練習と稽古

「大丈夫よ、レフティ。ここまで来たら……」


 アリシアは近くの森を抜けて辿り着いた、村の外れにある診療所の玄関の前で、そう笑って答えた。

 その顔に無理をしている様子は微塵みじんも無い。


「でも、義姉さ……」


 アリシアはレフティの口を人差し指で閉じた。

 彼女は少しだけ怒った表情をしている。

 レフティは相手の言いたい事を察して、慌てて言い直す。


「アリシア義姉さん、本当に付き添わなくて大丈夫かい?」


 エレナは、レフティの初めて聞くアリシアの呼び方と、少し照れた顔を疑問に思いながら、二人のやり取りを横から眺めていた。


「診療所の中まではいいわ。お仕事があるんでしょう? お昼に一旦、家に帰る時にここに立ち寄って、迎えに来てくれればいいわ。それまで診察を受けたら、診療所の中にあるベッドで休ませて貰うから……」


 義弟を宥める義姉の優しい表情になりながら、アリシアは近づいてレフティの頬をてのひらでる。

 レフティはアリシアを、そっと抱きよせようとした。

 アリシアは、その行為を片手を挙げて制止しようとしたが、ふとエレナの方を見ると、親友は何かを察したのか、少し離れた場所で既に二人から背を向け、空を見上げていた。

 そんなエレナの後ろ姿を少しだけ哀しそうな、申し訳なさそうな瞳でアリシアは見つめる。

 そしてレフティの方に向き直ると、彼の抱擁ほうようを受け入れ、軽く、短く、口づけを交わした。


 アリシアと別れたレフティ達は、さらに先の方にある森の中へと進む。

 周囲に盗賊など外敵の野営の痕跡こんせきが存在するかどうか。

 人間に危害を与えそうな大型肉食獣の糞や毛などが落ちていないかどうか。

 レフティとエレナは周囲を見て回ったが、特に村に危害が及びそうな異常は見当たらなかった。


 小さな山の上に少し開けた場所があり、二人はそこに辿たどり着く。

 その場所からは村が一望できた。

 レフティは見回りの時にはいつも、そこにある岩場に腰を掛けて、自分の住む場所を眺めながら休憩を取るのが好きだった。

 エレナも立ったままで同じ視界を共有する。

 二人の後方の遥か遠くには更に高い山々が有り、その雪が溶けて川となり村の近くを流れている。

 小山から少し歩いた場所には滝があって、水飛沫みずしぶきのあがり続ける音が、二人の耳にもわずかに届いていた。

 エレナは左手で右腕のひじに触れながら、うんと右手を挙げて背筋を気持ち良さそうに伸ばす。

 彼女は視線を感じたので横を見ると、レフティが見つめていた。


「なに? レフティ」


 レフティは何か尋ねたい事がありそうな表情をしていたので、エレナはそう言ってうながした。


「エレナも義姉さんの事を最初の頃は、おねえちゃんって言ってたよな?」


 レフティのアリシアに対する呼び方が、いつものに戻っていた。


「うん、そうだね。それが?」


 エレナは、その奇妙な質問を不思議に感じながらも、微笑んでレフティに質問の続きを尋ねる。


「いつから義姉さんの事を名前だけで呼べるようになったんだ?」


「んん〜?」


 エレナは困惑こんわくした表情になった。

 レフティの質問の意図も分からなかったが、いつからだと改まって問われても、直ぐに思い出せる程に最近でもない。


「ん〜、なんか年齢を重ねて、いつの間にかかなあ?」


 エレナはあごに人差し指を当てて、まゆを寄せた。


「何かあったの?」


 レフティはエレナの問いかけに何故か恥ずかしそうに視線を外し、言うか言うまいか悩んだ顔をしたが、結局は口を開く。


「義姉さんに言われたんだ。結婚したのに未だに義姉さん呼びは、おかしいって……名前で呼んでくれって……」


「ああ……それで、今はアリシア義姉さんって呼び方で妥協だきょうして貰っているんだね?」


 エレナは先程の診療所でのレフティとアリシアのやり取りに得心とくしんがいった。

 レフティは、どうしてそこまで分かるんだ? と、少し驚いた顔をして振り向いている。


「そうなんだよ! やっぱり周りの、ご近所の人達だって、いつまでも義姉さん呼びじゃ変に思うだろう、ってさ」


 エレナは少しだけ考えると、もう一つ何かを理解したかのような顔をレフティに向ける。


「それは、建て前だよ」


「建て前?」


 今度はレフティがエレナの言っている事が分からず、困惑してしまう。

 エレナは、そんなレフティの顔が可笑おかしかった。


「きっとアリシアは、ただ単に名前で呼んで欲しいだけだよ」


「ただ単に、名前で呼んで欲しいだけ?」


 エレナはレフティの質問に、こくりとうなずく。


「それはアリシアが、レフティの事を大好きだからさ。好きな人には名前で呼ばれたいからね」


「好きな人には名前で呼ばれたい?」


 レフティは今ひとつ理解できない風だった。

 エレナは、しょうがないなあ、と思いつつ、上手い例えが見つかったので彼に尋ねてみる。


「レフティだって、子供の頃みたいにアリシアに『あんた』って言われるよりも、名前で『レフティ』って呼ばれた方が嬉しいでしょ?」


 レフティは、その光景を想像すると納得したように顔がほころんだ。


「ああ、確かにそうだ……その通りだよ!」


 レフティは気付いたと同時に落ち込む。

 その変わりようを見て、エレナは再び彼に尋ねる。


「でも、今さら名前だけで呼ぶのが恥ずかしいから悩んでいる。図星ずぼしでしょ?」


 レフティも再び驚いた顔をした。


「あ、ああ……その通りなんだよ。どうしたら、いいかな?」


 エレナはうつむいて人差し指でひたいを押さえた。


「うーん、慣れるしか無いんじゃない?」


「そっか、そうだよなあ……」


 レフティは、がっくりと項垂うなだれる。

 その様子をエレナは横目で見つめた。

 彼女の瞳が潤み、頬に赤味がさす。

 少しだけ唇が開き掛ける。

 そして、キュッと一度だけ閉じた。

 しばらくして意を決した彼女は、レフティに提案をする。


「私で……練習してみる?」


 レフティは、ゆっくりと顔を上げてエレナを見た後で、不思議そうに尋ねる。


「練習?」


 エレナはレフティの方に身体を向けると、片手を胸に置いて自分を示した。


「私の事をアリシアだと思って、名前だけで呼んでみてよ?」


「エレナを義姉さんに見立てて、名前を呼ぶ練習か……なるほど」


 レフティはエレナの練習といった理由と、その内容に納得した。

 しかし、笑顔になると彼女に向かって軽く頭を下げる。


「ごめん、やっぱりエレナはエレナだよ。仮にとはいえ、義姉さんだと思うような事は出来ない」


 そう言って微笑むレフティに、エレナは紅潮し鼓動が高鳴っていく。

 少しだけ嬉しそうな、それでいて寂しそうな表情を、彼女は彼に対して向ける。


「そっか、少し残念だな……」


 自分を個として認識してくれている喜び。

 それでいて相手の一番では無いという事実を突きつけられた寂しさ。

 自身にもたれかかってくる感情を振り払うように、エレナは片手剣を抜いて構える。

 迷いを遠くへ飛ばすように軽く剣を振った。


「じゃあさ、また稽古けいこをつけてよ?」


 レフティは立ち上がると、背中の両手剣を外して応える。


「ああ、いいぞ?」


 レフティはエレナに向けて剣を構えると、不敵に笑う。


「よし! いつでも来い!」


 エレナは一度だけ大きく深呼吸すると、レフティに向かって突進した。

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