでた。そうならないんだから、幸せだったと思えば、それでいいじゃないか?」
杉三は、一生懸命励ましたが、君子さんは苦笑いして、
「杉ちゃんありがとうね。そんな例があったなんて知らなかった。でも、あたしたちは、商売人だから、後継者がないってことはすごい大問題なのよ。」
と、ため息をついた。
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