有栖川茶房

タカツキユウト

1杯目 プレオープン

 道端。

 突然眼前を過ぎっていった人影に驚いて、息を呑みつつ足を止めた。

 スマホの画面操作に気を取られ、周りが疎かになっていた。人影は目線もくれずに背を向けて去っていく。どうやらこちらには気付かなかったようだ。

 ――男の人、だよね。

 一瞬だけ視界に入った横顔は、残像に等しい記憶ながらもかなり整っていた。そして、消え入りそうに離れてしまった現在でも見て取れるのは、白かと疑うような薄茶色の髪。背格好と歩き方で青年だと解るが、それにしても目立つ。

 ところで、彼は一体どうして急に姿を現したのか。

 彼の軌跡を辿っていた目線を、つ、と横にずらす。

「喫茶、店?」

 目を遣るまで全く気付かなかったが、そこにはいかにも〝英国風〟のこぢんまりした建物が一軒。

 少し奥まった入り口に、煉瓦と漆喰のツートンの壁。表に見せた梁や、屋根裏を思わせる三角屋根。建築には詳しくなくても、これぞという感じは嫌と言うほど伝わってくる。

 住宅ではないことを示すのはただ一つ。屋号の書かれた木製の看板だ。


 有栖川茶房


 建築と屋号とのミスマッチを感じつつも、なんとなく興味を惹かれた。

 ちぐはぐがいい。

 そもそも、スマホ画面に目を落としていたのも、近くに休める場所がないか検索していたのだ。急な休講、図書館はほぼ満席、学食に行く気分でもなく、殆ど仕方なく外を歩き回っていた。

 まだ慣れない大学周辺には土地勘もなく、頼ったのが地図アプリだった、という次第だ。

 しかもこの店、地図に載っていない。

 途端、口元が緩んだ。

 これは素敵な発見をしたかも知れない。

 喜びと好奇心に背を押され、気付けばアイアンのドアノブを押していた。


 ちりん。りりん。


 少し高めのドアベルの音に気付いて、カウンターにいたゆるふわパーマ頭の店員が顔を上げた。

「いらっしゃい。奥の席にどうぞ」

 言われるがまま、店の奥へと歩を進める。

 サロンのような造りではなくて良かった、と、内心胸を撫で下ろしていた。ひとくちに〝英国風〟と言っても色々ある。貴族の幻影さえ見えそうな高級感溢れるものから、クラシック調から、カントリー調まで。この店はややカントリー寄りのクラシックテイスト、といった感じか。アンティークのインテリアに暖炉もちゃんとあるが、堅苦しくない。少しだけ裕福な田舎のおばあちゃんの家に遊びに行ったような、という妄想が働く。

 ――いいなぁ。落ち着く。

 きょろきょろと一通り当たりを見渡しつつ、漸く一番奥の席に辿り着くと、先ず重たい鞄を置いた。雑に扱わなくてもどさりと音がする鞄だ。その錘のような荷物の隣に腰を降ろす。

「ぶなー」

「へっ……?」

 不細工な声がして、メニューを見ようとした手を止めてしまった。

 それは隣のテーブルの椅子の上。

「ぶなー」

 白い長毛のデブ猫が居た。

 声も見た目も不細工。こちらを見て、とても不満に溢れた表情をしている。太くてふさふさの尻尾をぱたぱたと動かしているのは、御機嫌か不機嫌か。

「あー、ごめんね、お客さん。猫、平気?」

 先程カウンターにいた店員の男性が、話し方と同じような速度で、まったりと歩いてきた。

「いつもはあんまり話しかけないんだけどね」

「ぶなー」

「え? ここじゃなくたって寝られるでしょ。文句言うならてっちりにするよ」

「ぶなぁ」

 しょげている。

 そして、猫にてっちりとは。

「この子ね、てっさ、っていうんだ。ほら、黒いブチもあるでしょ?」

 言われてみれば黒くて丸い模様が所々にある。まん丸の身体に黒ぶちで、名前がてっさ。

 成る程、ふぐか。

 お店はいい雰囲気でセンスを感じるも、ネーミングセンスは七十五点。

「ここ、指定席なの?」

「違うよ。午後はそこで寝ようと思ってたんだって」

 猫に訊いたはずだが、答えたのはゆるふわパーマの店員だった。

「そっか、ごめんね? 退こうか?」

「ぶーなー」

 白いデブ猫が何を思ったかおもむろに動き出した。まずは今居た椅子からぼてっ、と床に降りる。あまり長くない足をよたよたと動かし、こちらへ寄ってきた。

 足元までやってきたときにはもう嫌な予感がしていた。

 それを口に出来ないままに、

「おふっ」

 凄まじい体重が足にかかった。

 その巨体でどうやって跳躍したのかなど考える余裕もない。

 猫一匹、こんなに重いものか。もさもさの毛のせいで大きそうに見えるのかとも思ったが、これは本当に大きい。また、中にはとんでもなく重たくなる子も居るとは聞くが、この重さは実に足に来る。

 一方の猫は陣取った場所が気に入ったらしく、動こうとしない。むしろ、力が抜けた所為で余計に重たい。

 どうしたら。

 飼い主、少なくとも世話を見ている筈の店員は、何故か関わる様子が無く、ずっとそこに居るままだ。

 顔を上げて助けを求めるべきか。自力でこの重石を排除するか。もしくは、我慢するか。

 ――どれも無理ー!

「桂ぁ……ってそっちかよ。おっ。いらっしゃい」

 二階から足音が降りてきたかと思うと、もう一人、店員が顔を見せた。

 長身の青年。細身で、綺麗めの顔立ちだが、第一印象はちょっと愛想が悪い。

「ど、どーも……」

 それ以前の問題で、太腿にかかる重圧に負けて芸のない応答しかできなかった。

「あ、宇佐木くーん。てっさがね――」

「って、あのデブ。なにお客さんに乗ってんだよ。しかも足とか。てか、桂も止めろよ。退かせよ」

「だって、あの子重くて僕じゃ持てないもの」

「いっつもトリミング連れて行ってるじゃん! ああ、もう!」

 バリスタエプロンの紐を結んでいた手を急いで動かすと、宇佐木と呼ばれた青年は大股でこちらに来た。

 来たかと思ったらもう横にいた。

 早い。

「退け、てっさ! げ、おまえまた太ったんじゃねぇの? 重てぇな!」

「ぶなっ! ぶなぶな!」

「抵抗すんじゃねぇよ。お前が乗っていいのはソファか椅子の上だけ! 今おまえが乗ってんのはお客さんの足。女の子の足。太腿!」

「ぶななー! ぶなぶなぶな!」

「んぎー! クソデブネコ!!」

 宇佐木が引き剥がそうとするほどに、てっさは足に力を入れてしがみついてくる。

 爪こそ出していないが太腿に加わっている力は相当の物だ。痛いとまではいかないが、圧迫感が半端ではない。

「あわわ。だ、大丈夫ですよ! お茶飲む間くらいは。たぶん……」

 悪循環に巻き込まれた結果、我慢する、という三つめの選択肢を選ばざるを得なくなった。

 完敗。

 項垂れた目の前で、ゆるふわ店員が踵を返した。

「はーい、ご注文頂きましたー」

「てめ、桂。勝手に注文扱いしてんじゃねぇよ。あー、なんかもう、ごめんな」

「あははー。お気遣い無くー。お茶と一緒に、ケーキも頂けます?」

「おう。お茶に合うヤツ持ってきてやるから」

 初めて来たお店でタメ口で応対されている違和感も何処かへ通り過ぎていく。そのくらい猫が重い。気も重い。

 暢気なのは膝の上で喉を鳴らすふぐのような猫一匹。

 気を紛らわそうと、鉛のような鞄から本を一冊取り出した。


   *


 遠くから紅茶の良い香りがしてきた。

 お茶に関しては詳しくないので、この香りの正体は判らない。ただ、紅茶だ、ということだけは確かだ。

 と、てっさがのそりと膝の上から降りてくれた。そして、元居た椅子へと戻っていく。お茶の時間は邪魔しない主義というのならありがたいことだ。

 じんじんと痺れた腿をそっとさすっていると、

「お待たせー。奇をてらおうかとも思ったんだけどね、初めてだし、無難にダージリンだよ。ちょっとブレンドしてるけど」

 桂がおとなしめの飾りが入った白いティーカップを持ってきた。

「わぁ。いい香り」

 しおりを挟んで閉じた薄いミステリ小説は脇に置き、カップを引き寄せ、早速一口飲んだ。

 湯気と共によく知った香りがふわりと上がってくる。ブレンドしていると言っていたが、何をどうブレンドしているかなど判るほど鼻も舌も肥えていない。

 でも、とてもほっとして、そして、美味しい。

「へぇ。素敵なしおりだね。Aはイニシャル?」

 彼の関心は紅茶の感想よりも本に挟んだしおりにあるらしい。

 細長いSの字を描いた金属製のもので、飾りにアルファベットのチャームがついている。ふらりと入ったナチュラル系の雑貨屋で買い、最近のお気に入りだ。

「あ、そうなんです。私、有紗ありさっていうんです」

「アリスちゃんっていうの? いい名前だねぇ」

 つい流れで、そうなんです、と返しそうになったのを直前で飲み込むことには成功した。

 アリサとアリス。

 最後の母音が違うだけとはいえ、それは別物だ。

「あの、違……」

「へー、お客さん、アリスっていうんだ? 店と同じ名前なんて奇遇じゃん」

 訂正すべく発言を始めたところ、ケーキを片手にやってきた宇佐木によって虚しくも掻き消された。

 紅茶の脇にとんと置かれたケーキは苺のミルフィーユ。この時点で何も起こっていなかったのだとしたら、その素朴な造りのケーキにうっとりしながら紅茶と共に頂くのだが、

「えーと、有紗なんですけど……」

 どうしても訂正したい。ほとんど意地のような感情と解っていても、モヤモヤしたままではいたくなかった。

 しかし、

「アリスちゃん。いいねぇ、アリスちゃん」

 駄目だ。聞いていない。

 出所不明の悦に浸って間違った名を連呼している桂。宇佐木は誤認したままカウンターの方へと戻っていってしまった。

「ぶなぁ……」

 不細工な顔を更に潰して、てっさが鳴いている。

 きっと皆に、違うよ、と言ってくれているに違いない。

「よしよし」

「ごろろろろ」

 喉を鳴らしても不細工だ。

 これ以上食いついても誰も相手にしてくれないだろう。今日の所は引き下がり、後の時間はケーキと紅茶に費やすと決めた。

 早速ミルフィーユにフォークを入れ、口に運んだ。

 ――美味しい……。幸せ……。

有紗は暫し、口の中で溶ける甘味に放心した。

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