第七章
第七章
その後も、ジョチは定期的に生田記念病院に通ったが、あの二人の顔をみることはなくなった。もしかしたら、どこかほかの病院に行ったのかと思って、知り合いの総合病院の院長に聞いてみたところ、磯野という患者が現れたことはないという答えしかなかった。料理屋弥栄のおかみさんも、あの二人が現れたことは二度とないという。きっとどこか、都内とかそういうすごいところに行ったのかなあとか、初めはそう考えていた。ただ、自分もそうだったけど、理解の少ない疾患にかかって、門前払いになることは数多くあった。日本では症例がないからとか、医者が、知識がないので、うちでは診察できないとか、そういうことを必ず言われることが心配なのである。病院から、新病棟を建てるから、少し金を出してくれないだろうかと、言われたときも、弟敬一が、兄を治療してくれなかったら出さない、と言ってくれなかったら、間違いなく近いところで医療を受けるのは、できなかったと思われる。
どっちにしろ、店の中ではすることは何もないし、やるとしたらクラヴィコードを弾くだけのこと。あとは庭にあるリンゴの木と会話にならない会話をして、それでおしまい。ただ、リンゴの木は、頭を黙らせることはできないようである。こっちが声を出して悩みを打ち明けても、声に出して答えを出すということはしない。だから、この悩みはいつまでも解決しなかった。
その日。暇つぶしに庭へ出ると、リンゴの木が大量に実をつけているのが確認できた。文字通り、鈴なりだった。あまりになっていて、自分と弟夫婦では食べきれないくらいだ。病院にもっていっても、お医者さんたちが受け取るはずもないし、かといって、プレゼントするような人もない。あとは有力な従業員たちにあげてしまうかとも考えるが、みんな遠慮してしまう。それよりも、お菓子とかそういうものを貰ったほうが、よほど喜ぶからである。飲食店という商売上、リンゴなんて、よほどの食いしん坊でないと、喜ばないだろうな、というのはよく知っている。
頭をひねって、考えていると、あ、いい人材がいた、と思いついた。
数時間後。
「お宅は結構遠いんですねえ。じゃあ、病院まで行くのも大変だったでしょう。」
タクシーの中で、ジョチがそう質問すると、
「まあねえ。でも、しょうがないよ。でもいいのかい。こんないっぱい、リンゴなんかもらっちゃってさ。」
さらりと答える杉三であった。
「ああ、構いません。どうせうちでは食べきれなくて、処分するのがおちだと言えるくらいなり過ぎましたし、あげるひともいませんのでね。それにしても、びっくりしました。製鉄所という企業があるのかと思いましたが、支援施設みたいなものだったんですか。」
「あ、どうなんだろうね。単なる、下宿屋と同じだと思ってくれって、青柳教授は言ってたよ。」
「へえ。それが製鉄所ですか。なんか、もうちょっといい名前を付ければいいのに。」
「うーん、どうかなあ。焼き肉屋とかしゃぶしゃぶ屋さんとはまた違うぞ。しゃぶしゃぶ屋さんだったら、ジンギスカアンである程度分かるけどさあ。変な名前を付けても、何屋さんだかわからないんじゃ、意味がないって青柳教授が言ってたから、そのまま製鉄所でいいんじゃない?」
「そうですねえ。でも、名前からある程度企業内容がわかるほうが良いのでは?」
「いや、内容がわからないほうが、繁盛する会社もあるんだよ。変な横文字に頼ったら、よけいに評判を悪くする。」
「そうですか。」
やっぱり杉ちゃんは口がうまいな、と思うのだった。
「ところで杉ちゃん。」
「何だよ。」
「あれ以来、病院では全く見かけなくなりましたが、水穂さんどうしてます?もしかしたら、もう少し大規模な病院に移ったんですか?」
「いや。その逆よ。大規模な病院になればなるほど、医者は傲慢になり、患者も悪徳になるから、行きたくないって言って、ずっとそのままでいるよ。」
「そうですか。でも、あれだけ悪かったら、通う必要があるのではないでしょうか?本人がいやなら、周りの人が何とかして連れていくこともしないといけないのでは?」
「まあ、それができたら苦労はしないわ。とりあえず、今から顔を見てもらって、答えを確かめてくれや。」
どうも変だな、と思った。
「杉ちゃん、いったいどういうトリックで、放置しっぱなしでいられるんですか?看護人だってついているわけでしょう?それなのに、なぜみんな黙認したままでいるのか、ちょっと不思議ですよ。僕の家でも、確かに弟は血縁関係があるわけではないですけど、いくらなんでも病院に連れていかないということはしませんよ。むしろ、弟なんかは心配し過ぎでうるさいくらいです。」
「チャガタイは、面倒見がいい弟だったんだねえ。不和ということはなさそうだ。でも、それは、店の経営を円滑にするためだろ?だから、ただの形式的なもので、本当に兄ちゃんを好きかというわけじゃないだろ?」
「それもあるかもしれませんが、それだけなら、あんなにうるさく調子はどうだと一日何回も聞くことは先ずないでしょうね。」
「あ、そうなのね。それは大事なことを見落としてる。決定的な違いがあるの。君たちみたいな、焼き肉屋の一族とはさ。でも、これを口にすると、水穂さんがかわいそうだから、絶対に言わない。」
「そうですか、、、。」
と、頭を掻きながら半分呆れて杉三を見つめるジョチであった。
「お客さん、着きましたよ。」
間延びした運転手の声がして、タクシーは止まった。
「じゃあ、よろしくお願いします。」
「あいよ。」
運転手が杉三を降ろしている間、先にタクシーを降りて、ジョチは正門の前に立つ。
「へえ。製鉄所とは思えませんね。確かに玄関扉にたたらせいてつと、しっかり書いてありますけど、なんだか製鉄所というわけじゃなくて、高級旅館という感じの建物ですね。」
「じゃあ、行ってみようか。たぶん、ブッチャーたちが来ていると思うから。」
杉三は、どんどん断りもせず、製鉄所の敷地内に入った。そのまま玄関の引き戸をガラッと開けてしまう。なぜかそこにインターフォンは設置されていなかった。理由はよくわからなかったけど、セールスが来るのを避ける為かなとか、そのくらいしか連想できなかった。
「こんにちは!いないのか!」
杉三が、でかい声でそういってみたが、返答はなかった。
「あれれ?誰もいないということはないと思うんだけどな?」
「そうですね。確かに、留守だったら施錠するはずですよね。開けっ放しは防犯上もよくないし。」
でも、反応はない。
「あ、青柳教授のぞうりがないや。ということは、出かけてるんだね。たぶん、東京大学にでも、講演会にいっているんだろうな。」
「だけど誰もいないということはないと思うんですけど?」
「よし、怒られるけど入っちゃえ!」
と、杉三は車輪を拭くのも忘れて、建物内に入ってしまうのであった。
「恵子さんの靴はあるから、中にいると思うんだけどな。」
そういいながら、杉三が四畳半に向かっていくと、四畳半のふすまの前で、恵子さんが立っているのが見えた。
「恵子さんじゃないか、どうしたの?」
「それがねえ、、、。」
と、恵子さんがいいかけるが、答えはすぐにわかる。
「だから、食べなくちゃいけないんですから、みそ汁だけでいいですから、食べてください!」
四畳半の中で、ブッチャーがでかい声でそう言っているのが聞こえてくる。杉三は構わずに、ふすまを開けてしまった。ふすまを開けると、咳の音が鳴り響いてくる。
「もう、三日以上何も食べてないじゃないですか!それなのに、薬ばっかり口にして、どうかしてます!薬だけでは、血液も止まりませんよ。食べ物を取ることが必要十分条件なんですから!」
ブッチャーが負けないくらいの音量で怒鳴ったが、それより咳の音のほうが、印象的であった。
「薬取って。」
水穂は、やっとそれだけ言うことができたが、すぐに咳のほうに負けてしまう。
「それじゃいけませんよ!その前にご飯を食べることが先ですよ、水穂さん。わかりますか!そうしないと、また倒れちゃいます!」
「どうしたの恵子さん。」
杉三がこっそり聞いた。
「どうしたって最近はいつもそうよ。ご飯なんて食べる気がしないって言って、何一つ手を出さないのよ。あたしが出しても食べないから、ブッチャーにお願いしてるんだけど、効果ないわね。薬が切れちゃえば、ああいうことになるから、どうしようもないのよ。」
「もしかして、単にご飯を食べる気がしないということでは、ないような気がするんだけどねえ、、、。」
「もう、いい加減にしてくださいよ!そんな変なことをやって、通じるなんて思わないでください!」
「それは言いすぎだ。少なくとも、好きでやってるわけじゃないんだぜ。」
その言い方がまずいと杉三は指摘したが、
「同情を引くために、血を出すのはよしてくださいよ!明治とか大正じゃないんですよ!」
と、ブッチャーはでかい声で言った。返答の代わりに、返ってきたのは激しい咳と、流れてくる血液と、うめき声という三本立てであり、いかにも凄惨である。
「それだけはよしな、もう、時代が悪いといういい方は言うな。だって、今ここなんだから。」
「杉ちゃん、それを言うなら、毎日でかい声で、ご飯を食べさせなければいけない俺の身にもなってよ!」
もうやけになってブッチャーは畳をバアンとたたいた。これに象徴されるように、この症状は、よくあることなのだろう。
「ちょっといいですか?入らせていただけないでしょうか?」
ジョチは、恵子さんにそっと言って、許可をもらう前に部屋に入っていった。
「たぶん、こうなるときは、横になるより、寄り掛かったほうが止まるんじゃないかと思うんですよね。座布団か何かありませんか?」
「わかりました!」
ブッチャーは、急いで隣の部屋から座布団を五枚持ってきた。
「じゃあそれを布団の上にのせて、彼を寄り掛かって座らせてやるようにしてくれませんか?」
指示に従ってブッチャーは、座布団を布団の上に乗せた。ジョチも手伝って、水穂をそれに寄り掛かって座らせるようにさせてやる。確かに彼の言ったことは本当で、咳の数は減少した。
「本当にすみません。皆さんの処置が早かったから。」
恵子さんはお礼を言ったが、
「俺のことは、何も誉めてくれなかったんだなあ、、、。」
ブッチャーががっかりと肩を落とす。
確かに、看護人であれば、一度は思う感情である。大体の看護人は、誰かの力を借りて、立ち直る。というか、立ち直らなければならない。でも、最近はそれができなくなって、大事件に発展する。個人的に介護者が被介護者を殺害するだけではなく、病院などの組織が、患者を組織的に殺害してしまうことも珍しくない。最近では、大規模な病院が、患者たちをわざと高温の部屋に置いて、熱中症で五人も殺害したという事件が起きたばかりだ。
「理由はわかりませんが、病院には頼れないということもわかりました。確かに、そうしなければいけない疾患もあることにはあるから、あえてその顛末は聞きません。でも、皆さんもお疲れの様だということは言うまでもありません。だからそのために、あえて患者を隔離することもありますよね。そうなると、また人権問題にもなりかねないです。つまり、この問題は堂々巡り。」
「そうなんだよ!もうそういう風に答えが出ちゃっているから、俺たちは疲れたともいっちゃいけないんだ!俺の姉ちゃんを看病した時もそうだったが、それをもう一回味わわなければならないとは!」
「ああ、わかりました。じゃあ、こうしましょう。うちに空き部屋があるから、しばらく使ってください。彼を動かせるようであれば、連れて行ったほうがいいですね。」
「本当?しばらく居させてくれるのか?」
「いいですよ。杉ちゃん。幸い人が足りないので、空き部屋がかなりあるはずですから、杉ちゃんとブッチャーさんで使ってくれて結構ですよ。こういう時は、ほかのところに泊めてあげてもいいんじゃないですか。皆さん疲れ切っている様子ですから、たまにはバラバラになってもよいのではないかと思います。」
「でもいいんですか?迷惑をかけてしまわないか、、、。」
恵子さんが心配そうに言ったが、
「あ、気にしないでくださいね。僕も同じことをやってますから、うちのものは皆、慣れてますよ。」
ジョチは笑って片付けた。恵子さんは、そのほうがいいと覚悟を決めたようだ。
「わかりました。お願いします。すぐに決行したほうがいいでしょうね。」
「幸い、うちは焼き肉屋ですから、食べ物はあると思うので、、、。」
「おお!焼肉だって!」
ブッチャーが天からのパンを与えられた子供のような顔をして、でかい声で言った。
「はい、じゃあ、今から客人を連れて帰ると弟に連絡をさせてくれませんかね。」
「ありがとうございます!」
ブッチャーは、感涙にむせぶように、スマートフォンを渡した。
「ようし。決定決定。おい、寝ている暇はないぞ。今からジョチの経営している焼き肉屋さんまで行くから、はやく着替えろ。」
「ああ、構いません。浴衣のままで結構です。防寒さえしっかりしていただければ。介護用品なら、うちに腐るほどありますし、弟に用意しておくようにしておきましたので。たぶん、運転手の小園さんが、まもなく迎えに来ると思います。」
「悪いねえ。店はたしか、松岡だったよね。松岡ってあまりどこだか見当がつかないが。」
「ええ。岩本山の近くなので、よく観光客が食べに来るんですよ。」
杉ちゃん、こんな時によく世間話ができるなあと、恵子さんは苦笑いした。
「じゃあ、先生にはどう伝えておきますか?」
恵子さんが聞いてみると、
「ええ。青柳先生くらいの年齢のある方なら、松岡の曾我のもとで預かっているといえば、通じると思います。うちの店はそのぐらい、古い店ですから、高齢の方であればだれでも知っています。」
と、返答が返ってきた。
「なるほど、有名な老舗の焼肉としゃぶしゃぶですかあ。ああ、想像すると、涙が止まらない。ほら。水穂さん、行きますよ。俺は逆に、これから焼肉を食べさせてもらえるなんて、水穂さんに感謝をしなければなりませんなあ。」
食いしん坊ぶりを発揮しながら、ブッチャーこと須藤聰が、よっこらしょと水穂をお姫様抱っこ様に抱きかかえた。
一方、松岡では。
老運転手の小園さんが運転するワゴン車が、「焼き肉、しゃぶしゃぶの店、ジンギスカアン」と書かれている大きな建物の前で止まった。また例の綺麗な人を乗っけることができて、うれしさを隠せない小園さんだった。
「ここで待っててくださいね。」
ジョチが、車を降りて、店の入り口から中に入っていった。数分後、前掛けを付けた男性と、女性が現れた。たぶんあれが弟夫婦なんだと思うが、確かに親違いというところがよくわかる。同じ親からであれば、結構似ているという箇所があるが、二人はそれが全くなく、特に弟と思われる男性は、身長こそジョチと同じであるが、胴回りは彼の倍近くあった。
「あ、どうも、弟の曾我敬一です。こっちは女房で曾我君子です。」
「本当だ。ジョチさんが、少しばかり二枚目だと思ったが、弟さんはかなりのぶさめんなので、やっぱり血統はないんだなあ、、、。」
ブッチャーが思わずつぶやくと、
「失礼なこと言うな。」
と、杉三が言った。ブッチャーは、あ、まずいという顔をしたが水穂がせき込んだため、聞こえることはなかったようである。
「じゃあ、客用寝室に案内しますね、水穂さん。立てるなら、立ってもらいたいですけど、無理なら背負って歩きましょうか?」
「確かにあらっぽいと言われたチャガタイとは違うな。太っているから、心の底に優しい気持ちを持っているようだよ。」
杉三がまたつぶやいたので、杉三もお互い様であった。
「はい。何とか出られます。すみません。」
水穂は、何とかして車を降り、敬一に支えてもらって建物の中に入った。敬一も奥さんの君子さんも、危ないなと思った時には手を出すが、そうでないときは平気な顔をしていられるのが、やはり介護人として慣れているというところだろう。
「はい、こっちです。そうそう。歩けますね。さほど広い部屋ではないですが、使えると思いますよ。」
君子さんが、部屋のドアを開けてくれて、水穂は敬一に連れられて部屋に入った。
四畳半よりも広い洋室で、テーブルとイスと、空きベッドが一つ用意されていた。
「単に仰向けになってるだけでは、おつらいでしょうからね。クッションをいくつか置いて、寄り掛かって座れるような形にしておきました。」
敬一の言う通り、高級ホテルに設置されているのと変わらないほどの超豪華なベッドが置いてあって、まるでせんべい布団とは比べものにならないほど贅沢だった。
「はいどうぞ。横になってくださいね。眠ってもかまいませんからね。とにかく、できるだけ楽な姿勢でいてくださいよ。」
「で、でも、汚してしまうと。」
水穂は、申し訳なさそうに言ったが、
「ああ、気にしないでくださいね。汚すなんて、気にしていたら看病もできませんよ。事実、新しいプラモデルを買ってもらって喜んでいても、兄ちゃんの鼻水で使えなくなって、全滅したことは、何回もありましたからなあ。」
と、豪快に笑う敬一に、ジョチがそれは言うなよ、と彼の腕を突いた。
「とにかく、製鉄所の布団よりはよほどいいでしょうから、早く寝てくださいよ。たぶんきっと、これだけふわふわしていれば、すぐ寝れちゃうんじゃないですか。」
ブッチャーに促されて、水穂は横にならせてもらった。確かに、寝心地はよいものと言えた。マットレスに、低反発のウレタンマットが用いられているのか、雲に乗っているような感覚がしてふっとため息が出る。
「ため息でよかったね。血液ではなくてよかったよ。」
杉三が、苦笑いしてそういうと、ブッチャーたちもため息をつく。
「じゃあ、皆さんはこちらにいらしてくださいね。とりあえずお荷物置かなきゃなりませんものね。」
君子さんに言われて、杉三とブッチャーは部屋を出て行った。
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