虚無

 偵察総局の工作員であるキムは、その身につけてきた殺しの全てを披露する機会がやってきたことに静かな興奮を覚えていた。これは最もタフな仕事だ。

 日本の公安の武装工作員の国内アジトの連中を血祭りに上げる。4人では難しい仕事だが、困難は喜ばしいことだ。

 古今東西の工作員の例に漏れず、キムは祖国と指導者に対して狂信的な信仰心を持っていた。捕虜にされたときは、すぐに奥歯か直腸に仕込んだ自殺用毒アンプルを噛む。それすらはぎ取られたら、胃の中に仕込んだケース入りのアンプルが排泄されるまで待ってから、それを服用する。

 キムは工作員の分隊ではポイントマン(一番手)で、いつもVZシリーズのサブマシンガンを使うことを好んでいた。

 ポイントマンはその死傷率の高さと、誤射の可能性から、凶暴で残酷な人間が選ばれる。根っからの殺人鬼に適正がある職業だ。

 大型拳銃程度の軽量小型さと、コントロールしやすい連射速度で、単発の威力をカバーし、フルオートで胸か太ももを打ち抜いた後、頭をとどめとして撃ち抜くことを好んでいた。


 中東では、ハマス・ヒズボラ・イラン・シリアを支援し、それでアメリカ・イスラエルの工作員や現地の敵対勢力の要人を処理していた。

 もちろん、ライフル・拳銃・機関銃・狙撃銃・RPG・爆発物等の訓練も非常に好成績を誇っていた。

 それだけでなく、主体撃術と呼ばれる格闘術にも秀でている。素手、ナイフ、投げナイフ、スコップ、着剣小銃、対武器、対多数訓練で構成される訓練は過酷で、死者も出る。

 キムは1対3,1対8の手順通りの対多数訓練だけでなく1対15の自由訓練も多くこなし、もちろん何度も成功してきた。

 もちろん、ナイフや素手での暗殺も幾度となくこなしてきた。

 キムは殺しのプロだ。他の三人と同じように。




 キムは恐怖を感じていた。今まで見たことのない、初めての敵だ。銃弾が効かない相手など、今の今まで遭遇したことはなかった。

 VZ61。32ACP弾のフルオート射撃をマガジンひとつ分たたき込んだ瞬間、リロードすることもなく、AKS-74Uに切り替えた。拳銃弾では埒が空かない。5.45ミリのライフル弾をたたき込んだが、つま先から頭まで何一つ傷がない。

 フラッシュと、気の抜けたサプレッサーからの音が響き渡った。旧式のサプレッサーのため、マズルフラッシュまでは抑えきれない。

 たった一人の女相手に、赤ん坊の頃から殺しを教育されてきた殺人マシーン達は撤退を選択した。

 制圧射撃をしながら、すぐに閃光手榴弾と催涙ガス弾を投げ込み、煙幕手榴弾を足下に撒き、逃げ出した。

 もちろん、キム達は足も速い。化け物が嘔吐と一時的な失明、失聴状態、方向感覚の喪失、催涙状態から回復するまでに、遠くどこかへ逃げ去り、車に乗って退散した。




 キムはアジトに戻った後、アジトとは全く違う場所で工作員が使用する擬装用の英語のウェブサイトに加工・暗号化された音声ファイルを報告としてアップロードした。

 これは工作員の間でよく行われる手法だ。

 もちろん、ブリーフケースにはすぐに発射できるようにしたVZ、コートの下にはGLOCK19、ナイフ、それに敵に効果があった閃光手榴弾、ボツリヌス毒素を含んだアンプルを発射できる暗殺用のペンを下げている。

 もちろん銃には消音器付きだ。

 その場所を出ると、殺気を感じた。

 もう後ろには、あの化け物がいた。指を、頭の後ろに当てている。キムは死を覚悟した。心拍数が低くなっていく。人は殺しに慣れると、危険なときに心拍数が下がるようになる。

「ハロー。日本語わかる?」、気の抜けたような、殺意が全く感じられない声だ。友達に話しかけているような喋り方をしている。それは最も危険な人間の話し方のひとつだ。

 キムはゆっくりと振り向いた。

 女は茶髪で髪が長く、気の抜けたような表情と笑顔を持っている。身長も普通、体格も普通。愚図、のろまと言われるようなタイプの女だ。

「俺は日本人だ」

「あの時は韓国語で喋ってたよね?」

「在日韓国人だ。同胞と会話するときに昔の祖国の言葉を使わないのか?」

 実際、それは事実だった。それは日本語の方だったが。キムは拉致された日本人と、元スペツナズのソ連人の子供だった。ソ連人の方は反ソ反中を推し進めたNO2だった金正日の政争で処刑され、母親は香港で韓国のNISに暗殺された。

「ふーん。ま、どうでもいいか。ちょっと付いてきてもらうよ」

 キムはこの化け物をどうしようかと考えていた。ブリーフケースからVZを撃ち込むか、ナイフを抜くか、殴打するか、閃光手榴弾を口に噛ませるか。化け物は、足は速くない。

 それでもダメなら、奥歯のアンプルの出番だ。

 化け物は、思い出したかのようにブリーフケースを蹴り飛ばした。ブリーフケースの中で、VZが揺れる音がした。

「あっぶな。それってマシンガン?が入ってる奴だよね」

 キムは武器を失ったことに舌打ちをした。

 蹴りかたから見ると、訓練を受けていそうだが、ケースについてマシンガン?と言った。銃器については詳しくないか、それとも使えるが、興味がないタイプかどちらかだ。後者は、特殊部隊にもいる。

 どちらにせよ、すぐに取り上げなかった時点で銃器については詳しくない。使えるわけでもなさそうだ。工作員なら興味がなくても、すぐに警戒する。

 素人だ。武術か格闘技を習っている自警団か民兵?

 この女にはきっと銃は必要ないだろうが。

 それならば、あの魔法を使われる前に、手持ちの武器でいくらでも殺害出来るはずだ。

 だが、意図がわからない。それに、なぜか殺す気にはなれなかった。

「君は何の目的で俺に接触している?」

「スカウトだね。公安のアジトを襲撃して全員殺したでしょ。あなたは一体何者?」

「俺は自警団だ。日本が嫌いなんだ」

「嘘だね」

 女の指から、緑の光が放たれた。

「俺は、共和国の偵察総局出身の工作員だ。殺しが専門のポイントマンだ」

 キムは舌打ちをした。余計なことを話してしまった。この女の魔法だ。殺意もきっと抑えられている。

「共和国?偵察総局?うーん、知らないなぁ。中国のことか」

 女は耳に付けたインカムで、誰かと会話している。

「北朝鮮ね、なるほど」、女は頷いた後、素晴らしい笑顔を見せた。




 そして、死の天使はキムに手をさしのべた。





「世界解放戦線へようこそ。我々の目的は、世界を崩壊させること。一緒に人を沢山殺そう?」



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