手紙
――まぶしい。
瞼の裏に光を感じて、もぞもぞと宗助は動き出す。
視界に見慣れた天井が飛び込む。
そこはベッドの上で、枕元に置いたスマートフォンで確認した時刻は、すでに十一時を少し回ったくらいだった。
――朝ご飯、作ってないな、そういえば。
真理はどうしただろうか、作って食べただろうか。自分の分も作ってくれていると、いいな……。
まだ眠っている頭で、そんなことを考えながら、宗助は体を起こす。
ずきりと頭に痛みが走る。
妙な寝方をしたのだろうか。
昨日は確かに遅くまで、コードを書いていたか。
一応出来上がって、それから寝て――。
――違う。
脳裏に昨晩の夢と真理の姿が思い浮かぶ。
白い空間に一人いた真理。
真理以外の声。
自分を殺すと言ったその声と、それを引き受けた真理に驚いて起きて、そして、暗い部屋の中で真理を見た。
どんな顔をしていたのかは分からなかったが、その後から記憶が無い。
ちらと周囲を見渡して、異変に気付く。
――ない。
ハッキング用のプログラムを入れたデスクトップが、丸ごと無くなっていた。
机の上に空虚なスペースが広がっている。
「……は?」
宗助はその一言を、どうにか絞り出す。
ベッドから降り、意味もなく机の下やベッドの下をのぞき込んだりして、消えたものを探すが、当然何も見つからない。
「真理……真理!」
第一容疑者の名を叫んで、家中を探す。けれど、これも見つからない。
深いため息をついて宗助は、リビングのソファに身を沈める。
この広い家で、宗助はまた一人になった。
しかも今度はパソコンも盗られて。
◆◆◆
昨日の夢を――いや、真理が言う彼岸での出来事を思い返すべきだ。
目覚めの一杯として淹れたコーヒーを飲みつつ、宗助は記憶をたどる。
あの声。
真理に指示を出していた声は、自分を殺そうとしていた。
山未宗助という人間が、自分たちの世界を脅かす敵の身内だと認識していた。
そして真理は、それを知りつつ、自分と行動を共にしていた。
思い返せば、それらしい所はあった。
父親の事をどう思っているか。
父親が何をやっているか。
とかく彼女は、自分の父親についての質問をよくしていた気がする。
彼女は――知ろうとしていたのだ。
自分たちの敵がどういう存在で、どういう考え方をしていて、家族にどんな顔を見せていたのか、を。
必要とされていると思っていた。
父親に振り向いてほしくて身に着けた技術が、世の中の役に立つと思っていた。
真理が自分を、山未宗助という人間を見ていると思っていた。
でも違う。
彼女が求めたのは、あの父親の子供だった。
山未宗助という人間じゃない。山未宗助という人間の立場だったのだ。
――結局。自分はただ利用されただけだったのだ。
瞳の奥が熱くなる。
何かが頬を伝っていって、それに気づいて、何かをごまかすように息を吐いた。
生まれて初めて自分を見てくれる人が現われたと思った。
今まで独りぼっちで、世界から隔離されていたが、ようやく世界と関われる転機が訪れたと思った。
自分を必要としてくれる人がいて、その人と一緒に世界を救うために戦えると思った。
自分が誰かを救えると思った。
――誰かに愛されているとさえ思っていた。
昨日の本屋巡りでの出来事を思い出して、額を小突く。
馬鹿だ。
あれもきっと彼女の演技だったのだろう。自分から有益な情報を盗み出すための。
結果として目論見はうまくいった。
アンシャル社に入るためのプログラムが入った場所を聞き出すことに成功したのだ。
だから彼女はあのデスクトップを持って行ったのだろう。
全て、自分一人が勝手に思い込んで舞い上がっていただけの、話。
その結論に至り、宗助は今日何度目とも知れぬため息をついた。
敵の人となりがこれ以上分からないと知り、組織の基地に潜入するための手筈も整ったとなれば、自分はもはや不要だろう。
だからあの声は、自分を単なる危険因子と捉えなおして、殺害の命令を真理に出したのだ。そして自分は彼女に襲われた。
……ん?
おかしい。
なぜ、自分は生きているのだろう。
あの声は、自分を殺せと言った。そして真理には、それを正確に遂行できるだけの力があるはずだ。
しかし何故か自分は生きている……。
まさか、真理は――。
インターホンの音が鳴り響く。
――真理に鍵は渡していない。
宗助は玄関まで走り、急いでチェーンを外して扉を開けた。
扉の前で待っていた人物は、突然勢いよく開いた扉に驚いて声を上げる。
「――えっと……」
扉の前に立つ少女が言った。
「尋ねといて何なんだけど……。どうしたの?」
困惑した様子の風許が、そこにいた。
◆◆◆
「……なんか、久しぶりだね、家に上げてもらうの」
どこか居心地が悪そうに、テーブルの椅子に座る雅がそう言った。
「……いつ以来だっけ」
キッチンでコーヒーを淹れながら、宗助が言う。
ポコポコという、コーヒーメーカーの作動音が部屋に響く。
「確か、山未君の――」
そこまで言って、雅は慌てて口をつぐむ。
「――母さんが死ぬちょっと前くらい以来か」
そして宗助が雅の言葉を継いで言う。
コーヒーメーカーの音が止まる。
食器棚から取り出していたマグカップにコーヒーを注いで、角砂糖とフレッシュと一緒にカウンターに置く。
「ごめん」
「いいさ」
はい、と宗助がコーヒーを雅の前に運んで置く。
ありがとう、と雅がコーヒーを一口飲む。
雅の向かいに座って、宗助もコーヒーに口をつける。
――さて、何をしに来たのだろうか。
宗助は、コーヒーに視線を落として何か考え事をしている雅に探るような視線を送りながら、思案していた。
彼女の言う通り、雅をこの家に上げたのは二年以上前の話だ。
上げたのは、というより、彼女がこの家に来たのは、という方が正しいかもしれないが。
なぜ今になって、ここにやって来たのか。
「あのさ」
不意に視線を上げて、雅が宗助を正面から見つめる。
「山未君のお母さんが入院してた頃、わたしもお母さんと一緒にお見舞いに行ってたの、覚えてる?」
「うん」
「その時にね、山未君のお母さんが、わたしのお母さんに頼み事をしてたみたいでね」
ごそごそと、雅は持ってきていた紙袋を漁り、一枚の封筒を取り出した。
それがテーブルの上に置かれて、そっと自分の方へと差し出される。
どこにでもあるような茶封筒だった、自分の名前が書かれていること以外は。
「山未君が十五歳になったら、これを渡してほしいって言ってたみたい。山未君、もうすぐ誕生日だよね」
「――あぁ」
「本当は、誕生日に渡した方が良かったのかもしれないけど、わたしのお祖母ちゃんが事故で怪我しちゃって……。命に別状は無いみたいなんだけど、明日からお見舞いに行かなきゃいけなくなっちゃって……」
「――そっか」
「中身は見てないけど……たぶん、手紙だと思う。触ってみた感じ、そんな風だったから」
「わかった、ありがとう」
テーブルの上の封筒を取ろうとして、自分の手が震えていることに気づいた。
――なぜだ。
自分でも理解しがたい感情が、胸の中に渦巻いている。
母からの手紙を喜んでいるか。中に何が書かれているのか分からないから、おびえているのか。
深く息を吐いて、気持ちを静めてから封筒を自分のほうへと寄せた。
「……わたしの用事は、それだけ、だったんだけど……」
「ん?」
「そういえばさ、山未君って人魚姫の小説って持ってる?」
「あったと思うけど……どうして?」
「ほら、文化祭で人魚姫の劇やるって言ってたでしょ。だから、読んどこうと思って」
「原作も知らないのにやるつもりだったの……?」
「そんな事無いけど……。ただ、わたしが持ってるのって、絵本だから……」
「わかった」
確か最後に読んでいたのは真理だったか。
真理に貸していた部屋に向かう。
彼女には両親の寝室を、そのまま貸していた。
あるとすれば、二つ並んだベッドに真ん中のボードの上くらいか。
見ればそこに人魚姫の小説が――無かった。
ひとまず、部屋の中を一通り探してみるも、小説は見つからなかった。
「……失くしたっぽい」
リビングに戻り、雅にそう告げながら席に座る。
「そっか……」
「そっちが帰ってくるまでに、もう一度探しとく」
「ごめん、よろしく」
ぺこりと雅が頭を下げる。
それと同時に、机の上に置かれた彼女のスマホが、メールを着信する。
届いたメールを確認して雅は、
「ごめん、お母さんからだった。そろそろ帰るね」
と立ち上がった。
「えと、じゃあ、帰ってきたら、また来る、ね」
玄関で雅が、しどろもどろにそんなことを言った。
「わかった」
宗助が答える。
あとは雅が背にしている扉を開いて帰宅するだけだったが、雅は、しかしそこで動きを止めていた。
やがて目を閉じて深呼吸をして、意を決したように口を開いた。
「――あのさ。次に会った時からで良いんだけど、さ」
すぅっと、雅の目が宗助をまっすぐに捉える。
「また、そーちゃん、って呼んでも、良い……?」
思いがけない要求に、宗助は、思わず息をのんでいた。
そして、しばらくしてから、自分でも驚くほど穏やかな口調で、
「学校じゃ、ちょっと恥ずかしい」
と返していた。
それを聞いて雅は、少しきょとんとしてから、吹き出していた。
つられて宗助も笑って、ひとしきり笑った雅が口を開く。
「じゃあ今度、人魚姫を借りに来る時は……?」
「その時は、良いよ」
「わかった」
「約束だからね」
「――わかった」
それじゃあ、と来た時よりも、いくばくかスッキリした顔になった雅が、そう言って帰っていった。
鍵を閉めてリビングに戻った宗助は、テーブルの上の茶封筒に視線を向けた。
さっきまであった困惑のような感情は、今は少し鳴りを潜めていた。
今は自分が独りではないと思えたからだろうか。
だから。
そっと、その封筒を開けた。
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