6杯目 スノーホワイト

 昨日、劇的大改装が行われてしまった喫茶店は、今日もまだ和風のままだった。

 夏に向けて威力を増してきた陽射し射す青空の下、『有栖川茶房』と書かれた見慣れない木の看板が当然のように風に吹かれている。

 当然と思って良いのか、異常な状態が続いていると思った方がいいのか。昨日の宇佐木の泣きそうな顔を思い返せば、たった一日で元に戻るのも酷に思える。

 実は、漠然と不安に思って足を運んでしまったものの、これと言って用事はない。

 ――どうしよっかな。

 道に人通りはほとんど無い。立ち尽くしたままでも不審者を見る目を向けてくる者も居ないのだが、

 ――ここまで来て帰るのも、ね。

 白いシールで隠されていたメニューも今日は提供されているかもしれない。

 結局昨日と同じように引き戸を開けた。

「こんにちはー」

「おー、アリスー。毎日ありがとなー」

 聞き慣れたドアベルの音がしないのが少し寂しい。

 その代わり、真っ先に宇佐木の声が迎えてくれた。

 何となく空間ががらんとしているのは、人口密度がいつも以上に低い所為だろうか。

「今日は宇佐木くん一人?」

「桂は休憩中。てっさは多分そこら辺にいるぜ」

「そうなんだ」

「今日はな、ちょっといい物手に入ってさぁ――」

 カウンターの中で作業をしながら宇佐木が話しかけてくれていたのだが、途中から耳に入ってこなくなった。

 和風喫茶になっても健在である木製カウンターの上に、白い物がある。

 目に入った瞬間から釘付けになってしまった。

 それは丸くて。小さくて。けもけもしていて。ちょっと灰色も混じっていて。

 ――なんだろ。これ、なんだろ。

「―――。―――?」

 興味のままにカウンターに引き寄せられていく間に、聴覚は情報の受付を休止した。


   *


 突然アリスが瞠目して、声を掛けても反応しなくなってしまった。

 彼女はじわりじわりと近寄って来るも、視線の先はやや斜め下方の、恐らくカウンターの上。

 ――何か変なモンあったかな。

 宇佐木とアリスの間には物と段差があって彼女が何を見ているのかがすぐには判らない。覗き込んでみようとした、その時、

「ねえ、カビた大福が落ちてるよ!」

 見ていたと思しき場所を指差して、アリスが顔を上げた。発した言葉の内容にはそぐわないきらきらした目をして、少し興奮気味だ。

「え? カビ?」

 訳が解らないまま彼女が指差した場所を覗き込む。

 確かに、大福のような白いけもけもがカウンターの上に転がっている。しかし、これは大福ではなく、

「って、イトーくん、上に戻ってなかったのかよ。ごめんな、アリス。飲食店にネズミは流石にまずいだろ。すぐ退か――」

「だいふく……!」

「いや、これ、イトーくん」

 今日のアリスは変だ。

 スノーホワイトのジャンガリアンハムスターが珍しいのか、こういう生き物が好きなのか。とにかく、何かのスイッチが入ってしまって会話もままならない。

 ――話が一方通行なのは桂だけでいいのになぁ……。何だよもう……。

 その終日一方通行は、今、二階で休憩中だ。この状況に居ないことがせめてもの救いか。

「ち……?」

「カビ大福が動いた……!」

「だから、カビとか大福とか……」

 飲食店でそういう単語は宜しくない。店内にネズミ、というだけで大問題だというのに。

 丸まって眠っていたイトーくんが、もそりと顔を上げた。まだ眠そうな目をして、あちらこちらを見回している。

「ちー?」

「ほら、アリスだぞ。そっちそっち」

「ちー」

 促してやると、よちよちとゆるい動きで彼女の方へ歩き出した。

「わぁあぁ。こっちきたー!」

「アリス。それ、片付けなくて大丈夫?」

「大丈夫! すんごいかわいい! ね、手に載せてもいい?」

「アリスがいいなら構わないけど、そいつすぐ寝――」

「おいでー、イトーくーん」

 さっきからよく語尾を食われる。

「ちー」

「わぁぁ。ふわふわー。もふもふー。あったかーい。かわいー」

 アリスは目を輝かせて、手に乗せたイトーくんを撫でたり手に含んだりしている。

 イトーくんは別に媚びているわけではない。ありのままで居るだけで、消え入りそうな小さな声なのもいじらしくとろい動きなのもいつも通りだ。

 いつも通りではないのは、宇佐木の方。

 なんというか、この感情。

 もやもや。

 いらいら。

 ――……面白く、ねえ。

「ぶなー」

 口を曲げそうになったとき、ぶさネコに前足でトントンされた。見下ろせば、見上げてくる。

「別に落ち込んでなんてねぇよ」

「ぶーなー」

「うるせえよ。余計なお世話だ」

「ぶなー、ぶなっ。ぶな」

「なんだよ。知ったような口ききやがって」

「ぶーなー。ぶなぶなぶな」

「まあ、……そうだけどよぉ」

「ぶ。ぶなっ」

「わかったわかった。仕事すりゃいいんだろ」

「ぶな」

 ――てっさの癖に正論とか、ムカつくぜ。

 気分切換のために、少し強めに息をつく。

 エプロンの紐を締め直しながら、足でてっさをどかしつつ、

「なあ、アリス。今日はどうする?」

 仕事モードの表情を頑張って作る。

 イトーくんに首っ丈のアリスとは目線が会わないままだが、そこは我慢。

「うーんとねー。なにかいいものあるんだよね?」

 そこを聞いていてくれたのは助かる。

「美味しいカステラが手に入ってさ。メニューにはないんだけど、どう?」

「あ、私、カステラ好き!」

 ぱっと輝いた目のまま、アリスがこちらを見た。カステラとハムスターはどうやら同列らしい。

「飲み物は?」

「冷たい緑茶ってあるかな?」

「あるよ。今日、ちょっと暑いもんな。りょーかい」

 カステラの下りの所だけはアリスの視線を取り戻せたが、再びイトーくんの物になっている。

「……」

 無心になれないまま、注文の品を用意し始めた。


   *


 始めのうちは撫でる指にじゃれていたイトーくんが、だんだん大人しくなってきた。

「おまたせ」

 カステラと緑茶が差し出されたときには、カウンターの上にいたときと同じく丸くなってしまった。

「宇佐木くん。イトーくん、動かなくなっちゃった」

「そいつ、眠いんだよ。さっきもメシ食った直後でウトウトしてたくらいだし」

「そっか。ごめんね、眠いのに構っちゃって」

「ほら、イトーくん。てっさに上に連れてって貰えよ」

「ちー……」

 カウンターまで手を下ろしてやると、消え入るような声で返事をして降りていった。それと同時に、隣の席にどすん、と音を立てててっさがやってきた。椅子に座ったてっさは、カウンターに顎を載せて、じろりとイトーくんを見つめている。

 視線の中、イトーくんは休み休みてっさの方へと歩いていく。やっとの事で辿り着くと、鼻面からよじ登り、頭の上で向きを変え、後頭部を伝い降りて丁度首にまたがるようにして落ち着いた。

 白に白が乗って、境目がほとんど無い。

「またね、イトーくん」

「ち」

 最後に指先で撫でてやると、小さな前足でてっさの長い毛をぎゅっと掴んでいるのが見えた。

 ――可愛い……!

「ぶなー」

 出発の合図代わりに一声上げると、イトーくんを乗せたてっさはどすんと床に降りて、宇佐木が開けたドアを通って二階へと消えていった。

 本音を言えばもう少し構っていたかった。

 けれど、眠いのであれば仕方がない。それにてっさは、それ以上触るなとばかりにこの手から離れるように去ってしまった。

 彼らは物ではない。生き物だ。

 今日は興奮してそれを忘れてしまっていた。

 ――いけない、いけない。

「てか、アリスってハムスター好きなの?」

 カウンター越しに宇佐木が話しかけてきた。そういえば、今日は彼との会話もおざなりだったように思う。

「ハムスターが好きっていうか。もふもふしてるのが好き、なのかな」

「もふもふかぁ……。そっかぁ……」

 腕を組んだ宇佐木は、変な顔をしている。どういった風に変かと言えば、緩んでいるというか、照れているというか。

 こんなはにかんだ顔は始めて見た。初対面の時には無愛想だと思っていたのに、最近はまるで形を潜めている。

 それにしても、この流れで何故、宇佐木が鼻の頭を掻いて目線の先に困っているのか解らない。

「どしたの? 宇佐木くん」

「あ、いや。なんでもない。それより食えよ」

 ――えー、なにそれ。

「ほらっ。五三カステラに抹茶入り緑茶をどーぞ」

「うん……」

 質問を許さない強引さに、それ以上聞くことを諦めて出されたものに向き合った。

 厚めに切られたカステラはふたきれ。冷緑茶は背の高いグラスにストローが刺さっている。

 初夏ではあるが、涼しげでいい。英国風喫茶では味わえない雰囲気だ。

「いただきまーす」

 今日は感情の入れ替わりと起伏が激しい日のようだ。引っかかりは残ったままだが、物を食べるときくらいは忘れよう。

 黄色みの強いカステラを、早速フォークで切り取った。

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