2杯目 マッドハッター

 おかしな喫茶店に足を踏み入れたのは先週のこと。

 翌日にでも再び訪れたかったのだが、都合か付かずに結局一週間が経ってしまった。

 授業が終わったのはおやつより少し前の時間。

 今日こそ喫茶店日和。

 有紗は重たい鞄を抱えて有栖川茶房へと直行した。

 道は覚えている。脇目もふらずに店を目指す。今回は特段の発見も出逢いもなく目的地に到達した。

 ――そういえば、この間の人、気になるなぁ。綺麗な人だったなぁ。


 ちりん。りりん。


 邪念まみれで扉を開けると、前回と同じく少しだけ気の抜けた鈴の音がした。

 無意識に、はっ、と息を呑んでいた。

 始めて来たときには意識していなかったが、この喫茶店の空気は独特だ。非日常が立ち籠め、落ち着く一方で僅かに不安でもある。

 先日見かけた人影についてを詮索していたことなどすっかり忘れ、歩を進める。

 奥の席を目指す途中、テーブルを拭いていた人影を思わず二度見した。

「あ、アリスちゃん。いらっしゃーい」

「……」

「また来てくれたんだねー。嬉しいよ」

「……」

 返事が出来ない。

 足も動かない。

 今、自分がどんな顔をしているかも想像が付かない。

「どうしたの?」

「……だって」

 接続詞として及第点が取れるか怪しいが、やっと出て来た言葉はそれだった。

 肩に掛からない程度の長さの茶色いゆるふわパーマ頭が、どうしたら一週間で黒髪ストレートの腰までロングに伸びるのか。しかもポニーテールにしている。

 物理的に有り得ない。

 あり得るとしたら、それは……。

「不思議だろ? あれ」

 ある結論に達しようとしたとき、いつの間にか宇佐木が横にいた。

「うわぁ!」

「有り得ねぇよな」

「い、いつからそこに?」

「へ? 今だけど」

「今って……」

 そもそもどこからやってきたのかも解らなかったというのに。

 ――この人、心臓に悪い。

 まだ落ち着かない鼓動を宥めている横で、宇佐木は腕組みをして桂の方を見ている。

「昨日突然アレだぜ。ビビるって」

「じゃあ、一週間がかりじゃなくて、一日で?」

「そっ」

 もう一度、桂を見る。

 ごく自然な生え際に、綺麗な黒髪。

 ――で、でもでも。今の技術って凄いし。

 目の前にある現実に、必死に理由を付けてみる。

「たまになるんだけどさ、アレ。未だに俺、慣れねぇもん」

「宇佐木くんも真相知らないんだ」

「シラネ。知ってもいいこと無さそうだし」

「引っ張ってみたら?」

「あのなぁ。俺にクビになれってか?」

「そういう意図はないけど、気になるなら、ねえ」

「存外黒いな、アリス」

 名前は違うが黒い部分があるのは認めよう。

 こちらの会話は耳に届いていないのか、桂がきょとんとした顔をして首を僅かに傾げている。

 暫くの沈黙。

 そして何か得心いったようにぽんと手と打つと、

「宇佐木くんとかぶっちゃったねー」

 それこそ意味の解らない発言が飛び出した。

「色も長さも髪型もなーんもかぶってねぇし」

「えー。正面から見てすっきりしてるとこ、かぶってるじゃない」

「俺、そんなにすっきりしてねえよ?」

「あー。飲食店なのに鬱陶しい髪型、いけないんだ」

 一体この人の思考はどうなっているのか。わざとらしく宇佐木を指差している桂を眺めつつ、実はネジが大分弾けて飛んでいるのではないだろうかと疑った。

 思えば、先日も会話の拾う場所や着眼点が変わっていると感じた。まだ、変わり者、で済まされる程度ではあるものの、いよいよ怪しくなってきた。

 その変わり者店主の下で働く店員は、というと、今、酷く不愉快な顔をしている。

「てめぇな。喧嘩売ってんのかハゲ」

「え? ハゲなの?」

 宇佐木が放った突然の禁句に対し、表情を変えたのは有紗一人だった。当事者はまるで意に介さずに、

「嫌だなぁ、宇佐木くん。僕のどこがハゲなのさぁ。ほら、さらさらつやつやキューティクルだよぉ」

 自慢げにその場で一回転した。

 重たそうなポニーテールはふわりと揺れ、コマーシャルのワンシーンのようだ。

 窓からの陽射しがいい演出になって、桂一人が空間から浮いている。

 ついでにもう一回転。

 異世界に行ってしまった桂を、有紗と宇佐木は引き気味に眺めるしかできなかった。

 ――んー……。

 店内に入ってから数分が経つ。十数歩で辿り着く奥の席は近くて遠い。

 この場は放置してしまおうと目線を変えた。

「ぶー」

「あ。てっさ」

 大人しいと思ったら潜んでいたらしい。抜き足でいそいそとやって来る様は、モップが自動で動いているようでもある。

 ふぐ柄の猫は今日は静かだ。しかも、有紗の方は見向きもせずに、ゆっくりとある方向へ向かっている。

 桂だ。

 姿勢を低くしたデブ猫は、獲物を狙う狩人の目をしている。

 その目線の先を追うと、まだ少しゆらゆらしている黒いポニーテールに行き当たった。

「あ。てっさ、ダメ。ダメだよ」

「ぶー」

「怒られちゃうよ。ね」

「ぶなっ!」

 巨体が、跳んだ。

 普通の猫のそれと同じように、軽やかなジャンプ。

 前足が仕留めようとしているのは、揺れる黒い毛先。

 今まさに疑惑が明かされようとしたその時、

「いけない。アリスちゃん来てくれたのに、お茶も出してないよ」

 ひらり。そつのない動きでごく自然にてっさの魔手をかわした。

 かわされたてっさは為す術もなく、突撃した格好のままテーブルの脚に突っ込んだ。

「ぶぼっ」

「ちょっとー。店の中で暴れないでよね。うるさくするなら二階に閉じ込めちゃうよ?」

「ぶーなぁー!」

 身体のどこかを打ち付けて、それなりに痛かったのだろう。泣きそうと解る程、人間で言う眉がある辺りを潜めて、悲痛な声を上げた。

 一方、桂は言いたいことだけ言うとカウンターに入ってしまった。

 てっさはまだぶーぶー言っている。

「ダメって言ったじゃない。痛かった?」

 そっと撫でてあげると、

「ぶなー。ぶなぶなー」

「避けられたのが悔しいんだと。贅肉あるからそのくらいじゃ痛くないんじゃねぇの?」

「ぶな。ぶなな」

「だってデブじゃねぇか」

「ぶー! ぶなーな。ぶなぶな!」

「偉そうに反論してんじゃねぇよ。じゃあ、その腹回りはどう説明すんだよ」

「ぶーなー!」

 有紗の手をすり抜け、今度は宇佐木へと突進していった。

 じゃれ合っているようにしか見えない二人を横目に、付き合う気がなくなった。

「今日は何頼もうかなぁ」

 やっと席に着いたとき、頼んでもいない紅茶が出て来た。

 前回とは違う、少しスモーキーな香りのする紅茶だった。

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