1-11 記述『言霊の災う世界』

時間というものは感情を風化する。昨晩は取り憑かれたかのようにドッペルゲンガーを殺すことしか考えていなかった柊だったが、今は落ち着いている。元々殺すほどの何かをされたわけじゃないんじゃないか、少し諍いがあっただけですぐ「ぶっ殺すぞ!」という発想に至るなど、過激派ヤンキーくらいのものだ。柊は踏みとどまった自分を内心で褒める。


朝の教室はいつものように喧騒に包まれていた。


しかし、事は全て柊の思惑通りに進むわけではなかった。思惑と言ったが、柊はドッペルゲンガーがどんな行動をするか、全く考えてすらいなかったのだ。自分がどう動くかという事で頭が一杯で、相手をまるで見ていない。

愚かなことに、当の柊は自分の思考があまりに一方通行なことに気がついていない。

関わりを持たずに、何事もなかったように接しよう、と決意する柊。だから教室のドアが開いて、ドッペルゲンガーが教室に入って来たのを横目でチラと確認した時も、平常心でいよう、と特別気にかけることもなかった。


…。…。


ゆっくりした足取りで近づく足音。木戸の話ではドッペルゲンガーの席は廊下側の最後列、ドアのすぐ近くの筈だ。


…。…。


しかし足音は机を通りすぎ、向かう先はーー


…。…。


柊は足音が接近するのに気がつき、顔を横に向けた。警戒の眼差し、恐怖の面持ち。柊には余裕がある筈なのに。異能の力を奴から奪った筈なのに。堂々と近づく自分そっくりの人間は、とても大きな捕食者に思えた。

木戸が気づいて立ち上がりかけるが、座り直して成り行きを見守る。木戸だけではない。クラス中が固唾を呑んで見守っている。


朝の教室を、静寂が支配する。

窓から聞こえてくる、外で遊んでいる生徒や登校中の生徒の声が、一際大きく聞こえた。


極度に張り詰めた空気を最初に破ったのはイスに座ったままの柊だった。彼が勇敢なのではない、黙っていることに耐えられなかったのだ。イスから立ち上がることも叶わないくらい、足に力が入らない。ドッペルゲンガーがすぐ近くまで迫る。唇が、歯が震える。舌で唇をひと舐めして、ようやく口を開く。

「な…なんだ、何か用か。」

「…」

「お、お前、カバン、どうしたんだ?持って、ないじゃないか。忘れた、のか?」

「今日はいらないんだ。」

「そうだな。今日はいらないな。」

そうだ。今日は学校でカバンはいらないんだ。俺は何を言っていたんだろう。

「立て」

ドッペルゲンガーは柊の襟元を掴んでグイと引っ張る。どこにそんな力があるのか、柊の身体は簡単にイスから離れ、引っ張られるYシャツに、喉が締め付けられる。

「全員、そこから動くな。」

ドッペルゲンガーは再び立ち上がりかけた木戸を目端で捉え、制する。木戸は立っても座ってもいない中途半端な姿勢で固まる。そして身体が動かないことに唖然としている。そしてクラス全体が恐怖に包まれる。誰もの身体が金縛りにあったかのように、ピクリとも動けない。中には何かを叫んで気力で動こうとする人もいるが、結果は無意味だった。


柊もまた動けない。塞がれる喉を開くように上を見上げ、やっとのことで呼吸を保っている。足は地を踏んでいない。自分を吊り上げるドッペルゲンガーを振りほどくことも叶わない。

「くっ…はぁ、はぁ、はぁ、ゲホ、ゲホ、ぁ、はぁ、はぁ…」

「何もしなくていいのか?」

対するドッペルゲンガーは冷徹な目で嘲笑する。最低な顔だ、と生き写しのような自分の顔を眼球だけを動かして捉え、酷い嫌悪を覚える。絶対優位な立場から人を見下す顔だ。自分以外はゴミとでも言いたげな。


ドッペルゲンガーの手が離れた。柊の身体はドサリと床に崩れ落ちる。痛い。脚がへんな方向に曲がっている。しかし、動かして体勢を直すことはできない。

「黙って、死ぬのか?」

ドッペルゲンガーは制服のズボンのポケットから銀の刃を取り出す。地に転がる柊の元にしゃがみ、柊の太腿にその刃先をつと当てた。

「刺すよー。」


ーーズブリ。


柊の口から音にならない悲鳴が溢れる。悲鳴だけではない、涙も。出てこないのは自分の吐息。あまりの痛みの感覚に、呼吸を失う。教室の中の至るところで、怒号が聞こえる。その場から動く事はできずとも、口だけは自由に動くという皮肉な状況。いやーー口だけではない、腕も動く。それを利用して筆箱や水筒をドッペルゲンガーに投げる生徒もいる。しかしどういうわけか、その全てはドッペルゲンガーから1mくらい離れた場所で急速にスピードを失い、地に落ちる。そしてまた、カランカランと水筒が転がる音が一つ増えた。


「ぅ、あ…」

甘かった、甘かったのだ。柊はこの男を舐めていた。見くびっていた。

あれ、俺は今何をされてる、何をしている。

「次は腹のあたりいってみよっかー。」

刺された太ももの所のズボンが暖かい液体で濡れている。気持ち悪いーー


ーーズブリ。


しかしそんな感情もすぐに痛みで流される。腹に深く刺さったそれを、柊は真っ赤な目で虚ろに見る。なに…した…?残虐に笑う男がそれを引き抜く。鮮やかな赤の液体が白の制服を染める。暖かい。

(やばい…これ、血、か…意識が…やばい…)

「次は目玉?」

グッタリした脳内に男のカラリとした声が侵入する。何を言ったのだろう。わからない。今、なんて言ったんだ?


「!」

ハッと気がつけば、右目の前に銀の点。昨日も怯えた銀の一転。すぐ近くで存在を主張するそれに、柊は瞳を震わせる。呼吸が早くなる。痛みの感情は、今度は恐怖の感情の波に流される。だめだ、やめろ、やめろ、やめてくれ…

「じゃあいっくよー。」

銀の刃が柊の眼球に迫る。

やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだーーそうだ!


急にクリアになった頭に、一度は捨てた考えが蘇る。そうだ、これで、全てがーー


教室から、窓から、色んな人の叫び声が聞こえる。みんな、どうしたんだろう。内容は聞き取れない。まぁいい、全て、俺が解決してやる。


「…ね」

「え?何?」

心なしか嬉しそうに耳を寄せるドッペルゲンガー、目の前のドッペルゲンガーに、今度はハッキリと告げる。



「…死ね!!!!!」



たくさんの何かが倒れるような、崩れるような音が響き、直後、音が止んだ。

静かだ。物音一つしない。窓から吹いた湿った風が、柊の頬を撫でた。


「はははははははははははは!やってやったぞ!はは!最初からこうすれば良かったのだ!はははははは!」

仰向けに寝転んだ状態で高笑い。そして高笑いできる事に驚き、傷が完治している事に気がつく。刺された腿も腹も、今は痛くない。

「奴が死んだから…?いや死んだからってその人の行動が消えるわけじゃないよな…」

柊の横には、ドッペルゲンガーの死体が転がっている。その手首を取って、脈がない事を確認。殺害の成功を確信し、急に恐ろしい気持ちに襲われる。人を、殺した。俺が、殺した。周りで見ていたクラスメイトはどんな顔で俺を見ているだろうか…


柊は恐る恐る立ち上がる。。血で濡れたYシャツとズボンが気持ち悪い。

「こ、これはだな…」

教室の中を見渡し、弁明を試みる。そして刹那、柊は言葉を失った。


誰も柊を見ていない。誰も動かない。誰も立っていない。誰も座っていない。

全員が床や机の上に潰れていた。突然全員の力が抜けたかのように、その場に転がっている。



「おい…どうしたんだよ…おい!お前ら!」



机の上に上半身を乗せ、下半身は床に垂れている状態の隣の席の木戸をゆり動かす。

「おい!…おい…。おい?」

目が開いたまま動かない。柊が彼の彼の起こすとグニャリと床に転がった。まるでーー人形のように。



「し…死んでる…」



柊の目が大きく開かれる。

「なん…で…」

後ろから再び、湿った風が吹き付けた。振り返って窓の外を見る。視界に映る全員が、地面に転がって動かない。まさか…こいつら、全員……

「おい…おい…クソっ。」

「おい…くっ。」

「おい…おい…」

「…」

「…」

「」

「」

「」

「」

「」



柊は教室の全員の状態を確認して、教室の外に出た。廊下にも、人間が、死体が、無造作に散らばっている。


柊は教室を出て、生者を探して歩いた。歩いた。歩いた。しかし一歩を踏み出す度に、死体に出会った。息をしている人間は一人もいない、ただ柊を除いては。


柊は学校の門を出た。外はどうなっているだろう。そう思っての行為だが、出てすぐに引き返した。学校の中と、何も変わらない世界が広がっていた。



生温い風が、柊の前から吹き付けた。



柊はスマホを取って電話をかけた。父に、母に、柚希に、祖父に、祖母に。

しかし応答した人はいなかった。


柊は教室に戻ってきた。

一つ思いついたのだ。

自分の持つこの力があれば、世界を変えられる。

この絶望的な世界を、終わらせられる。


転がるクラスメイトを一巡。そして、言霊を放つ。



「ーー全員、生き返れ。」



柊はじっと待った。一分二分と時計の針の音だけが響く。誰も起き上がる事はない。



「ーー全員、生き返れ。」



強く、強く想いを込めて。されど結果は同じだった。



「みんな、生きろ!」


「生き返れ!」


「全員起き上がれ!」


「立ち上がれ!」


「返事をしろ!」


「生き返れ!」


「全員が生き返る。」


「命を取り戻す。」


   ・

   ・

   ・


あらゆる言葉で蘇生を試みる。しかし結果は変わらない。



「なん…なんだよ、俺の、せい、ってのかよ…」



柊は膝をついてポタポタと大粒の涙を落とした。誰もいない。誰も答えてくれない。

柊は世界にたった一人。みんなを生き返らせる手段もない。それなら…もういい。

終わってもいい。生きていても仕方がない。



「俺は、死ね。」



…………



「死ね、俺、死ね、死ねよ、俺!どうして、なんで、なんでこんな時に力がないんだよ!どこ行ったんだよ!俺にどうしろってんだよ!死ねよ!俺は死にたいんだよ!こんな世界…いやなんだよ…」



消え入りそうな柊の叫びは、誰の耳にも届かない。

そんな世界が完成した。


9月4日の出来事である。

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