月夜にガラスの靴は逝く

第15回(10月8日〜)

お題・転ぶ ・ガラスの靴 ・立て掛けたまま、 ・もう一度確認して ・「怪我はない?」







 「あっ」

 一言の声を残して、カタい靴の音が途絶えた。ほんの目の前、何の変哲もない退屈な世界に、すっと咲いていた一輪の花。太陽の消えた暗がりに、淡く輝く月の影。この整った、しかし薄汚れた空間に佇む、たったひとつの光が、陰の中へと落ちて消えた。

 月色の髪は光を見失い、鈍く闇にまみれてゆく。しゅんと縮こまった白い肩。動かない小さな背中を、曇色の髪が撫で落ちる。起き上がる気配がないことをもう一度確認して、灯火を吹き消さないよう静かに声をかける。

 「怪我はない?」

 転ぶ彼女の様子は、さほど大事ではなさそうだった。しかし今、その仄かに明るい肌に見たのは、ねっとりと伝う一筋の紅。とっさに、目で源流をたどった。柔い皮膚に被われた足。ぬくもりを孕んだ太もも。キラリと、月明かりを受けて、欠けた透明が居場所を主張していた。

 崩れたガラスの靴を拾い集め、庭の屑籠に放る。少女に刺さった破片も、取り除こうとする。彼女はその手を振り払った。戸惑う顔は見えたのだろう。こちらを見ずに立ち上がると、地を小さな裸足で踏みしめ、まっすぐ屑籠に向かった。

 冷たい石で描かれた道から、生まれてからまだ踏まれたこともない芝の場に足を入れる。さう、という柔らかく、慣れない音が夜に響く。彼女はその先で屑籠を手にすると、芝に向かって大きく放った。無色透明が月と舞う。光を残した欠片の雨は、ふっ、と音を立て地に落ち着き、殺風景な地べたに夜空を描いた。幻想的。そんな言葉が、脳裏を掠めた。

 「柱に立て掛けたまま、でしょ? あなたのヴァイオリン」

 不意に耳に訪れたのは、彼女の声。彼女が転ぶのを見て、ヴァイオリンはその場に置いてきてしまっていた。

「持って来なさいよ。寒空の下、かわいそう」

 すぐに取りに向かった。月明かりに照らされ、冷え切った木製のフォルムは、哀愁という色を、どことなく漂わせていた。

「ねぇ、弾いて。せめて、靴が安心して旅立って行けるよう」

 彼女の麗しい瞳が、ヴァイオリンを映す。地上と天界の星空が、光る。

 弦をおもむろに構えると、悪くない空気を胸いっぱいに吸いこんだ。

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