14杯目 不養生につき

 完全に気を抜いていた。

 そうとしか思えない。

 学校帰りになんとなく怠いと思ったその夜、有紗は突如高熱に見舞われた。

 いくら布団を掛けても寒く、喉も腫れて、咳も出る。

 幸い、家の最寄り駅近くに総合病院があったので、翌日朝、フラフラになりながら駆け込んだ。

 梅雨の蒸し暑い時期だというのに、長袖にマスク。人目を気にして冷却ジェルを額に貼るのだけはやめたが、そのことを少し後悔しながら待合室で一人熱に震えていた。

 ――病院なんて久しぶり……。

 一人暮らしを始めてから病院にかかったのは初めてだ。

 目の前を通り過ぎる人。血圧を測っている人。体温三十八度越えの視界には、何もかもが揺らいで見える。

 問診票に症状を書いたが、それもちゃんと書けているか怪しいほどだ。

 後は呼ばれるのを待つだけ。

 最も長い時間が始まった。

 混み合った待合室は存外騒がしい。走り回る子供こそ居ないが、多くの人で熱気が上がっているように思えた。

 あつい。でも、さむい。対極の感覚が交互に襲ってくる。

 ――なにか食べてくれば良かったな……。でも、作るほど元気ないし、食欲ないし……。帰ったらどうしよう……。ご飯、誰か作ってくれないかな……。

 ひもじいというよりも、寂しい。一人暮らし最大の難点が病気になったときだと、今まさに思い知っている。

 ――コンビニでご飯買って……。スーパーの方がいいかな……。でも、ちょっと遠いな。何処かでスポーツドリンク買って……風邪用ドリンクも買っとこうかな……。

 朦朧とする頭で、買い物メモを作っていく。病院を出るまで覚えていられる自信が無いが、生憎、紙とペンを持っていない。

 食べ物。スポーツドリンク。できたら風邪用ドリンクも。

 その三つを反芻しながら、寒気のする腕をさする。

 一人呼ばれ、また一人呼ばれしているのに、待合室の人数は減る様子がない。

 この期限の見えない待ち時間が、弱った身体には拷問のようだ。

 ――息、あつい……。

 目を閉じてみれば、自分の心音がいやに大きく聞こえてくる。

七園ななぞのさん。七園有紗さーん」

「はぁい」

 きちんと名前を呼ばれることにちょっとした新鮮さを感じながら、よろよろと立ち上がる。

「中にどうぞー」

「はぁい」

 中待合に案内され、一番端の仕切りの中に通された。


 病院長 近衛


 入り口の名札に、そう書かれていた。

 ――院長先生なんだぁ……。

 楽になるように薬を処方してくれるのならば、実のところ誰でもいい。

「七園さん。どうぞ」

 呼ばれ、中に入った。

 初対面の筈の、やや目つきの悪い初老の医者に、何故か既視感を覚えた。

 ――変な感じ。ついこの間会ったみたい。

 妙な感覚に囚われながら、簡単な問診、診察と流れるように進んでいく。

 咳も酷いから念のため、と、レントゲンを撮ることになり、今度はレントゲン室の前でぼうっとしていた。

 こちらは余り待たずに呼ばれ、撮影が終わると写真を持たされてまた内科に戻った。

 ――ごはん。のみもの。ごはん。のみもの。

 頭の中が単純化され、買い物メモがいつの間にか二つになっていた。

「肺は綺麗なので、まあ、風邪ですね」

 聞く前から殆ど解っていた答えを改めて告げられ、有紗はただただ頷いていた。返事以外、何か言うほどの元気も残っていない。

「二、三日はゆっくり静養してくださいね」

「……はい」

「お大事に」

「……はい」

 ぺこりと頭を下げて外に出たが、最後まで既視感が拭えなかった。

 元気があったのならこう訊いていたかも知れない。

「何処かでお会いしたことありましたっけ?」


   *


 近くの薬局で散々待たされ、コンビニになんとか寄って帰宅した。

 買ってきたのはゼリー飲料とスポーツドリンク、それと、風邪用ドリンクだ。

 一時、省略されてしまった買いたいものをよく覚えていたと、自分を褒めたい気持ちになった。特に、ドリンク剤を買った辺りを、だ。

 栄養をつけなければ治るものも治らない。

 きゅっ、と蓋をひねって口を開ける。

 生薬の妙な匂いがするが、ままよと、一息に飲み干した。

 ――あれ……。美味しい。

 以前飲んだときは壊滅的に美味しくなかった記憶がある。

 この不味そうな匂いが美味しいとは余り良くない気がして、急いで簡単におなかを満たし、貰った薬を飲むと布団に潜り込んで上掛けを抱えた。

 寒気は大分遠くに行った。けれど熱はまだ高い。

 うとうととしながら、診察してくれた先生のことを思い出していた。

 誰かに似ているような気がしてならない。特に目元が、知っている誰かに似ている。

 ――ああ、そうだ。

 思い当たる人が一人居た。

 ――そうだ。ジャックさんに似てるんだ。

 早く元気になって大学や有栖川茶房に行きたい。

 その後、有紗は夕方まで昏々と眠っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る