1-33 零課

 新島がラボに入ると、谷岡がほぼ水平にリクライニングしたチェアで眠る夏音の頭を優しく撫でている所だった。

 夏音には真っ白なブランケットが掛けられている。

「生き物は凄いわ。睡眠は何にも勝る麻酔だもの。安全だし副作用もない。おまけに可愛いわ」

 谷岡は口を半開きにして横になって寝ている夏音の顔を笑って見ていた。

 報告と違い幸せそうな寝顔に新島は拍子抜けする。

「・・・・・・容体は?」

「起きてみないと詳しくは分からないけど、今の所問題ないわ。医療AIも同じ意見よ」

 そう説明する谷岡の横で新島は電子カルテを壁に表示させて眺めた。

 詳しくは分からないが、どうやら現在痛みはないらしい。ホッとしたのも束の間、どうやって起こそうか新島は考えた。

「・・・・・・起こしても?」

「この可愛い寝顔を妨害できるならね。良心の呵責に喘がない強靱な精神が必要よ。あなたにはあるかしら?」

「生憎、人の痛みに疎くできてるんでね」

 そう言って新島は自分の頭の横を右手の人差し指でトントンと叩いた。

 それを見て谷岡は少し心配そうな顔になった。

「まだ、人の痛みを上手く想像できない?」

「少しはマシになったよ。価値観ってのは振れすぎると元に戻らなくなるんだ。だけど銃を撃ってるのに人を殴る感覚より攻撃意識が低いのは我ながら問題有りだな」

「軍人なんてそんなものよ。人の命を軽く考える為の訓練をしてるんじゃない」

「これが訓練で手に入れた感覚なら俺も悩まないさ」

 新島は夏音に近づいて、頬を軽く指で撫でた。

 夏音はくすぐったそうに小さく笑った。

 平和な光景だが、新島が思い出したのは十年前の惨状だった。

 新島が乗っていた長門は訓練の為に沖縄基地で停泊していた。大陸では血で血を洗う戦争をしているというのに、日本は呑気なものだった。

 基地の外では反戦活動家がプラカードを持って、熱い中で汗をかきながら叫んでいた。

 基地にいると聞こえる彼らの言葉に嫌気が差した新島は許可を貰って市街地に出た。

 色々とぶらついた結果、道が分からなくなり、適当に彷徨っていたその時、悲劇が空から降ってきた。

 住宅地は火の海になり、瓦礫の間にはさっきまで穏やかに生活していたであろう死体が挟まっている。

 そこは地獄と化した。

 一変した景色の中、新島の頭から何か透明な物が抜け落ちた。

 そしてそれを埋められないまま新島は今日に至る。それでも彼が失った物はそれだけだった。

 五体満足で生きているし、失った感情にこれといった未練もない。

 ただ、戻ればいいなと思う様な感覚だった。だが同時に感謝もしていた。

 あの痛みを的確に想像できてしまったら、今頃自分は廃人にでもなっていたかもしれないと新島は考えていたからだ。

 普段と違い、優しい雰囲気の新島に谷岡は提案した。

「あ、そうだ。あれやってみせてよ。あたしじゃ全然してくれないの。他の人でも試したけど、するのは新島君だけよ」

「・・・・・・別に嬉しくないよ。こいつが今年でいくつになると思ってるんだ?」

「だからよ。もう最後かもしれないでしょ? ほら、やってみて」

 早くと急かす谷岡に押され、新島は仕方なく夏音の頬に指差す様に手を伸ばした。人差し指で柔らかいほっぺたを軽く触れると、谷岡のいうあれが起こった。

 夏音の顔は寝たままゆっくりと動き指を探し当てると、かぷっと咥えた。

 それを見て谷岡は頬に手を添え喜び、新島は辟易する。

「やーん。可愛いー。どうして新島君の指だけこうなるのかしら?」

「くすぐったいんだよな、これ。噛まれそうで怖いし」

 ちゅぷちゅぷと指を咥える夏音を見ていた二人に頭上のスピーカーから圭人が注意した。

「あのー。あんまりうちの姉で遊ばないでくれますか?」

「ごめんごめん。でも遊びじゃないわよ。睡眠時の行動は深層心理に結びつくの。これも一種のセラピーね。診断の結果、夏音ちゃんは甘えん坊って事が分かったでしょ?」

 谷岡は白衣を翻して、いかにもといった様子を見せた。

 だが圭人はのせられない。

「そんなの物心ついた時から知ってますよ」

 先程からの不機嫌を引きずる圭人に、新島は夏音から指を離した。

 離すとき、夏音は物惜しみそうに唇を動かした。

「悪かったよ。お前は仕事に戻れ」

 ポケットからハンカチを取り出し指を拭く新島に、圭人は「了解・・・・・・」と言って沈黙した。

 新島は気を取り直し、夏音の顔を見つめた。そしてなるべく優しく名前を呼んだ。

「カノン・・・・・・。カノン・・・・・・。昼寝は終わりだ。もう起きなさい」

 新島の声に反応して、夏音の口元や目元、指がむずむずと動き出した。

 そして眩しそうにうっすらと瞳を開けた。

「・・・・・・あれ? 真一君・・・・・・・・・・・・おはよー・・・・・・」

 まだ視界が定まらないまま、夏音は気の抜けた挨拶をした。

 新島は呆れ果てている。

「おはようじゃない。もう夕方だ。とっとと起きろ。肩はどうだ? 痛むか?」

 新島に訊かれ、夏音は軽く左腕を動かした。どうやら痛みはないらしい。

「うーん・・・・・・。多分・・・・・・、大丈夫・・・・・・です・・・・・・」

「寝るな! 今からお前と情報共有しないといけないんだよ。ほら。あとお前・・・・・・。ちょっと汗臭いぞ」

 その一言で夏音の目はばっちりと覚めた。急に恥ずかしそうに顔を赤くし、かけていたブランケットで身を包む。

 ダンスが終わってからすぐ倒れた事を思い出し、新島を牽制する。

「ちょ、ちょっと! セクハラですよ! 近寄らないで下さい!」

「はいはい。早くシャワー浴びてこい。終わったら仕事だ」

 そう言って、新島は夏音から離れた。

 ラボの隣の部屋にやって来て、谷岡が淹れたコーヒーの残りをマグカップに注ぐ。そのまま電子煙草を取り出し、喫煙所代りに一服した。

 新島が出て行ったのを見て、谷岡は夏音にそれとなく尋ねた。

「夏音ちゃん。寝てる時の事、覚えてる?」

「え? やだ、あたし何か言ってました?」

 ぽかんとする夏音。谷岡はにっこり笑って、首を横に振った。

「ううん。覚えてなかったらいいの。さあ、早くしないとまた彼が怒り出すわ」

 谷岡はそう言うと、ラボの奥に繋がっている共同シャワー室のドアを開けた。

 夏音は不思議そうに小首を傾げ、シャワー室へと入って行った。

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