豪商マティネラの懸念
目覚めた女性が洗顔や着替えなどの準備を済ませ、メイドの案内で食堂に入ると、広いテーブルの向こうにいた恰幅の良い初老の男性が席を立った。
「マティネラさん、おはようございます」
女性は男性の名を呼び、にこやかに挨拶した。
「シュオ様、おはようございます」
女性にマティネラと呼ばれた男性は、彼女に近づくと、床の上に片膝を着いて、うやうやしく薄くなった頭を垂れる。
「や、やめてください。お世話になっているのは、こちらなのですから……」
シュオと呼ばれて、マティネラにかしずかれた女性は、恐縮しながら後退り、目の前の斜め下にある彼の頭に向けて、両手を開いて回すように振った。
その様子を忌々しげに見る少女が、テーブルの席に一人いる。
マティネラの娘、エンヴィだった。
マティネラは立ち上がると、振り返ってエンヴィを叱る。
「エンヴィ! おまえも挨拶をしないか!」
エンヴィは、聞こえないように溜め息を漏らすと席を立ち、ウェーブのかかった長い金髪を一度だけ掻き上げると、スカートを両手で摘んで軽く持ち上げ、シュオに向かって面倒臭そうにお辞儀をした。
「おはようございます。シュオさま」
そしてエンヴィは、少しだけ顔を上げてシュオを睨む。
なぜ、こんな化け物相手に毎朝、頭を下げなければならないのか?
彼女の眼は、そう語っていた。
それにはエンヴィなりの理由もある。
いつまでも若い、この愛人のせいで、自分の母親は父親に愛想をつかして、辺境の別宅に逃げてしまった。
エンヴィは、そう思い込んでしまっていた。
真相は、魔天使かつ英雄の一人であるシュオを自分たちの屋敷で匿っているという重圧に、エンヴィの母親、つまりマティネラの妻の精神が耐え切れず、心を壊して療養の為に辺境にある別荘で治療を受けている。
魔天使と英雄、そしてシュオという存在をエンヴィが知識だけでなく、肌で実感していたのなら、マティネラとシュオが肉体的な関係を持ち、母親がそれを憂いていたなどという誤解が生じることもなかったろうが、彼女は自分が生まれてくる以前の常識など理解できるはずもなかった。
マティネラは、その誤解に気が付いていなかったが、エンヴィにシュオの立場を幾度となく説明してきた。
しかしエンヴィに、それらは浮気を誤魔化すための方便だと思われていることを、マティネラは知らない。
そしてシュオも、まさか自分がエンヴィにマティネラの愛人だと思われているとは、考えた事すら無かった。
シュオはエンヴィの敵意むき出しの視線へ愛想笑いを返す。
「お先に失礼します」
エンヴィは、それを無視して視線を外すと、別の扉から出ていこうとした。
彼女のそばにいた専属のメイドが、慌てて主人よりも小走りに先行して扉を開ける。
「アジュリテ、後で新しい朝食を部屋まで運んで貰えるかしら?」
エンヴィは扉を開けてくれたメイドへ意味深に微笑んで、そう頼んだ。
アジュリテと呼ばれたメイドの少女は、少し怯えるような表情になったが、頬を赤らめてもいる。
「エンヴィ! 待ちなさい!」
マティネラの静止の声にも耳を貸さずに、エンヴィは食堂から出て行った。
アジュリテは非常に礼儀正しくマティネラとシュオに向けてお辞儀をしたが、エンヴィに命じられたことを忠実に実行するために、厨房へ向かうために、彼女の後を追うように部屋から出て、静かに扉を閉めた。
その様子を、ただ力なく見送っていたマティネラが、シュオへと振り向く。
「申し訳ありません、シュオ様。娘には後で良く言って聞かせておきますので……」
「いいえ、気になさらないでください」
シュオは苦笑いしつつも優しく答えた。
ここ数年は、この繰り返しだった。
母親がいなくなって数日後、娘の反抗的な態度を初めて見たマティネラは、まだ幼かったエンヴィに対して度を越した強い折檻をしてしまう。
娘の為を思ってした事だが、それを後押ししたのは間違いなく魔天使、英雄、そしてシュオという存在への強大な畏怖だった。
もしシュオの機嫌を損ねでもしたら、娘は殺されてしまうかも知れない。
だが、そんな父親の恐怖で曲がってしまった愛情を幼かったエンヴィが分かろうはずもなく、結局は彼女が父親に対して更に心を閉ざす結果になってしまった。
そして、その態度がより強く父親の焦りを引き出してしまい、さらなる体罰が娘に科せられてしまうことになった。
エンヴィは、まるで躾けられた犬のように朝食には必ず出席し、シュオに向かっていやいやながらも挨拶を欠かすことは無くなった。
彼女にとって、それはまるで豪奢な服を着せられた奴隷の気分だった。
いっそのこと、母親のそばに行かせて欲しいと哀願もしたが、辺境で静養中の母親は社会から隔絶されている。
これから社会勉強を重ねて、いずれは王家と繋がりのある婿を貰い、立派に家名を継いでほしいマティネラにとって、大事な一人娘のわがままにしても聞くわけにはいかない願いだった。
しかし、そんな過去から時が経ち現在に至ると、マティネラの心境にも変化が訪れ始める。
昔の彼の『娘に言い聞かせる』は、体罰を意味していたが、今は文字通り説得するに留まっている。
長い間、記憶を失ったままなシュオの優しさに触れている内に、彼の彼女に対する畏怖の感情は次第に薄れていった。
娘が大きく育って、見かけとシュオ以外に対する礼儀作法が、淑女として成長してきたことも、彼の焦りを取り除く要因になっていた。
しかし、それでもマティネラには拭えない不安が存在する。
一つはシュオが記憶を失っている件だ。
シュオは恐怖の象徴たる魔天使だと思えないほど穏やかで優しく、イメージしていた英雄と違い、気さくな性格だった。
しかし、その人格も記憶が戻ってしまうと、豹変してしまうかも知れないと、彼は考えている。
さらにマティネラには、シュオが記憶を取り戻した時に、怒りを買うであろう懸念があった。
シュオを見つけた時に、恐らく彼女の子供であろう赤ん坊の遺体を河原に置き去りにしてしまったことだ。
酔っていたとはいえ、自分は何て愚かな行為をしてしまったのだろう?
マティネラは悔やんでも悔やみきれない気持ちを常に抱えている。
シュオを助けて屋敷に戻った翌朝、とりあえず寝てもらっていた彼女を風呂に入れさせるため、メイドに脱衣所へ案内させた。
すると、慌ててメイドが自分を呼びに戻って来る。
マティネラがメイドに手を引かれて、脱衣所へ向かうと、上半身裸になったシュオの背中を見せられた。
その背中には、肩甲骨のあたりで縦に走る二本の長い傷跡があった。
それを見た瞬間に、マティネラは顔面蒼白になる。
シュオは天使サルヴァティアへ忠誠を誓う際に、魔天使の証である一対の黒い翼を自ら引き千切ったという逸話を、彼は知っていた。
赤ん坊の亡骸を回収しに行き戻ってきた護衛の剣士に尋ねると、遺体は野犬か何かに掘り返されたのか、埋めた場所に既に無かったと言われた。
マティネラは自分のことを棚に上げて呆れ、剣士を叱責し、対応に苦慮した。
しかし当時は、たまたま身体の同じ場所に傷のある、似たような白髪の女性だという可能性も捨てきれなかったので、マティネラは女性に事情を説明せず、内緒にしてしまっていた。
彼はその判断も現在では大きく後悔している。
助けた女性がまったく年を取らず、未だに若いままだったからだ。
もはや、彼女が人間でない事は明白だった。
「どうかしましたか?」
マティネラを現実に引き戻すかのように、シュオが声をかけてきた。
気が付くと彼は、既に朝食の続きを摂るために席へ戻っていて、対面の席にはシュオが座りながら食事をしている途中だった。
「あ、いいえ、なんでもありません。シュオ様」
マティネラの額には汗が滲んでいる。
「その『様』というのは、止めていただけないのでしょうか?」
「あ、あなたのような方に対して、そういうわけには参りません」
シュオは手にしていたスプーンを静かに置いて、真摯な瞳でマティネラを見つめる。
そう見られても震え上がらなくなるくらいは、マティネラにも慣れというか、胆力はついてきていた。
「私は、本当に、その……シュオと名乗った魔天使の女性なのでしょうか?」
「記憶を無くされているので、疑うのも無理はありませんが、私が見た容姿に似ていることと、その……」
マティネラは一度だけ口ごもる。
「いつまでも若く、お美しい姿が、その……」
「人では有り得ない?」
「はい、恐れながら……」
そのことに関しては、シュオも同意見だった。
自分は少なくとも人間では無い。
その事実を、この十数年間、いやと言うほど突き付けられてきた。
だから引き籠もるような生活が続くのも、やむを得ないと思っている。
そして、今朝の夢である。
「私、今朝まで夢を見ていたんです」
「ど、どのような?」
シュオは頬を赤らめた。
男性との性交の夢でもあるからだ。
その部分を詳しく話すことが、彼女には無理だった。
「私とそっくりな人がシュオと名乗って、黒い翼を折る夢です」
彼女は恥ずかしそうに、その夢の一部だけをマティネラに語った。
マティネラは心臓を掴まれたように苦しくなり、息をする事すら重く感じ始める。
「そ、それで、記憶は戻られたのですか?」
彼女の態度から予想はついたが、確認せずにはいられなかった。
シュオは俯いて、弱々しく首を横に振った。
マティネラは少しだけ安堵の溜め息を漏らす。
彼女がシュオであるかどうかは、彼だけの問題では済まされない。
もしシュオ本人であれば、魔神討伐に関して全てを知っているはずだ。
世の中では魔神が滅んだことになっている。
しかし誰も、その現場を見た者はいない。
ただ地上に黒い翼を持った魔天使たちが現れなくなり、魔者や魔獣たちは散り散りになって、魔の眷属のほとんどが地獄へ通じるダンジョンへと還っていった。
その状況証拠だけで人々は、魔神の討伐がなされたと喜んでいるに過ぎないのが実情なのだ。
マティネラは、一介の商人で抱え込むには荷が重すぎるこの問題を、国王へ打ち明けようかどうかで散々と悩んできた。
しかし、今までシュオのことをひた隠しにしてきた事もあり、罰せられるのではなかろうか? との思いもあった。
何か手土産が必要だ、と彼は考えた。
そのためには、いっそシュオの記憶が戻って欲しいとすら思っている。
そうすれば少なくとも魔神が滅んでいるのか、それとも未だに存在しているのかが分かる。
それさえ分かれば、国王に相談する切っ掛けにもなるし、今なら対策の立てようもある。
それで娘と世界が救われるならば、自分の命など安いものだと、彼は真剣に考えていた。
事実、戻って欲しくないと思いつつも、シュオの記憶を呼び覚ますための手助けを、マティネラは積極的に行なっていた。
なるべく食事を一緒に摂り、記憶が戻っていないかどうか確認するのも、そのためだ。
無理やり娘を同席させるのも、親子という存在を見せて、子供がいたであろう記憶を呼び覚ますためである。
そんな相反する思いに囚われながら、十数年を魔天使と過ごした彼の心は、疲れ切ってしまっているのだった。
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